「巨樹いしかわ」の15周年記念誌に、田中さんご夫妻が「植物紋様雑記」というA4で28頁という長文を寄せられていて、植物と紋様の関わりについて記述されている。その当時田中さんご夫妻は石川巨樹の会の事務局を担当されていて、この役目は旦那さんが亡くなるまで20年間続いた。その後は奥さんも事務局を辞退され、それ以降は、それまで蒐集された膨大な、主として紋様に関わる諸々の事柄の集大成に時間を費やされ、「不思議を訪ねる」というA4で300頁を越す本にまとめられ、自費出版された。その副題には「無用の用・用の用を楽しむ」とあり、これはこれまでご夫妻が興味を持った事象についての備忘録のまとめでもある。ここには、植物、動物、架空動物、鳥、魚、昆虫、紋様、民具・その他の8ジャンルにわたり、256項目について、名称のいわれ、説明、民族文化・伝承・風習・行事との関わり、故事来歴や縁起、紋様との関わり、用途等々、それも古今東西にわたって記されていて、それを読むと、さながら大事な玉手箱から、何が入っているのかと、興味津々な気持ちで、一つ一つ取り出すような感じがあって、実に楽しい。
私はこの中で最も項目数も多く、身近に興味を持てた植物の紋所について、田中さんの本を参考にしながら、小学館の松村朗監修の「大辞泉」から紋所の名と記載のある植物を抽出し、その植物の和名と簡単な説明、〔1〕紋所の由来、〔2〕代表的な紋所の名称 を列記してみた。植物名は50音順とした。
● あおい 葵:アオイ科アオイ属・フヨウ属に含まれる植物の総称
〔1〕フタバアオイ(カモアオイ)を図案化したもので、種類が多い。〔2〕葵巴(葵三枚を巴形にかた どったもので、徳川氏の紋.三つ葉葵、徳川葵)、本田立ち葵など。
● あさ 麻:クワ科の一年草 雌雄異株
〔1〕麻の葉を図案化したもの。〔2〕麻の葉など。
● あさがお 朝顔:ヒルガオ科の蔓性の一年草
〔1〕朝顔の花を図案化したもので、数は少ない。〔2〕朝顔の花など。
● あし 葦 蘆:イネ科の多年草
〔1〕細い葦の葉を図案化したもの。〔2〕二つ葦の葉、違い葦の葉など。
● いちょう 銀杏 公孫樹:イチョウ科の落葉高木 雌雄異株
〔1〕銀杏の葉を図案化したもので、多くの種類がある。
〔2〕丸に立ち銀杏、一つ巴銀杏、三つ銀杏、剣銀杏、五つ銀杏、六つ銀杏など。
● いね 稲:イネ科の一年草
〔1〕稲穂を図案化したもので、数は少ない。〔2〕丸に一本稲、二つ稲、違い稲など。
● うめ 梅:バラ科の落葉高木
〔1〕一重の梅の花を正面や裏から見たものを図案化した「梅花紋」と幾何学構成で花弁が必ず円形の 「梅鉢紋」とがある。
〔2〕梅花紋:梅の花、捻梅、裏梅、横見梅、八重梅、三つ割向こう梅など。
梅鉢紋:剣梅鉢、星梅鉢、加賀梅鉢など。
● うり 瓜:ウリ科の植物のうち、実を食用にするものの総称
〔1〕瓜の花と実を図案化したもの。〔2〕瓜の花、捻り瓜、陰の瓜など。
● おおばこ 車前草 大葉子:オオバコ科の多年草
〔1〕全草を図案化したもの。〔2〕抱き車前草など。
● おもだか 沢潟 面高:オモダカ科の多年草
〔1〕オモダカの葉と花を組み合わせて紋様化したもの。
〔2〕立て沢潟、丸に沢潟、子持ち抱き沢潟、沢潟に水など。
● かえで 楓:カエデ科カエデ属の落葉高木の総称
〔1〕楓の葉を図案化したもの。〔2〕中輪に楓、糸輪に三つ楓など。
● かきつばた 杜若 燕子花:アヤメ科の多年草
〔1〕カキツバタの葉と花を図案化したもの。〔2〕立ち杜若、石山(三花)杜若など。
● かじのき 梶:クワ科の落葉高木 雌雄異株
〔1〕梶の葉をかたどったもので、種類が多い。〔2〕立ち梶の葉、諏訪梶の葉など。
● かしわ 柏 槲:ブナ科の落葉高木
〔1〕柏の葉をかたどったもので、種類が多い。〔2〕三つ柏、抱き柏、結び柏など。
● かたばみ 酢漿草:カタバミ科の多年草
〔1〕カタバミの葉を図案化したもの。〔2〕酢漿草、剣酢漿草、石持ち酢漿草など。
● かぶ 蕪:アブラナ科の越年草 春の七草の一(すずな)
〔1〕葉付き蕪を図案化したもの。〔2〕抱き蕪など。
● ききょう 桔梗:キキョウ科の多年草 秋の七草の一
〔1〕桔梗の花をかたどったもので、種類が多い。
〔2〕丸に桔梗、抱き桔梗、蔓桔梗、三つ割り桔梗、八重桔梗、土岐桔梗、光琳桔梗、剣桔梗など。
● きく 菊:キク科キク属の総称
〔1〕菊の花や葉などを図案化したもの。皇室の十六葉八重表菊のほか種類が多い。
〔2〕十六葉裏菊、十四葉一重表菊、丸に八葉菊、三つ割り菊など。
● きり 桐:ゴマノハグサ科の落葉高木
〔1〕桐の花と葉をかたどったもので、種類が多い。
〔2〕五七の桐、太閤桐、五三の桐、花桐など。
● くず 葛:マメ科の蔓性の多年草 秋の七草の一
〔1〕葛の花や葉を図案化したもの。〔2〕三つ葛葉、葛花、横見葛花、葛花車など。
● くり 栗:ブナ科の落葉高木
〔1〕栗の実と葉を図案化したもの。〔2〕栗など。
● こうほね 河骨 川骨:スイレン科の多年草
〔1〕河骨の葉を図案化したもの。〔2〕三つ河骨など。
● さくら 桜:バラ科サクラ属の落葉高木
〔1〕桜の花を図案化したもの。〔2〕八重桜、一重桜、山桜など。
2013年7月18日木曜日
2013年7月2日火曜日
アニメ映画「王舎城の悲劇」
6月半ばのある日、表題の上映会が野々市市役所の一室であるというチラシが舞い込んでいた。私の家は旧宅と新宅があるが、その両方に舞い込んでいたから、配付した人はそのことには疎い人だったに違いない。ところで上映されるのは6月27日の木曜日の午後1時半から3時半まで、何となく興味がひかれ、出かけることにした。副題には「現代と変わらぬ『家庭悲劇』をハッピーエンドに転回させたお釈迦さまの物語」とあった。
なぜ私が興味を持ったのか、それは浄土宗や浄土真宗の聖典である浄土三部経の中の中経といわれる観無量寿経(観経)で、善導大師が序説とした部分が実は「王舎城の悲劇」の一節であって、このお経には概略のみで詳しい顛末は書かれていないが、これのみでは1時間もの筋を立てるには余程想像をたくましくしなければ無理である。ところで手元にある岩波文庫の「浄土三部経」の下巻の註を見ると、この物語は「涅槃経」にはかなり詳しくその経過が書かれているようだし、日本では親鸞上人が著した「教行信証」には長々と引用されていると書かれている。
チラシに書かれた概略では、「インドで最強を誇ったマガダ国の王舎城に住むビンバシャラ王とその妃イダイケ夫人は、一人息子のアジャセによって虐待され、ついには獄中の人となる。この2600年前にインドで起きた仏教史上最大の悲劇を救ったお釈迦さまの物語」とある。それで私なりに筋を辿ってみた。お経の中に出てくる地名や人名は、原語(岩波文庫の浄土三部経の註から引用)の音訳を漢字で表してあるが、その漢字読みと原語のカナ読みをその後に付した。漢字がない場合は、その部分は仮名書きとした。
ブッダ(釈迦・釈尊)在世時、中部インドでは大国であったマガダ国の首都王舎城(おうしゃじょう・ラージャグリハ)の王宮には、国王の頻婆沙羅(びんばしゃら・ビンビサーラ)と王妃の韋提希(いだいけ・ヴァイデーヒー)が住んでいた。ところで二人の間には子供がなく、心配した王は占い師にそのことを尋ねたところ、ある山で修行している仙人がやがて死ぬが、死後、王子として生まれ変わるであろうと予言した。それにはもう5年待たねばならないと。これを聞いた王妃は、もう5年もしたら私は子供を産めなくなる体になるので、それまで待てないと王に懇願した。すると王は王妃の言を聞き入れ、王は仙人のいる山へ三百の兵を引き連れ、王と王妃は象に乗り出向く。そして端座瞑想している仙人を殺害した。仙人は死ぬ間際に王と王妃を罵り、必ず復讐すると言ってこと切れる。
すると予言通り、王妃は懐妊する。しかし復讐のことが頭から離れず悶々とした日々を送っていた。そこで再び占い師に尋ねたところ、お腹の赤ちゃんは仙人の身代わり、この王子は生まれたら必ず両親へ仇を報ずるであろうと言った.怖くなった王と王妃は一計を巡らし、出産の折に、剣を逆に沢山林立させた剣の林に子を産み落として殺そうとした。ところが運良く赤子は剣と剣の間に落ち、小指を半分切断しただけで助かった。王と王妃は罪もない赤子を不憫に思い、大事に育てることにした。しかしこの事実を知っている者達には厳重な箝口令を敷いた。
王位を継承する王子の阿闍世(あじゃせ・アジャータシャトル)太子は、手厚く育てられ、聡明な子に育った。しかし弓矢を与えたところ、生きるものを平気で殺すという気性があることが分かってきた。弓の腕は大したもので、狙った獲物は確実に仕留めた。この頃釈尊の従兄弟の提婆達多(でいばだった・デーヴァダッタ)は、釈尊の布教には大変大勢の人が集まるのを妬み、何とか釈尊を亡き者にしようと企んでいた。釈尊の一行が旅の途中、山道にさしかかった折、崖の上から大きな岩を落としたり、原では獰猛な象の群れで襲わせたりしたが、岩は外れ、象はおとなしく跪き、計はことごとく徒労に終わった。この頃には、王も王妃も釈尊に帰依していた。
