● ノロノロ大型雨台風
平成23年(2011)8月下旬、フィリピン東方海上に台風11号、小笠原南方洋上に台風12号が発生していた。いずれも当初は西へ移動していて、一時は両台風が揃って日本へ訪れるのではという危惧があった。ところが11号は向きが北西に変わったものの、更に北寄りに進路を取ることなく、台湾から中国へと行き、熱低になった。一方の12号は大型に発達し、目の径も50kmとバカでかい台風に成長した。でも進路は相変わらず西もしくは西北西、しかしいつ北方向へ転向するかが問題だった。当初の予報では、石川県への影響は、2日には通り抜けて、3日には天気は回復するとのことだった。ところが後々の弁明では、北太平洋とモンゴルに高気圧があって、行く手を阻まれ、かつ偏西風の流れが悪くて北へ転向できず、四国南洋上でようやく北北西に向きを変えたと。でもこの時暴風域は径500km、強風域は径1,200kmもの大型台風に、中心気圧も960hPaに発達していた。しかも速度は10~15km/hと自転車並み、そのことでこの台風はとんでもない土産をもたらすことになった。
紀伊半島の中央に位置する紀伊山地のうち、奈良県南部を南北に大峰山脈が、それに平行して三重県との県境には台高山脈が走り、前者を源として十津川(上流は天ノ川)が、後者を源として北山川が流れ、いずれの谷も深く、谷筋にはダムが多い。十津川は奈良県から和歌山県へ入り新宮市宮井で、北山川は奈良県から三重・和歌山の県境から「トロ峡」を経て宮井で十津川と合流し、和歌山・三重県境を熊野川(旧名新宮川)となって太平洋の熊野灘に注ぐ。このうち台高山脈の盟主大台ヶ原山は、日本で最も降雨量が多い、世界でも有数の多雨地域として知られている場所である。
台風の四国への上陸は9月3日だったが、南洋上にあるときから進行方向東側に、南から反時計回りの大きな温かい流れがあり、かつ北太平洋の高気圧の縁からも同様に時計回りに吹き出す流れがあり、この二つがぶつかり合って、台高山脈を中心に史上空前の降雨量が記録された。大台ヶ原山の東に位置する三重県大台町(旧宮川村)と西側に位置する上北山村では特に顕著で、後者では年間降雨量2,700mmのうちの2/3にあたる1,800mmが5日間で降ったという。大台町でも1,600mm、十津川村でも1,200mmが降った。そのため山間部では降雨による土砂災害、下流の熊野川では堤防決壊による浸水被害が起きた。この台風の特徴は、大型で速度が遅く、風害よりも台風の進行方向東側の雨雲の異常な発達による猛烈な降雨、時に時間当たりにして100mmを超す降雨が長時間続いたことによる。そして、この降雨は台風が日本海へ抜けた4日にも更に続いたという。被害は近畿南部で特に甚大であった。
● 金沢賛歌!大滝由季生大作展 時空を見つめて大地に立つ
表記展覧会が9月3日(土)~8日(木)の6日間、北國新聞交流ホールで開催されるという案内を大滝さんから頂いた。丁度台風が石川県へ最接近するという情報があり、心配していたが、台風はこの日の未明に高知県へ上陸したとか、金沢の天気は曇り、でも降水確率は50%ということで雨靴を履き傘を持って家を出た。当初の計画では、11時に「やまぎし」へ行きそばを食い、歩いて北國新聞社へ行き、とってかえして音楽堂に戻り、午後3時から今シーズン初のOEK第310回定期公演を聴くことにしていた。バス停は我が家の前にあり、10:19の金沢駅行きに乗る予定をしていた。バスが来て乗ったものの、このバスは遅れてきた小立野行きだった。仕方なく香林坊で下りて、北國新聞社に向かうことに。
交流ホールは赤羽ホールの1階にあり、大滝さんほか20人ばかりの方々が見えていた。大滝さんは4年前に探蕎会で講演されたが、それによると、昭和40年(1965)に文化勲章を授与された田崎広助さんに師事され、薫陶を受けられた。大滝さんのその頃の絵の題材は「山」が多く、これは師の影響を受けてのことだったと思われる。ただ大滝さんの弁では、その絵の中には必ず生活の営みが見えることが大前提、だから純粋に山のみを描いた絵は大滝さんにはない。ずっと一水会に所属されていたが、会で大滝さんの絵を探すには山がターゲットだった。ところが師から、自分が最も愛している郷里の山河や風土を描くようにと言われ、アトリエが寺町のW坂上の高台にあることから、犀川を挟んで見える金沢の町並み、犀川上流に見える医王山や戸室山、そして金沢の街角など、金沢を題材とした作品に取り組まれるようになった。5年前にはそれまで描き続けてこられた「大作百二十点」が金沢21世紀美術館市民ギャラリーで開催されたが、今回は「金沢賛歌」と題して、金沢やその街角の風景を題材にした300号や200号の大作を中心とした絵の展示が主である。以下に展示された作品の名称と制作年をメモした。順は制作年順である。
交流ホールの入り口には薔薇をあしらった画が4点置いてあった。 (1)「薔薇」(2007)6号F. (2)「薔薇の饗宴」(2008)120号. (3)「窓辺の薔薇」