そこで提婆は一計を企んだ。それは太子を味方につけ、太子を新王にし、釈尊の地位に自らがなろうという悪計であった。ある時、太子は家来を連れずに一人で狩りに出た。提婆はこの機会を逃さず、太子に獰猛な虎を差し向かわせた。矢で射殺するには余りにも大きく、太子は観念した。その時提婆が象に乗って現れ、太子を救った。太子は大いに喜び、提婆を王宮に招き入れ、諸事全てを提婆に相談して事を運んだ。太子の信頼を得たのを見計らい、提婆は出生の秘密を太子に吹き込んだ。太子の小指の経緯である。凶暴な太子は大いに怒り、王を周りを堀で巡らした塔の一室に幽閉し、家臣には「食わすな、飲ますな」と厳命した。王は叫んで我が身を嘆くが、どうにもならなかった。王は釈尊に助けを求め、親友の目連尊者を遣わしてほしいと懇願した。当時釈尊は王都を取り巻く峰々の一つの耆闍崛山(ぎしゃくつせん・グリドウフラクータ)(又の名を霊鷲山りょうじゅせん、鷲の峰とも言い、釈尊はこの山を説法の会座としていた)にいた。王が幽閉されている室には高いところに小さな窓があり、光が射し込んでいた。釈尊は十大弟子で神通第一の大目鍵連(だいもくけんれん・マハーマウドガリヤーヤナ)と、やはり十大弟子で説法第一の富楼那(ふるな・プールナ)を遣わして王に八戒を授け、法を説いた。善因善果、悪因悪果、自因自果、因果応報。王は己が修行の仙人を殺し、我が子を剣の林立した所へ産み落とさせたことを懺悔し、悔いた。
王が幽閉されてから、王妃は毎日王に会いに行った。王妃は毎朝沐浴して身を清め、精製したバターに乾飯の粉末を混ぜ合わせたものをその身に塗り、胸飾の中に葡萄酒を入れ、秘かに王に与えていた。王には他の誰も面会できず、王妃のみが会えたが、物を持ち込むことは禁じられていた。こうして王は乾飯の粉末を食べ、葡萄酒を飲み、口を漱ぎ、その後鷲の峰に向かい合掌し、長老の説法を聞いた。この時の王は幽閉の身でありながら、顔の色は穏やかで、喜びに満ちていた。このようにして37日が過ぎた。
幽閉して37日も過ぎたのだから、父王はもう死んでいるだろうと思い、門を守る者に「父王はどうしているか」と問うたところ、王妃が毎日食物と葡萄酒を与えておられること、沙門の長老のお二方が空からやって来て説法されていること、そしてこれらを禁制することは私たちにはできないと。これを聞いた太子は激怒し母に向かい、「私の母は賊であり、沙門は悪人である」と言い、剣を取り母を殺そうとした。その時太子の側には二人の大臣がいた。一人は月光(がっこう・チャンドラプラディーバ)といい聡明で智慧者、もう一人は耆婆(ぎば・ジーヴァカ)という名医で、二人は太子に説いた。「太子よ、はるかな昔より、多くの悪王がいて王位に即こうと父を殺した者は1万8千人にも上る。しかし未だかって母を殺したというためしは聞いたことがない。殺害すればそれは賤民の所行、王宮に住まわせることはできない」と言い、剣の柄に手をかけ、後ずさりした。これを見て太子は剣を捨て、代わりに母である王妃を内務の役人に命じて奥深い部屋に幽閉した。王妃は王に会えなくなり、王は衰弱し亡くなった。この時代は異母の王子が何人もいて、王位に即きたい王子は、時にこういう強行手段に訴えたという。そして太子は王となった。
王毋は愁いに閉ざされ憔悴し、尊者を殺し、我が子をも殺そうとしたことを悔い、この所行は地獄へ行くしかないと悟る。そして五体投地し、哀れみを求めて懺悔した。そして願わくは木蓮尊者と阿難(あなん・アーナンダ)尊者にお目にかかりたいと願い、悲しみの涙を流して、釈尊のおいでる鷲の峰に向かって礼拝した。すると釈尊は王毋の思念を知り、目連を左に阿難を右に侍して王毋の前に姿を現された。釈尊の体は紫を帯びた金色に輝き、天人たちは天花を降らして供養しているのが見えた。王毋は釈尊のお姿を見て、五体を地に投じて礼をし、釈尊の愛おしみを求めて懺悔した。そして私に清らかな行いのある世界を観せて下さいと願った。
こうして王毋は、憎しみ、怒り、呪いのない、ひたすら苦悩のない清らかな世界に生まれたいと願い、釈尊はこれに応えて、諸仏の世界を光明を放って見せしめた。その「幸あるところ」とは極楽浄土であり、その西方浄土を観想するには、心を一筋にし、思いを一処に集中して思い浮かべねばならないと説いた。〔正説〕(一、心統一して浄土を観想する十三の方法、定善十三観)
一方で心統一することが出来ない散乱心の凡夫に対しても、王毋の請いにより、悪を廃め善を修めて浄土往生を得しめる散善を説いた。〔正説〕(二、散心の凡夫、往生を得る九種の方法)
その後、王は父王を殺したことを悔い、王毋を牢より出した。その後、王は重い病気になり、名医の耆婆に導かれて釈尊の教えを仰ぎ、病が癒えて後は菩提心を発して改心し、そして釈尊に帰依することになる。
なぜ私が興味を持ったのか、それは浄土宗や浄土真宗の聖典である浄土三部経の中の中経といわれる観無量寿経(観経)で、善導大師が序説とした部分が実は「王舎城の悲劇」の一節であって、このお経には概略のみで詳しい顛末は書かれていないが、これのみでは1時間もの筋を立てるには余程想像をたくましくしなければ無理である。ところで手元にある岩波文庫の「浄土三部経」の下巻の註を見ると、この物語は「涅槃経」にはかなり詳しくその経過が書かれているようだし、日本では親鸞上人が著した「教行信証」には長々と引用されていると書かれている。
チラシに書かれた概略では、「インドで最強を誇ったマガダ国の王舎城に住むビンバシャラ王とその妃イダイケ夫人は、一人息子のアジャセによって虐待され、ついには獄中の人となる。この2600年前にインドで起きた仏教史上最大の悲劇を救ったお釈迦さまの物語」とある。それで私なりに筋を辿ってみた。お経の中に出てくる地名や人名は、原語(岩波文庫の浄土三部経の註から引用)の音訳を漢字で表してあるが、その漢字読みと原語のカナ読みをその後に付した。漢字がない場合は、その部分は仮名書きとした。
ブッダ(釈迦・釈尊)在世時、中部インドでは大国であったマガダ国の首都王舎城(おうしゃじょう・ラージャグリハ)の王宮には、国王の頻婆沙羅(びんばしゃら・ビンビサーラ)と王妃の韋提希(いだいけ・ヴァイデーヒー)が住んでいた。ところで二人の間には子供がなく、心配した王は占い師にそのことを尋ねたところ、ある山で修行している仙人がやがて死ぬが、死後、王子として生まれ変わるであろうと予言した。それにはもう5年待たねばならないと。これを聞いた王妃は、もう5年もしたら私は子供を産めなくなる体になるので、それまで待てないと王に懇願した。すると王は王妃の言を聞き入れ、王は仙人のいる山へ三百の兵を引き連れ、王と王妃は象に乗り出向く。そして端座瞑想している仙人を殺害した。仙人は死ぬ間際に王と王妃を罵り、必ず復讐すると言ってこと切れる。
すると予言通り、王妃は懐妊する。しかし復讐のことが頭から離れず悶々とした日々を送っていた。そこで再び占い師に尋ねたところ、お腹の赤ちゃんは仙人の身代わり、この王子は生まれたら必ず両親へ仇を報ずるであろうと言った.怖くなった王と王妃は一計を巡らし、出産の折に、剣を逆に沢山林立させた剣の林に子を産み落として殺そうとした。ところが運良く赤子は剣と剣の間に落ち、小指を半分切断しただけで助かった。王と王妃は罪もない赤子を不憫に思い、大事に育てることにした。しかしこの事実を知っている者達には厳重な箝口令を敷いた。
王位を継承する王子の阿闍世(あじゃせ・アジャータシャトル)太子は、手厚く育てられ、聡明な子に育った。しかし弓矢を与えたところ、生きるものを平気で殺すという気性があることが分かってきた。弓の腕は大したもので、狙った獲物は確実に仕留めた。この頃釈尊の従兄弟の提婆達多(でいばだった・デーヴァダッタ)は、釈尊の布教には大変大勢の人が集まるのを妬み、何とか釈尊を亡き者にしようと企んでいた。釈尊の一行が旅の途中、山道にさしかかった折、崖の上から大きな岩を落としたり、原では獰猛な象の群れで襲わせたりしたが、岩は外れ、象はおとなしく跪き、計はことごとく徒労に終わった。この頃には、王も王妃も釈尊に帰依していた。
そこで提婆は一計を企んだ。それは太子を味方につけ、太子を新王にし、釈尊の地位に自らがなろうという悪計であった。ある時、太子は家来を連れずに一人で狩りに出た。提婆はこの機会を逃さず、太子に獰猛な虎を差し向かわせた。矢で射殺するには余りにも大きく、太子は観念した。その時提婆が象に乗って現れ、太子を救った。太子は大いに喜び、提婆を王宮に招き入れ、諸事全てを提婆に相談して事を運んだ。太子の信頼を得たのを見計らい、提婆は出生の秘密を太子に吹き込んだ。太子の小指の経緯である。凶暴な太子は大いに怒り、王を周りを堀で巡らした塔の一室に幽閉し、家臣には「食わすな、飲ますな」と厳命した。王は叫んで我が身を嘆くが、どうにもならなかった。王は釈尊に助けを求め、親友の目連尊者を遣わしてほしいと懇願した。当時釈尊は王都を取り巻く峰々の一つの耆闍崛山(ぎしゃくつせん・グリドウフラクータ)(又の名を霊鷲山りょうじゅせん、鷲の峰とも言い、釈尊はこの山を説法の会座としていた)にいた。王が幽閉されている室には高いところに小さな窓があり、光が射し込んでいた。釈尊は十大弟子で神通第一の大目鍵連(だいもくけんれん・マハーマウドガリヤーヤナ)と、やはり十大弟子で説法第一の富楼那(ふるな・プールナ)を遣わして王に八戒を授け、法を説いた。善因善果、悪因悪果、自因自果、因果応報。王は己が修行の仙人を殺し、我が子を剣の林立した所へ産み落とさせたことを懺悔し、悔いた。
王が幽閉されてから、王妃は毎日王に会いに行った。王妃は毎朝沐浴して身を清め、精製したバターに乾飯の粉末を混ぜ合わせたものをその身に塗り、胸飾の中に葡萄酒を入れ、秘かに王に与えていた。王には他の誰も面会できず、王妃のみが会えたが、物を持ち込むことは禁じられていた。こうして王は乾飯の粉末を食べ、葡萄酒を飲み、口を漱ぎ、その後鷲の峰に向かい合掌し、長老の説法を聞いた。この時の王は幽閉の身でありながら、顔の色は穏やかで、喜びに満ちていた。このようにして37日が過ぎた。
幽閉して37日も過ぎたのだから、父王はもう死んでいるだろうと思い、門を守る者に「父王はどうしているか」と問うたところ、王妃が毎日食物と葡萄酒を与えておられること、沙門の長老のお二方が空からやって来て説法されていること、そしてこれらを禁制することは私たちにはできないと。これを聞いた太子は激怒し母に向かい、「私の母は賊であり、沙門は悪人である」と言い、剣を取り母を殺そうとした。その時太子の側には二人の大臣がいた。一人は月光(がっこう・チャンドラプラディーバ)といい聡明で智慧者、もう一人は耆婆(ぎば・ジーヴァカ)という名医で、二人は太子に説いた。「太子よ、はるかな昔より、多くの悪王がいて王位に即こうと父を殺した者は1万8千人にも上る。しかし未だかって母を殺したというためしは聞いたことがない。殺害すればそれは賤民の所行、王宮に住まわせることはできない」と言い、剣の柄に手をかけ、後ずさりした。これを見て太子は剣を捨て、代わりに母である王妃を内務の役人に命じて奥深い部屋に幽閉した。王妃は王に会えなくなり、王は衰弱し亡くなった。この時代は異母の王子が何人もいて、王位に即きたい王子は、時にこういう強行手段に訴えたという。そして太子は王となった。
王毋は愁いに閉ざされ憔悴し、尊者を殺し、我が子をも殺そうとしたことを悔い、この所行は地獄へ行くしかないと悟る。そして五体投地し、哀れみを求めて懺悔した。そして願わくは木蓮尊者と阿難(あなん・アーナンダ)尊者にお目にかかりたいと願い、悲しみの涙を流して、釈尊のおいでる鷲の峰に向かって礼拝した。すると釈尊は王毋の思念を知り、目連を左に阿難を右に侍して王毋の前に姿を現された。釈尊の体は紫を帯びた金色に輝き、天人たちは天花を降らして供養しているのが見えた。王毋は釈尊のお姿を見て、五体を地に投じて礼をし、釈尊の愛おしみを求めて懺悔した。そして私に清らかな行いのある世界を観せて下さいと願った。
こうして王毋は、憎しみ、怒り、呪いのない、ひたすら苦悩のない清らかな世界に生まれたいと願い、釈尊はこれに応えて、諸仏の世界を光明を放って見せしめた。その「幸あるところ」とは極楽浄土であり、その西方浄土を観想するには、心を一筋にし、思いを一処に集中して思い浮かべねばならないと説いた。〔正説〕(一、心統一して浄土を観想する十三の方法、定善十三観)
一方で心統一することが出来ない散乱心の凡夫に対しても、王毋の請いにより、悪を廃め善を修めて浄土往生を得しめる散善を説いた。〔正説〕(二、散心の凡夫、往生を得る九種の方法)
その後、王は父王を殺したことを悔い、王毋を牢より出した。その後、王は重い病気になり、名医の耆婆に導かれて釈尊の教えを仰ぎ、病が癒えて後は菩提心を発して改心し、そして釈尊に帰依することになる。
2013年6月22日土曜日
改装なった川金・鮎の庄へ香魚を求めて
昨年10月8日に子持ち鮎を食べに川金・鮎の庄へ行った折、改築のため11月1日から翌年4月まで休業するとのことだった。改築前の席数は50ばかり、営業は午前11時からなのだが、土日は11時に行ったのでは既に満席で、最初にありつこうとすれば、10時には着いて事前登録しなければならなかった。土日祝日以外の平日ならば予約はできるが、これまで平日に出向いたことはない。庄川畔には今も数軒の鮎を食べさせる店があるが、この店ほど混み合っている店は他にはない。古くは石川県知事だった中西陽一さんが、よく車を飛ばして食べに行かれたことでも知られている。
今年になって、そろそろ鮎も解禁(犀川は6月15日、庄川は6月22日)になるのにどうなっているのかなと思っていたところ、地元紙に6月1日に新装開店とあった。家内が6月12日(水)に休みがとれるとのことで、早速予約した。当日は天気もよく、家を9時に出て、額菩提樹苑にある三男の墓へ寄った後、山側環状道路、森本IC、北陸高速道、砺波ICを経て、富山県砺波市上中野の庄川畔にある川金・鮎の庄に向かった。10時半に着いた。11時からなので、川金のロビーで暫く寛いだ。改築された鮎の庄は改築前の倍くらいの大きさの平屋建て、以前と比べモダンな感じになった。時間になって促されて鮎の庄に向かう。以前は旅館に垂直に建物が延びていたが、新しい建物は平行になっている。
案内されたのは窓側の6人テーブル、テーブルの真ん中に角形の灰床、以前のは囲炉裏部分が大きくて、皿を置くスペースが狭かったが、新しいのはテーブルも広く、椅子にも余裕がありゆったりしている。以前に比べて角形の灰床の面積は小さいが、でも6人が10本ずつ食べても、十分串を並べるスペースがあり、合理的な設計になっている。とにかくゆったりなのが良い。6人での相席でも十分余裕がある。前は10人席でも10人だと窮屈だったし、小上がりの6人卓も狭かった。職員の服装も、和装から洋装になった。
注文は、取りあえず、鮎の塩焼き10本、鮎の造り1皿、うるか三種盛り1皿、飲み物は銀嶺立山の300mlとノンアルコールビールを1本お願いした。つまみには「ちょろぎ」が出た。〔注:チョロギというのは、中国原産のシソ科の多年草で、栽培されている。秋には淡紅色の唇形の花を穂状につける。この植物の根の先端には、連珠状の白い塊茎が付くので、これを掘り取り、梅酢で赤く染めて食用に供する。地方によっては、正月料理には黒豆との取り合わせにかかせないという〕。
さて鮎だが、川金のパンフレットには次のように書かれている。「庄川で育まれた鮎は、天下一との誉れをいただいており、遠方からも多くのみなさまがお越しになります。釣りたてを炭火で焼き上げた味を、川金「鮎の庄」でご堪能ください」と。しかし私たちが寄ったのは6月12日、解禁は22日であるからして、鮎は天然ではなく養殖である。これは解禁後も同じで、鮎の庄では天然の鮎が出ることはなく、もし天然の鮎を食べたいのならば、川金で鮎料理を食べねばならない。改築後は見られなくなったが、以前は生け簀に沢山の鮎をストックしていて、しょっちゅう補給されていた。そして一度に何十尾もタモですくい、目にも止まらない速さで串に刺していた。今はそれが見られなくなった。ただ入り口近くで鮎を焼いていて、強火の遠火で円形に串を立て、焼いているのを見ることができる。1カ所でざっと30尾、これが3カ所あり、圧巻である。
程なくして鮎の塩焼きが来た。大きさは15〜17cm位、養殖なので月を経てもそんなに大きくはならないが、もう少しは大きくなろうか。でも、小さくとも焼きたてを蓼酢で頂くのは至福の時である。もう一尾二口である。鮎の造りの鮎は塩焼きのよりは大きい。洗いにしてはなく、下ろしたまま、清々しい味がした。鮎のうるかは私の大好物、でも近頃は家内も味をしめて、三種盛りでも特に「子うるか」を独り占めにしてしまう。ただ「黒うるか」や「わたうるか」には手を出さないから救われる。ちなみに「うるか」というのは、鮎のはらわたや卵を塩漬けにした塩辛で、酒の肴としては中々珍味である。
その後さらにもう10本所望、そして野菜の天ぷらと漬物盛り合わせ、それに飲み物、最後に家内はざるうどんを頼んでいた。これで十分に堪能した。でも見てると、大部分のお客さんは「鮎の膳」を注文のようで、後で清算したときに、20本も食べられたのですかとあきられたというから、私たちの方が変わっていたのかも知れない。でも満足した。
以下に余分だが、新装なった「鮎の庄」を若干紹介しておく。
● 営業の案内
旬彩いろり茶屋「鮎の庄」 〒939-1323 富山県砺波市上中野70 川金 庭園内
電話 フリーダイヤル 0120-01-0257 代表 0763-82-0257
営業時間 昼の部 11:00〜14:30 夜の部 17:00〜20:00
定休日 4月〜10月は無休 11月〜3月は火曜日が定休日
予 約 平日の昼・夜ともに可 土・日・祝日は夜のみ可 個室4室あり予約可
● 鮎御膳 2,000~3,000円 鮎料理 500-900円 鮎の塩焼き 380-650円 鮎の造り 800-1,000円
● 一品料理 500-700円 珍味うるか 100-600円 鮎雑炊 800円 麺類 750-800円 甘味物 300-700円
● 日本酒(4合)2,000-7,800円 ビール ノンアルコールビール ワイン 焼酎 チューハイ ほか
今年になって、そろそろ鮎も解禁(犀川は6月15日、庄川は6月22日)になるのにどうなっているのかなと思っていたところ、地元紙に6月1日に新装開店とあった。家内が6月12日(水)に休みがとれるとのことで、早速予約した。当日は天気もよく、家を9時に出て、額菩提樹苑にある三男の墓へ寄った後、山側環状道路、森本IC、北陸高速道、砺波ICを経て、富山県砺波市上中野の庄川畔にある川金・鮎の庄に向かった。10時半に着いた。11時からなので、川金のロビーで暫く寛いだ。改築された鮎の庄は改築前の倍くらいの大きさの平屋建て、以前と比べモダンな感じになった。時間になって促されて鮎の庄に向かう。以前は旅館に垂直に建物が延びていたが、新しい建物は平行になっている。
案内されたのは窓側の6人テーブル、テーブルの真ん中に角形の灰床、以前のは囲炉裏部分が大きくて、皿を置くスペースが狭かったが、新しいのはテーブルも広く、椅子にも余裕がありゆったりしている。以前に比べて角形の灰床の面積は小さいが、でも6人が10本ずつ食べても、十分串を並べるスペースがあり、合理的な設計になっている。とにかくゆったりなのが良い。6人での相席でも十分余裕がある。前は10人席でも10人だと窮屈だったし、小上がりの6人卓も狭かった。職員の服装も、和装から洋装になった。
注文は、取りあえず、鮎の塩焼き10本、鮎の造り1皿、うるか三種盛り1皿、飲み物は銀嶺立山の300mlとノンアルコールビールを1本お願いした。つまみには「ちょろぎ」が出た。〔注:チョロギというのは、中国原産のシソ科の多年草で、栽培されている。秋には淡紅色の唇形の花を穂状につける。この植物の根の先端には、連珠状の白い塊茎が付くので、これを掘り取り、梅酢で赤く染めて食用に供する。地方によっては、正月料理には黒豆との取り合わせにかかせないという〕。
さて鮎だが、川金のパンフレットには次のように書かれている。「庄川で育まれた鮎は、天下一との誉れをいただいており、遠方からも多くのみなさまがお越しになります。釣りたてを炭火で焼き上げた味を、川金「鮎の庄」でご堪能ください」と。しかし私たちが寄ったのは6月12日、解禁は22日であるからして、鮎は天然ではなく養殖である。これは解禁後も同じで、鮎の庄では天然の鮎が出ることはなく、もし天然の鮎を食べたいのならば、川金で鮎料理を食べねばならない。改築後は見られなくなったが、以前は生け簀に沢山の鮎をストックしていて、しょっちゅう補給されていた。そして一度に何十尾もタモですくい、目にも止まらない速さで串に刺していた。今はそれが見られなくなった。ただ入り口近くで鮎を焼いていて、強火の遠火で円形に串を立て、焼いているのを見ることができる。1カ所でざっと30尾、これが3カ所あり、圧巻である。
程なくして鮎の塩焼きが来た。大きさは15〜17cm位、養殖なので月を経てもそんなに大きくはならないが、もう少しは大きくなろうか。でも、小さくとも焼きたてを蓼酢で頂くのは至福の時である。もう一尾二口である。鮎の造りの鮎は塩焼きのよりは大きい。洗いにしてはなく、下ろしたまま、清々しい味がした。鮎のうるかは私の大好物、でも近頃は家内も味をしめて、三種盛りでも特に「子うるか」を独り占めにしてしまう。ただ「黒うるか」や「わたうるか」には手を出さないから救われる。ちなみに「うるか」というのは、鮎のはらわたや卵を塩漬けにした塩辛で、酒の肴としては中々珍味である。
その後さらにもう10本所望、そして野菜の天ぷらと漬物盛り合わせ、それに飲み物、最後に家内はざるうどんを頼んでいた。これで十分に堪能した。でも見てると、大部分のお客さんは「鮎の膳」を注文のようで、後で清算したときに、20本も食べられたのですかとあきられたというから、私たちの方が変わっていたのかも知れない。でも満足した。
以下に余分だが、新装なった「鮎の庄」を若干紹介しておく。
● 営業の案内
旬彩いろり茶屋「鮎の庄」 〒939-1323 富山県砺波市上中野70 川金 庭園内
電話 フリーダイヤル 0120-01-0257 代表 0763-82-0257
営業時間 昼の部 11:00〜14:30 夜の部 17:00〜20:00
定休日 4月〜10月は無休 11月〜3月は火曜日が定休日
予 約 平日の昼・夜ともに可 土・日・祝日は夜のみ可 個室4室あり予約可
● 鮎御膳 2,000~3,000円 鮎料理 500-900円 鮎の塩焼き 380-650円 鮎の造り 800-1,000円
● 一品料理 500-700円 珍味うるか 100-600円 鮎雑炊 800円 麺類 750-800円 甘味物 300-700円
● 日本酒(4合)2,000-7,800円 ビール ノンアルコールビール ワイン 焼酎 チューハイ ほか
2013年6月17日月曜日
会員そば打ちの集いで出されたサプリメント
今では恒例となっている探蕎会の湯涌みどりの里でのそば打ちの集いは、平成15年に始まったのだから、もう数えて11回目になる。それまでは毎回場所を転々としていたから、世話は先ず場所選びから、世話する方々は大変だったろうと思う。それが現在の場所に定着したのは、世話人の塚野さんの尽力に負うところが多い。それに一昨年からはクイズまがいで、生粉打ち、九一、二八で打たれた「そば」を当てるという趣向も加わった。また当日のおしながきを見ると、そば以外に「つきだし」や「でざーと」と称して、会員の方々が腕を振るった品々が提供され、それが格好のお酒の友やお土産となっている。ところでこの趣向の傾向も年々内容が充実、いやエスカレートしているのではと思われ、これは素晴らしいことである。これが会員一人一品とまで義務化されると大変だが、そうでなくて任意でボランティア的であるのが素晴らしい。それにしても今年は昨年よりも品数が多くなったように感じた。それで厚かましくも遠慮しないで、一部の品を除いてはしっかり食し、堪能させて頂いた。以下に今年の会で出されたサプリメントについて、感謝をこめて列記してみたい。順不同である。
一、つきだし類
1.新田さん提供の品々
● 「かたはのお浸し」:「かたは」というのはご当地名で、和名はウワバミソウ、イラクサ科の植物である。やや湿気た山地に群生していて、茎は瑞々しい。東北では「みず」といい、茎が赤みがかっているものを「あかみず」、そうでないものを「あおみず」と呼んでいる。我が家の庭にも群生してはいるが、丈も低くこわそうで、食したことはない。本品のお浸しの作り方は不明だが、榎茸も入っていて、生姜と茗荷のトッピングで、仄かなうまみがお酒の友にはぴったりだった。
● 「ワラビの煮浸し」:言わずと知れた「わらび」、和名もワラビで、古くはウラボシ科だったが、現在はコバノイシカグマ科に分類されている。春に未だ丸まって開いていない拳状の若葉のついた葉柄を湯がいて食する。匍匐茎があるので、何度か収穫できる。この品は醤油に浸したものとか。色は黒紫色、姿はというと精悍な風貌、程よい歯触り、素人ではこうは作れまい。逸品だった。
● 「ゼンマイの煮物」:ゼンマイはゼンマイ科の多年生の羊歯で、春の山菜の代表でもある。春先、先ず胞子葉が、次いで栄養葉が出る。どちらも芽生えは綿毛で被われ、ゼンマイ状に巻いている。食用にするのは後者で、生食することはなく、一旦乾燥して揉んで保存できるようにしたものを煮たりして食する。出された「ぜんまい」は能登産とか、油揚げと竹輪、それと茸?とが入った煮物、おふくろの味というべきか。私の家の庭にも数十株のゼンマイが葉誇りしているが、ついぞ食べたことはない。
● 「コールラビの塩麹漬け、酢麹漬け」:コールラビとは何か。出品の新田さんに訊くと「のと野菜」だとのこと。後日、南栃市福光の道の駅で、この品の表示を見たが、残念ながらその品は売り切れていた。ただ説明の表示があり、それを書き写した。「コールラビとはドイツ語でキャベツカブという意味で、キャベツに似たやさしい甘味があります。茹でてサラダにしたり、スープや味噌汁などの汁物、煮込みなどにも合います」とあった。現物は見ていないが、アブラナ科の植物であることは間違いない。一見小蕪のようで、調理には皮を剥いてとある。出た品もそうして輪切りにしたものを漬け込んだもの、初めて口にしたが、新来の味だった。
● 「モミジガサの白和え」:モミジガサは山地の林下に生えるキク科の多年草である。食用にするのはその若芽で、キク科の植物の大半は若芽であれば食することができる。最も安直なのは天ぷらである。でもこの品はモミジガサを湯がいて、よく摺った白味噌と白胡麻とで和えてあった。見た目には、濃い緑と白のコントラストが素晴らしかった。
出品された新田さんは岩手県遠野市の出身、何と言ったって東北は山菜の宝庫、しかもスナック遠野を経営されていて、料理の腕前も一流、毎回素晴らしい一品を提供して下さっている。
2.早川さん提供の品
● 「山椒の未熟実の入った縮緬雑魚」:縮緬雑魚はカタクチイワシなど、鰯の雑魚を煮干しにしたもので、しらす干しともいう。これに薄味を付け、灰汁抜きした山椒の緑色未熟実を混ぜてある。市販の山椒粉は、赤く熟した実の黒い種子を粉末にしたもの、未熟な実の方がミカン科特有の芳香を出す。昨年は実の数が多くて舌が麻痺する程だったが、今年は少なかった。因みにこのサンショウは雌雄異株、先生宅のは雌株で、小生の庭のは雄株の老木、でも庭のあちこちに幼木が育っているのはどうしてなのだろう。
3.松田さん姉上提供の品
● 「花豆の煮豆」:花豆とは、マメ科インゲン属のベニバナインゲンの成熟した種子のことで、大型の豆、大福豆や虎豆と共に高級煮豆の材料になるという。これら大型の豆類を上手に煮るのは難しく、その炊き方にはコツが要るという。提供された煮豆は煮崩れもなくて上等な出来だった。でも何故か私は口にしていない。
4.久保さん提供の品
● 「沢庵と大根の浅漬け」:沢庵も自家製なのだと思う。私の家でも母が存命中は家で沢庵を仕込んでいたが、今は大根の浅漬けでさえ漬け込むことは少ない。どちらもお酒の格好の友と言える。
5.池端さん提供の品
● 「帆立の貝柱の干物」:小粒なのがよく、じっくりお酒を頂く時には格好のつまみになる。
二、でざーと
1.久保さん提供の品
● 「そば掻きぜんざい」:小豆(あずき)の中では最も粒が大きい大納言小豆、それも毎年こだわって福井県大野市から引かれるとか。久保さんは探蕎の折りには、もしぜんざいがあれば必ずといっていいほど所望される善哉通である。この作品は奥様の作であろうが、作り方にも甘味にもきっとこだわりをもっておいでだと思う。事務局長の前田さんが終了までに間に合い、このそば掻きぜんざいを食されたと「日めくり日記」に記されていたが、絶賛されていた。私はこれを見て、ぜんざいはともかく、粗挽きの蕎麦掻きは食べたかったと思ったものだ。
2.石野さん提供の品
● 「そばクッキー」:石野さんは今回は欠席だった。いつもは「シフォンケーキ」を提供されるのだが、今回はお休み。代わりに「そばクッキー」が配られた。すでにパッケージされていて、乾燥剤も入れられていた。私は家に持って帰り、翌日にウィスキーの水割りと共に頂いたが、最高だった。甘味が程よく調和され、格好の摘まみとなった。
3.松田さん提供の品
● 「水無月(蕎麦粉入り)」:裏千家の宗匠さんである松田さんお手製のお菓子、これは6月に頂く定番の和菓子とか、知らなかった。横から見ると、下の方5分の4ばかりが白っぽい生地で、ここに蕎麦粉が入っているようだ。その上に甘く煮た小豆が乗っかっている。白い部分は氷室の氷を表し、小豆は悪魔祓いを意味するという。またこのお菓子は三角の形状をしているが、これも魔除けを意味し、このお菓子を頂くと、その年の後半の厄払いと夏の健康祈願となるという。有難く頂いた。それにしてもよくぞ作られたものだ。
一、つきだし類
1.新田さん提供の品々
● 「かたはのお浸し」:「かたは」というのはご当地名で、和名はウワバミソウ、イラクサ科の植物である。やや湿気た山地に群生していて、茎は瑞々しい。東北では「みず」といい、茎が赤みがかっているものを「あかみず」、そうでないものを「あおみず」と呼んでいる。我が家の庭にも群生してはいるが、丈も低くこわそうで、食したことはない。本品のお浸しの作り方は不明だが、榎茸も入っていて、生姜と茗荷のトッピングで、仄かなうまみがお酒の友にはぴったりだった。
● 「ワラビの煮浸し」:言わずと知れた「わらび」、和名もワラビで、古くはウラボシ科だったが、現在はコバノイシカグマ科に分類されている。春に未だ丸まって開いていない拳状の若葉のついた葉柄を湯がいて食する。匍匐茎があるので、何度か収穫できる。この品は醤油に浸したものとか。色は黒紫色、姿はというと精悍な風貌、程よい歯触り、素人ではこうは作れまい。逸品だった。
● 「ゼンマイの煮物」:ゼンマイはゼンマイ科の多年生の羊歯で、春の山菜の代表でもある。春先、先ず胞子葉が、次いで栄養葉が出る。どちらも芽生えは綿毛で被われ、ゼンマイ状に巻いている。食用にするのは後者で、生食することはなく、一旦乾燥して揉んで保存できるようにしたものを煮たりして食する。出された「ぜんまい」は能登産とか、油揚げと竹輪、それと茸?とが入った煮物、おふくろの味というべきか。私の家の庭にも数十株のゼンマイが葉誇りしているが、ついぞ食べたことはない。
● 「コールラビの塩麹漬け、酢麹漬け」:コールラビとは何か。出品の新田さんに訊くと「のと野菜」だとのこと。後日、南栃市福光の道の駅で、この品の表示を見たが、残念ながらその品は売り切れていた。ただ説明の表示があり、それを書き写した。「コールラビとはドイツ語でキャベツカブという意味で、キャベツに似たやさしい甘味があります。茹でてサラダにしたり、スープや味噌汁などの汁物、煮込みなどにも合います」とあった。現物は見ていないが、アブラナ科の植物であることは間違いない。一見小蕪のようで、調理には皮を剥いてとある。出た品もそうして輪切りにしたものを漬け込んだもの、初めて口にしたが、新来の味だった。
● 「モミジガサの白和え」:モミジガサは山地の林下に生えるキク科の多年草である。食用にするのはその若芽で、キク科の植物の大半は若芽であれば食することができる。最も安直なのは天ぷらである。でもこの品はモミジガサを湯がいて、よく摺った白味噌と白胡麻とで和えてあった。見た目には、濃い緑と白のコントラストが素晴らしかった。
出品された新田さんは岩手県遠野市の出身、何と言ったって東北は山菜の宝庫、しかもスナック遠野を経営されていて、料理の腕前も一流、毎回素晴らしい一品を提供して下さっている。
2.早川さん提供の品
● 「山椒の未熟実の入った縮緬雑魚」:縮緬雑魚はカタクチイワシなど、鰯の雑魚を煮干しにしたもので、しらす干しともいう。これに薄味を付け、灰汁抜きした山椒の緑色未熟実を混ぜてある。市販の山椒粉は、赤く熟した実の黒い種子を粉末にしたもの、未熟な実の方がミカン科特有の芳香を出す。昨年は実の数が多くて舌が麻痺する程だったが、今年は少なかった。因みにこのサンショウは雌雄異株、先生宅のは雌株で、小生の庭のは雄株の老木、でも庭のあちこちに幼木が育っているのはどうしてなのだろう。
3.松田さん姉上提供の品
● 「花豆の煮豆」:花豆とは、マメ科インゲン属のベニバナインゲンの成熟した種子のことで、大型の豆、大福豆や虎豆と共に高級煮豆の材料になるという。これら大型の豆類を上手に煮るのは難しく、その炊き方にはコツが要るという。提供された煮豆は煮崩れもなくて上等な出来だった。でも何故か私は口にしていない。
4.久保さん提供の品
● 「沢庵と大根の浅漬け」:沢庵も自家製なのだと思う。私の家でも母が存命中は家で沢庵を仕込んでいたが、今は大根の浅漬けでさえ漬け込むことは少ない。どちらもお酒の格好の友と言える。
5.池端さん提供の品
● 「帆立の貝柱の干物」:小粒なのがよく、じっくりお酒を頂く時には格好のつまみになる。
二、でざーと
1.久保さん提供の品
● 「そば掻きぜんざい」:小豆(あずき)の中では最も粒が大きい大納言小豆、それも毎年こだわって福井県大野市から引かれるとか。久保さんは探蕎の折りには、もしぜんざいがあれば必ずといっていいほど所望される善哉通である。この作品は奥様の作であろうが、作り方にも甘味にもきっとこだわりをもっておいでだと思う。事務局長の前田さんが終了までに間に合い、このそば掻きぜんざいを食されたと「日めくり日記」に記されていたが、絶賛されていた。私はこれを見て、ぜんざいはともかく、粗挽きの蕎麦掻きは食べたかったと思ったものだ。
2.石野さん提供の品
● 「そばクッキー」:石野さんは今回は欠席だった。いつもは「シフォンケーキ」を提供されるのだが、今回はお休み。代わりに「そばクッキー」が配られた。すでにパッケージされていて、乾燥剤も入れられていた。私は家に持って帰り、翌日にウィスキーの水割りと共に頂いたが、最高だった。甘味が程よく調和され、格好の摘まみとなった。
3.松田さん提供の品
● 「水無月(蕎麦粉入り)」:裏千家の宗匠さんである松田さんお手製のお菓子、これは6月に頂く定番の和菓子とか、知らなかった。横から見ると、下の方5分の4ばかりが白っぽい生地で、ここに蕎麦粉が入っているようだ。その上に甘く煮た小豆が乗っかっている。白い部分は氷室の氷を表し、小豆は悪魔祓いを意味するという。またこのお菓子は三角の形状をしているが、これも魔除けを意味し、このお菓子を頂くと、その年の後半の厄払いと夏の健康祈願となるという。有難く頂いた。それにしてもよくぞ作られたものだ。
2013年6月13日木曜日
二つの同窓会(高校と小・中校)
昭和12年生まれの私たちは今年が数え77歳、いわゆる喜寿の祝いをする歳である。学年ではいわゆる遅生まれの昭和11年生まれの人(但し4月2日以降に生まれた人)と早生まれの人(但し4月1日までに生まれた人)とが混在しているが、近頃は満年齢で祝うこともあるというから、同一学年で祝いをしても特にクレームをつける人は少ない。しかし中には「喜寿祝」と銘打つことに異論を唱えて参加しない人もいる。でも高校の同期同窓会でも小学校・中学校の同期同窓会でも、参加した人は特にこだわってはいない。
(1)泉丘高校七期同窓会 平成25年5月30日(木)ー31日(金) 粟津温泉 のとや
七期の同窓会は1年おき(2年に一度)に実施される。それはそうとして、何時も実施時期が決まるのが遅いきらいがある。実は小・中学校の同窓会の実施時期は前年にもう6月4日5日と決まっていたのに、高校の方が決まらずにヤキモキした。というのも野々市中学校から13名が泉丘高校に進学しているからで、現在地元に住んでいない人は、一旦帰るのか残るのか、若しくは片方のみに出るのかの選択を迫られることになる。高校の卒業生は当時11クラスあったから、卒業生はざっと440人、だから割合からすれば極少であるのだが。同窓会の世話をしている人に参加人数について訊いてみると、最も多かったのは還暦のときで約100名、後は大体70名前後で推移していたが、近頃は60名前後とのこと、今回は58名だった。会の冒頭でこの2年間で物故された人が読み上げられたが、何と20人もが亡くなっていたのには驚いた。参加者が少なくなった原因の一つには本人の体調不良も大きな原因となっていることが伺われた。でも参加した人達は皆さん意気軒昂で、宝生流の謡にも張りがあったし、校歌斉唱も迫力があった。その後は三次会までこなし、大いに盛り上がった。
(2)野々市小・中学校同窓会(子うし会) 平成25年6月4日(火)ー5日(水) 粟津温泉 法師
子うし会は毎年集まっている。中学卒業時には53名いたが、これまで11名が亡くなり、3名が消息不明である。したがって同窓会の案内対象者は39名である。それで毎年少なくとも1泊はするが、すぐ解散というのは名残惜しいということもあって、大概物見遊山をオプションとして付けている。しかしそうなると、足腰の不自由な人、乗り物酔いをする人は参加しづらくなる。そこで今年は喜寿祝ということもあり、旅館1泊のみとした。その結果、いつもは多くて18名の参加なのだが、今年は22名と、56%の参加率だった。高校の同窓会はいつもこのスタイルなのだが、子うし会には元気な女子会員がいるので、このスタイルを続けるのは困難なようである、だから数え80歳の傘寿の祝には、またこのスタイルを継承するとしても、その間は旅行も取り入れた会にしなければならないと思う。ここ数年、宴会のスタイルはテーブルと椅子の形式、それだけ身体が不自由な人が多くなったということだ。いつもそうだが、この会では宴会が退けた後、皆さんが一部屋に集まって鴕弁るのが常であるが、これがまたお互いの親睦を深めるのに重要で欠かせない潤滑油となっている。これは出席した人達の9年間の絆の一層の強化ではないのか。お互いを呼び合うのに姓でなく名で言えるのも小学校や中学校に在学していた頃のノスタルジアか。でもそうだと、姓が結婚して変わっていようと、姓のことで頭を悩ますことはない。
(1)泉丘高校七期同窓会 平成25年5月30日(木)ー31日(金) 粟津温泉 のとや
七期の同窓会は1年おき(2年に一度)に実施される。それはそうとして、何時も実施時期が決まるのが遅いきらいがある。実は小・中学校の同窓会の実施時期は前年にもう6月4日5日と決まっていたのに、高校の方が決まらずにヤキモキした。というのも野々市中学校から13名が泉丘高校に進学しているからで、現在地元に住んでいない人は、一旦帰るのか残るのか、若しくは片方のみに出るのかの選択を迫られることになる。高校の卒業生は当時11クラスあったから、卒業生はざっと440人、だから割合からすれば極少であるのだが。同窓会の世話をしている人に参加人数について訊いてみると、最も多かったのは還暦のときで約100名、後は大体70名前後で推移していたが、近頃は60名前後とのこと、今回は58名だった。会の冒頭でこの2年間で物故された人が読み上げられたが、何と20人もが亡くなっていたのには驚いた。参加者が少なくなった原因の一つには本人の体調不良も大きな原因となっていることが伺われた。でも参加した人達は皆さん意気軒昂で、宝生流の謡にも張りがあったし、校歌斉唱も迫力があった。その後は三次会までこなし、大いに盛り上がった。
(2)野々市小・中学校同窓会(子うし会) 平成25年6月4日(火)ー5日(水) 粟津温泉 法師
子うし会は毎年集まっている。中学卒業時には53名いたが、これまで11名が亡くなり、3名が消息不明である。したがって同窓会の案内対象者は39名である。それで毎年少なくとも1泊はするが、すぐ解散というのは名残惜しいということもあって、大概物見遊山をオプションとして付けている。しかしそうなると、足腰の不自由な人、乗り物酔いをする人は参加しづらくなる。そこで今年は喜寿祝ということもあり、旅館1泊のみとした。その結果、いつもは多くて18名の参加なのだが、今年は22名と、56%の参加率だった。高校の同窓会はいつもこのスタイルなのだが、子うし会には元気な女子会員がいるので、このスタイルを続けるのは困難なようである、だから数え80歳の傘寿の祝には、またこのスタイルを継承するとしても、その間は旅行も取り入れた会にしなければならないと思う。ここ数年、宴会のスタイルはテーブルと椅子の形式、それだけ身体が不自由な人が多くなったということだ。いつもそうだが、この会では宴会が退けた後、皆さんが一部屋に集まって鴕弁るのが常であるが、これがまたお互いの親睦を深めるのに重要で欠かせない潤滑油となっている。これは出席した人達の9年間の絆の一層の強化ではないのか。お互いを呼び合うのに姓でなく名で言えるのも小学校や中学校に在学していた頃のノスタルジアか。でもそうだと、姓が結婚して変わっていようと、姓のことで頭を悩ますことはない。
2013年6月3日月曜日
第50回25周年記念巨樹探訪会〔第2日〕
5月19日(日)
5.鬼岳稲荷神社 福知山市大江町北原
午前6時に市のマイクロバスで山へ向かう。この大江山一帯は京都府歴史的自然環境保全区域に指定されていて、ブナなどの落葉広葉樹やカシなどの常緑広葉樹の自然林が残っており、しかも北方性と南方性の植生が混在しているという。山はフジが花盛り、ヘアピンカーブもある舗装された山道をバスは上がって行く。15分は上ったろうか、林道の終点が鬼岳稲荷神社で、ここには展望台もあり、説明では、秋の早朝にはよく雲海が発生し、日の出の瞬間の「ご来光」は実に神秘的で荘厳とか。この日は雲海は眺められなかったものの、遠く若狭湾や青葉山を望めた。
さて、配付の案内文では、終点より更に10分登れば展望台へ行けるとか、神社の手前に上り100mという表示のある山道があり、これがてっきり展望台への道と思い進むと、お稲荷さんの小さな祠で道は消えていた。これはお稲荷さんまでの小径であったようだ。戻って神社まで行くと、その奥に大江山登山道との標識があり、ここは八合目 (640m) で頂上 (833m) までは 1.2km とあった。しかしこれより先へは進まず、周囲を散策する。原生林の樹種は主にブナ、正に緑の真っただ中、空気が実においしい。会員の方々は実に熱心、またよく樹木の名をよく知っておいでだ。私が分かるのはブナくらい。これから教わらなければなるまい。約1時間滞在して宿舎へ戻り、朝食後 8:40 に出発する。
6.元伊勢内宮 皇大神社 福知山市大江町内宮
宿舎から二瀬川沿いに府道9号を南下すると、15分ばかりで皇大神社下に着いた。ここから参道の石段を上る。途中に麻呂子親王御手植の杉の巨樹があり、その三本の内の一本と記されてある。もう少し上がると一本は切り株となっていた。更に上がって樹皮が付いたままの黒木の鳥居をくぐると、正面に神明造りの茅葺きの本殿がある。御祭神は皇祖天照皇大神である。そして向かって左側にはアメノウズメノミコトの母、右側にはアメノタジカラノオノミコトを祀る脇殿がある。そして本殿左手には御神木の「龍灯の杉」(幹周 700cm, 樹高 25m, 樹齢 2千年) があり、落雷と火災で樹は痛々しいが、枝葉には勢いが見られる。これらを囲んで全国の一之宮 84 社が脇宮として祀られており、石川県の加賀一之宮の白山神社、能登一之宮の気多神社の名も見られた。境内にはほかにスダジイ (幹周 426cm , 樹高 25m) やシラカシ (幹周 485cm , 樹高 18m) などの巨樹のほか、スギ、クスノキ、エノキの大樹が植わっている。
その後、祢宜の方と観光協会の公園指導員の方から、この神社の来歴やこの地の植生の解説を受けた。それによると、人皇第10代崇神天皇39年に、皇大神を永遠に御遷座する場所を求めて倭 (やまと) より出て御遷幸の砌、この地に4年間御鎮座になり、その54年後、人皇第11代垂仁天皇26年に漸く伊勢の五十鈴川上の地にお鎮まりになったという。元伊勢内宮と言われる所以である。
その後私たちは谷沿いに岩戸山 (日室ヶ岳 427m)遥拝処へ行く。夏至の日には、このピラミッド型の山頂に太陽が沈むという。更に進むと岩下に天岩戸神社が見える地点に、当初の予定ではここで戻る予定だったが、皆さん興味があって、崖を削って造られた急な石段を下りて二瀬川の川床まで下りてしまった。そこには天岩戸を想わせる巨岩が両岸に並び、天岩戸神社は左岸の丸い巨石の上に鎮座されている。そこへ参拝するには、鎖を頼りにしないと上れない。登れる人のみが上がって参拝した。なかなか神秘的な場所である。
再び崖に刻まれた狭い径を車道へと戻り、帰りは元宮には戻らずに車道を歩いて神宮下の駐車場へ戻った.この頃になって雨が降ってきた。山腹にはヒメウツギの白い花、フジも咲いている。説明に出てきたジャケツイバラの黄色い花も見られた。
7.あしぎぬの大雲の里 福知山市大江町北有路
11時に皇大神社の駐車場を出る。川沿いに下り、由良川と合流する地点にある表記の場所にあるレストランで昼食をとることに。だが着いた時間が早くて、先客があり、昼食場所は隣接する平野邸に変更になった。本来は入館料300円が必要なのだが、昼食場所ということで無料になった。お座敷二間に昼食弁当が並ぶ。庭を見ながらの贅沢な昼食、食事後管理人から説明を受けた。この地は古来から丹後と丹波を結ぶ交通の要となる地で、由良川水運の拠点として賑わったという。河口からこの北有路までは2km、高低差は6m、それで船は平底の高瀬舟、上流の綾部まで行けた。平野氏は楠正成の従臣の末裔で、江戸時代の初めに有路に住み、藩主牧野氏の御用達として活躍した。明治維新後も酒造業、養蚕にかかる繊維業に携わり、京都銀行の前身となる銀行を興し、地域の経済、文化に多大な貢献をした。この建物は平野家12代の吉左衛門により明治42年 (1909) に建てられたもので、現在は記念館として管理され、京都府有形文化財に指定されている。邸内は広く、階段が3カ所もあるのには驚く。襖も欄間も凝っていて、目を見張るものがある。また庭園も素晴らしくて、特に二階からの眺めが良く、道路を挟んで由良川も見える。庭の樹種はイヌマキが主で、枯山水もあり、間にツツジが植わっている。ただ手入れが十分行き届いていない感がする。12:20 に次の訪問地へ向かう。
8.「才ノ神」のフジ 京都府天然記念物 福知山市大江町南有路
府道9号線を南下し、国道175号線に出て、由良川に架かる大雲橋を対岸に渡り、山道を走ると「才ノ神」のフジに達する。平野記念館から7分の距離である。
この藤は、以前は目通りの周囲は 7.9m 、2千年を超える欅の大木に絡まって、根元の幹が1mを超える6本の藤が立ち上がっていて、共に御神木として大切にされ、昭和9年 (1934) 5月には国の天然記念物に指定された。ところが幾度の落雷で欅の枝は折れ、樹幹は根元が空洞化し、倒れた樹幹の一部が藤を支える状態だったことから、昭和35年 (1960)1月には解除となった。そこで欅の枝の代わりに、鉄骨で藤を支えることになった。その後三度に及ぶ藤棚補強と拡張により、現在の姿になっている。フジは現在幹周り180cm 以上あり、以前の如く枝を張り、例年5月中旬に紫雲の花穂を垂らし、芳香を漂わせている。今年は先週の日曜日の5月12日に藤祭りが催されたという。でもまだフジの花穂は垂れていて、雨の中、芳しい香りを漂わせていた。
高札に曰く。御神木に守られる祭神は、「八節比古命」「 八節比売命」「久名戸神 (別名 猿田彦命)」の三柱で、天孫降臨の道案内をした神々である。
これで今回の巨樹探訪会の行事はすべて終了した。現地出発は 12:50、金沢帰着は 17:05 だった。
5.鬼岳稲荷神社 福知山市大江町北原
午前6時に市のマイクロバスで山へ向かう。この大江山一帯は京都府歴史的自然環境保全区域に指定されていて、ブナなどの落葉広葉樹やカシなどの常緑広葉樹の自然林が残っており、しかも北方性と南方性の植生が混在しているという。山はフジが花盛り、ヘアピンカーブもある舗装された山道をバスは上がって行く。15分は上ったろうか、林道の終点が鬼岳稲荷神社で、ここには展望台もあり、説明では、秋の早朝にはよく雲海が発生し、日の出の瞬間の「ご来光」は実に神秘的で荘厳とか。この日は雲海は眺められなかったものの、遠く若狭湾や青葉山を望めた。
さて、配付の案内文では、終点より更に10分登れば展望台へ行けるとか、神社の手前に上り100mという表示のある山道があり、これがてっきり展望台への道と思い進むと、お稲荷さんの小さな祠で道は消えていた。これはお稲荷さんまでの小径であったようだ。戻って神社まで行くと、その奥に大江山登山道との標識があり、ここは八合目 (640m) で頂上 (833m) までは 1.2km とあった。しかしこれより先へは進まず、周囲を散策する。原生林の樹種は主にブナ、正に緑の真っただ中、空気が実においしい。会員の方々は実に熱心、またよく樹木の名をよく知っておいでだ。私が分かるのはブナくらい。これから教わらなければなるまい。約1時間滞在して宿舎へ戻り、朝食後 8:40 に出発する。
6.元伊勢内宮 皇大神社 福知山市大江町内宮
宿舎から二瀬川沿いに府道9号を南下すると、15分ばかりで皇大神社下に着いた。ここから参道の石段を上る。途中に麻呂子親王御手植の杉の巨樹があり、その三本の内の一本と記されてある。もう少し上がると一本は切り株となっていた。更に上がって樹皮が付いたままの黒木の鳥居をくぐると、正面に神明造りの茅葺きの本殿がある。御祭神は皇祖天照皇大神である。そして向かって左側にはアメノウズメノミコトの母、右側にはアメノタジカラノオノミコトを祀る脇殿がある。そして本殿左手には御神木の「龍灯の杉」(幹周 700cm, 樹高 25m, 樹齢 2千年) があり、落雷と火災で樹は痛々しいが、枝葉には勢いが見られる。これらを囲んで全国の一之宮 84 社が脇宮として祀られており、石川県の加賀一之宮の白山神社、能登一之宮の気多神社の名も見られた。境内にはほかにスダジイ (幹周 426cm , 樹高 25m) やシラカシ (幹周 485cm , 樹高 18m) などの巨樹のほか、スギ、クスノキ、エノキの大樹が植わっている。
その後、祢宜の方と観光協会の公園指導員の方から、この神社の来歴やこの地の植生の解説を受けた。それによると、人皇第10代崇神天皇39年に、皇大神を永遠に御遷座する場所を求めて倭 (やまと) より出て御遷幸の砌、この地に4年間御鎮座になり、その54年後、人皇第11代垂仁天皇26年に漸く伊勢の五十鈴川上の地にお鎮まりになったという。元伊勢内宮と言われる所以である。
その後私たちは谷沿いに岩戸山 (日室ヶ岳 427m)遥拝処へ行く。夏至の日には、このピラミッド型の山頂に太陽が沈むという。更に進むと岩下に天岩戸神社が見える地点に、当初の予定ではここで戻る予定だったが、皆さん興味があって、崖を削って造られた急な石段を下りて二瀬川の川床まで下りてしまった。そこには天岩戸を想わせる巨岩が両岸に並び、天岩戸神社は左岸の丸い巨石の上に鎮座されている。そこへ参拝するには、鎖を頼りにしないと上れない。登れる人のみが上がって参拝した。なかなか神秘的な場所である。
再び崖に刻まれた狭い径を車道へと戻り、帰りは元宮には戻らずに車道を歩いて神宮下の駐車場へ戻った.この頃になって雨が降ってきた。山腹にはヒメウツギの白い花、フジも咲いている。説明に出てきたジャケツイバラの黄色い花も見られた。
7.あしぎぬの大雲の里 福知山市大江町北有路
11時に皇大神社の駐車場を出る。川沿いに下り、由良川と合流する地点にある表記の場所にあるレストランで昼食をとることに。だが着いた時間が早くて、先客があり、昼食場所は隣接する平野邸に変更になった。本来は入館料300円が必要なのだが、昼食場所ということで無料になった。お座敷二間に昼食弁当が並ぶ。庭を見ながらの贅沢な昼食、食事後管理人から説明を受けた。この地は古来から丹後と丹波を結ぶ交通の要となる地で、由良川水運の拠点として賑わったという。河口からこの北有路までは2km、高低差は6m、それで船は平底の高瀬舟、上流の綾部まで行けた。平野氏は楠正成の従臣の末裔で、江戸時代の初めに有路に住み、藩主牧野氏の御用達として活躍した。明治維新後も酒造業、養蚕にかかる繊維業に携わり、京都銀行の前身となる銀行を興し、地域の経済、文化に多大な貢献をした。この建物は平野家12代の吉左衛門により明治42年 (1909) に建てられたもので、現在は記念館として管理され、京都府有形文化財に指定されている。邸内は広く、階段が3カ所もあるのには驚く。襖も欄間も凝っていて、目を見張るものがある。また庭園も素晴らしくて、特に二階からの眺めが良く、道路を挟んで由良川も見える。庭の樹種はイヌマキが主で、枯山水もあり、間にツツジが植わっている。ただ手入れが十分行き届いていない感がする。12:20 に次の訪問地へ向かう。
8.「才ノ神」のフジ 京都府天然記念物 福知山市大江町南有路
府道9号線を南下し、国道175号線に出て、由良川に架かる大雲橋を対岸に渡り、山道を走ると「才ノ神」のフジに達する。平野記念館から7分の距離である。
この藤は、以前は目通りの周囲は 7.9m 、2千年を超える欅の大木に絡まって、根元の幹が1mを超える6本の藤が立ち上がっていて、共に御神木として大切にされ、昭和9年 (1934) 5月には国の天然記念物に指定された。ところが幾度の落雷で欅の枝は折れ、樹幹は根元が空洞化し、倒れた樹幹の一部が藤を支える状態だったことから、昭和35年 (1960)1月には解除となった。そこで欅の枝の代わりに、鉄骨で藤を支えることになった。その後三度に及ぶ藤棚補強と拡張により、現在の姿になっている。フジは現在幹周り180cm 以上あり、以前の如く枝を張り、例年5月中旬に紫雲の花穂を垂らし、芳香を漂わせている。今年は先週の日曜日の5月12日に藤祭りが催されたという。でもまだフジの花穂は垂れていて、雨の中、芳しい香りを漂わせていた。
高札に曰く。御神木に守られる祭神は、「八節比古命」「 八節比売命」「久名戸神 (別名 猿田彦命)」の三柱で、天孫降臨の道案内をした神々である。
これで今回の巨樹探訪会の行事はすべて終了した。現地出発は 12:50、金沢帰着は 17:05 だった。
第50回25周年記念巨樹探訪会〔第1日〕
5月18日(土)
今回の参加者は30名、29名は金沢駅西口の観光バス乗り場で、残り1名は北陸高速道の尼御前SAで合流する。バスは45人乗りのKSバス、初めてだが、このバスの運転手の運転は実に的確、しかも大変上手だったことを帰着して思った。出発は 7:30、金沢西ICから高速道に入る。天気が良く暑いくらい、加賀平野はほぼ田植えは終了している。白山が白く輝いている。越前平野に入ると今が田植えの真っ盛り、大麦もそろそろ麦秋、麦の作付けはかなり多く、加賀平野では見られない光景だ。南条SAで休憩、ここまで1時間半、休憩後出発、高速道を敦賀ICで下り、国道 27 号線を小浜市へと向かう。車内では源頼光による大江山の酒呑童子退治の冊子が回覧される。最初の目的地の若狭一之宮には、近くにある森林の水PR館 (道の駅) の駐車場を利用する。到着は 10:30 だった。
1.若狭彦神社 福井県小浜市龍前
奈良時代の和銅7年 (714) に創建された「海彦・山彦」の神話で知られる海と山の神を祀る古社で、上社である若狭彦神社と、養老5年 (721) に上社から分祀された下社である若狭姫神社 (上社の北 2km、小浜市遠敷) がある。当初上社を若狭一之宮、下社を二之宮と呼んでいたが、現在は二社を併せて若狭一之宮と呼んでいる。元々は上社が神事の中心であったが、室町時代頃からは下社に移ってしまった。またお水送りの神事 (毎年3月2日に東大寺二月堂に香水を送る) も、別当寺であった若狭神宮寺 (遠敷川上流の上社より南へ約1kmにある. 小浜市神宮寺) に移った。上社には現在神職は常駐していない。
道の駅から若狭彦神社まで徒歩で3分ばかり、鬱蒼とした杉が主体の社叢林が広がっている。入口の左にツバキの大樹、右にサカキの老樹、参道を進み二之鳥居をくぐると左に夫婦杉がある。タブノキ (別名イヌグス) やケヤキやスダジイの大樹も目立つ。ナギの高木もある。本殿前にもサカキが植えられていた。ヤブニッケイの成樹もある。辞して道の駅で早めの昼食をとる。PR館では「お水取り」の儀式の順序が絵で示されていた。
上社を出て北へ向かい、下社の前を通り、国道 27 号線を西へ向かう。やがて前方に端正な三角形をした若狭富士の青葉山 (693m) が見えてきた。松尾寺はこの山の南西麓にある。
2.松尾寺 真言宗醍醐寺派 西国第二十九番札所 京都府舞鶴市松尾
御本尊は馬頭観世音菩薩で秘仏となっている。開山は和銅元年 (708)、中国から渡来した威光上人が此処に草庵を結び、馬頭観音を安置したとされる。古寺であり国宝や重要文化財も多い。以前来た時は正面から入ったが、大型バスは通れないとかで、裏手から入ったが、練達の運転手だからこそ入れたという感じだった。境内に入ると、右手高みにお宮が祀られ、そして道を挟んで左手に大イチョウ (鳥羽天皇お手植えの銀杏、幹周 536cm、樹高 23m) とモミ (幹周 433cm、樹高 30m) の巨樹、右手にスギの巨樹 (幹周 618cm 、樹高 30m) が並ぶ。この前来た時は本堂まで上がらなかったこともあって、こんな巨樹や大樹、老樹があることには全く気付かなかった。本堂前にはイロハモミジの大樹もある。寺務所まで下りて御朱印を頂く。御朱印袋を見ると次の和歌がしたためられていた。
「そのかみはいくよへむらむたよりおば ちとせもここにまつのおのてら」。
午後1時近く、再び国道 27 号線に戻り、舞鶴西ICで舞鶴若狭自動車道に上がり、綾部JCTで京都縦貫自動車道に入り、宮津天橋立ICで下り、天の橋立へ向かう。
3.智恩寺 臨済宗妙心寺派 京都府宮津市文珠
大同3年 (808) に平城天皇の勅願寺として創建され、日本三文殊の一つとして知られ、「切戸の文殊」「九世戸の文殊」「知恵の文殊」とも呼ばれている。この寺の本尊は文殊菩薩だが、この仏像は秘仏とされ、公開されていない。境内にある多宝塔は二重塔で、国の重要文化財に指定されている。境内に入ると、黒松の枝に沢山の小さな扇が吊るされているのが目に入る。ここのおみくじは変わっているとのことだが、どうもこれがそうであるらしい。とにかく夥しい数の扇である。ここでの探訪のお目当てはムクロジの大木だったが、代わりに見たのは霊木「文樹」であった。これは「もんじゅ」と読み、文殊に通う名称とか。高札にはタモ又はタブの木と称し、その樹液は霊気を発し、上質の線香作成に用いられるとあった。霊木には注連縄が巻いてあった。
4.天の橋立 日本三景・国の特別名勝・丹後天橋立大江山国定公園
古代より名勝として知られ、小式部内侍が母 (和泉式部) を焦がれて詠んだ歌「大江山いくのの道の遠ければ まだふみもみず天の橋立」は百人一首にも収められている。ここは宮津湾と阿蘇海を東西に隔てる全長 2.6km の湾口砂州で、約5千本の松が生えているという。智恩寺のある陸地と砂州の間には「九世の戸」という島?があり、天の橋立へは、古くは渡し船で渡っていて、「九世の渡し」と言われていたが、後に小天橋 (回旋橋) と大天橋で結ばれ今日に至っている。私たちはここで約1時間ばかり、由緒ある松と黒松に寄生する寄生木を観察した。その後私は砂州の略3分の1の地点まで往復した。
出会った命名松は次の通りである。南から北に向かって、小天橋を渡った所には「九世戸の松」(九世の戸にある松.傍らには特別名勝天橋立碑が立っている)。大天橋を渡った砂州の最も南には「知恵の松」(三人寄れば文殊の知恵というが,一つの根から三又になった松)。更に北へ、恩賜記念碑の近くには「雲井の松」(雲の合間に座るが如く聳え立つ松)。そして名勝天橋立の碑に近く「式部の松」(ほっそりした赤松の美しい姿から,和泉式部に例えられた松)。更に北へ進むと天橋立神社があり、皇太子殿下お手植えの松の記念碑の傍に「御手植の松」がある。これは大正5年 (1916) に昭和天皇が皇太子時代に御手植えされた松である。私が見たのはこの5本だが、更に北の船越までにはまだ10本の命名松がある。名称のみを挙げておく。南から順に、「千貫松」「阿蘇の松」「夫婦松」「羽衣の松」「雪舟の松」「なかよしの松 (2代目)」「小袖の松」「見返りの松」「双龍の松」「船越の松」。
午後4時に智恩寺の駐車場を出て、府道9号を南下し峠越えして、福知山市大江町佛性寺にある宿舎の大江山グリーンロッジに入る。当初は私たちのみとのことだったが、入口の案内板には、石川巨樹の会のほかに、関西学院大学と同志社大学の名があった。ところで翌朝、私はアルコールの勢いもあって朝まで熟睡したが、大学生らは一晩中廊下で騒いでいたという、これには恐れ入った。人の迷惑を顧みない傍若無人ぶり、これが一流大学の学生の実態とすれば、何をか言わんやである。朝、廊下で寝ている女子学生がいた。
今回の参加者は30名、29名は金沢駅西口の観光バス乗り場で、残り1名は北陸高速道の尼御前SAで合流する。バスは45人乗りのKSバス、初めてだが、このバスの運転手の運転は実に的確、しかも大変上手だったことを帰着して思った。出発は 7:30、金沢西ICから高速道に入る。天気が良く暑いくらい、加賀平野はほぼ田植えは終了している。白山が白く輝いている。越前平野に入ると今が田植えの真っ盛り、大麦もそろそろ麦秋、麦の作付けはかなり多く、加賀平野では見られない光景だ。南条SAで休憩、ここまで1時間半、休憩後出発、高速道を敦賀ICで下り、国道 27 号線を小浜市へと向かう。車内では源頼光による大江山の酒呑童子退治の冊子が回覧される。最初の目的地の若狭一之宮には、近くにある森林の水PR館 (道の駅) の駐車場を利用する。到着は 10:30 だった。
1.若狭彦神社 福井県小浜市龍前
奈良時代の和銅7年 (714) に創建された「海彦・山彦」の神話で知られる海と山の神を祀る古社で、上社である若狭彦神社と、養老5年 (721) に上社から分祀された下社である若狭姫神社 (上社の北 2km、小浜市遠敷) がある。当初上社を若狭一之宮、下社を二之宮と呼んでいたが、現在は二社を併せて若狭一之宮と呼んでいる。元々は上社が神事の中心であったが、室町時代頃からは下社に移ってしまった。またお水送りの神事 (毎年3月2日に東大寺二月堂に香水を送る) も、別当寺であった若狭神宮寺 (遠敷川上流の上社より南へ約1kmにある. 小浜市神宮寺) に移った。上社には現在神職は常駐していない。
道の駅から若狭彦神社まで徒歩で3分ばかり、鬱蒼とした杉が主体の社叢林が広がっている。入口の左にツバキの大樹、右にサカキの老樹、参道を進み二之鳥居をくぐると左に夫婦杉がある。タブノキ (別名イヌグス) やケヤキやスダジイの大樹も目立つ。ナギの高木もある。本殿前にもサカキが植えられていた。ヤブニッケイの成樹もある。辞して道の駅で早めの昼食をとる。PR館では「お水取り」の儀式の順序が絵で示されていた。
上社を出て北へ向かい、下社の前を通り、国道 27 号線を西へ向かう。やがて前方に端正な三角形をした若狭富士の青葉山 (693m) が見えてきた。松尾寺はこの山の南西麓にある。
2.松尾寺 真言宗醍醐寺派 西国第二十九番札所 京都府舞鶴市松尾
御本尊は馬頭観世音菩薩で秘仏となっている。開山は和銅元年 (708)、中国から渡来した威光上人が此処に草庵を結び、馬頭観音を安置したとされる。古寺であり国宝や重要文化財も多い。以前来た時は正面から入ったが、大型バスは通れないとかで、裏手から入ったが、練達の運転手だからこそ入れたという感じだった。境内に入ると、右手高みにお宮が祀られ、そして道を挟んで左手に大イチョウ (鳥羽天皇お手植えの銀杏、幹周 536cm、樹高 23m) とモミ (幹周 433cm、樹高 30m) の巨樹、右手にスギの巨樹 (幹周 618cm 、樹高 30m) が並ぶ。この前来た時は本堂まで上がらなかったこともあって、こんな巨樹や大樹、老樹があることには全く気付かなかった。本堂前にはイロハモミジの大樹もある。寺務所まで下りて御朱印を頂く。御朱印袋を見ると次の和歌がしたためられていた。
「そのかみはいくよへむらむたよりおば ちとせもここにまつのおのてら」。
午後1時近く、再び国道 27 号線に戻り、舞鶴西ICで舞鶴若狭自動車道に上がり、綾部JCTで京都縦貫自動車道に入り、宮津天橋立ICで下り、天の橋立へ向かう。
3.智恩寺 臨済宗妙心寺派 京都府宮津市文珠
大同3年 (808) に平城天皇の勅願寺として創建され、日本三文殊の一つとして知られ、「切戸の文殊」「九世戸の文殊」「知恵の文殊」とも呼ばれている。この寺の本尊は文殊菩薩だが、この仏像は秘仏とされ、公開されていない。境内にある多宝塔は二重塔で、国の重要文化財に指定されている。境内に入ると、黒松の枝に沢山の小さな扇が吊るされているのが目に入る。ここのおみくじは変わっているとのことだが、どうもこれがそうであるらしい。とにかく夥しい数の扇である。ここでの探訪のお目当てはムクロジの大木だったが、代わりに見たのは霊木「文樹」であった。これは「もんじゅ」と読み、文殊に通う名称とか。高札にはタモ又はタブの木と称し、その樹液は霊気を発し、上質の線香作成に用いられるとあった。霊木には注連縄が巻いてあった。
4.天の橋立 日本三景・国の特別名勝・丹後天橋立大江山国定公園
古代より名勝として知られ、小式部内侍が母 (和泉式部) を焦がれて詠んだ歌「大江山いくのの道の遠ければ まだふみもみず天の橋立」は百人一首にも収められている。ここは宮津湾と阿蘇海を東西に隔てる全長 2.6km の湾口砂州で、約5千本の松が生えているという。智恩寺のある陸地と砂州の間には「九世の戸」という島?があり、天の橋立へは、古くは渡し船で渡っていて、「九世の渡し」と言われていたが、後に小天橋 (回旋橋) と大天橋で結ばれ今日に至っている。私たちはここで約1時間ばかり、由緒ある松と黒松に寄生する寄生木を観察した。その後私は砂州の略3分の1の地点まで往復した。
出会った命名松は次の通りである。南から北に向かって、小天橋を渡った所には「九世戸の松」(九世の戸にある松.傍らには特別名勝天橋立碑が立っている)。大天橋を渡った砂州の最も南には「知恵の松」(三人寄れば文殊の知恵というが,一つの根から三又になった松)。更に北へ、恩賜記念碑の近くには「雲井の松」(雲の合間に座るが如く聳え立つ松)。そして名勝天橋立の碑に近く「式部の松」(ほっそりした赤松の美しい姿から,和泉式部に例えられた松)。更に北へ進むと天橋立神社があり、皇太子殿下お手植えの松の記念碑の傍に「御手植の松」がある。これは大正5年 (1916) に昭和天皇が皇太子時代に御手植えされた松である。私が見たのはこの5本だが、更に北の船越までにはまだ10本の命名松がある。名称のみを挙げておく。南から順に、「千貫松」「阿蘇の松」「夫婦松」「羽衣の松」「雪舟の松」「なかよしの松 (2代目)」「小袖の松」「見返りの松」「双龍の松」「船越の松」。
午後4時に智恩寺の駐車場を出て、府道9号を南下し峠越えして、福知山市大江町佛性寺にある宿舎の大江山グリーンロッジに入る。当初は私たちのみとのことだったが、入口の案内板には、石川巨樹の会のほかに、関西学院大学と同志社大学の名があった。ところで翌朝、私はアルコールの勢いもあって朝まで熟睡したが、大学生らは一晩中廊下で騒いでいたという、これには恐れ入った。人の迷惑を顧みない傍若無人ぶり、これが一流大学の学生の実態とすれば、何をか言わんやである。朝、廊下で寝ている女子学生がいた。
登録:
投稿 (Atom)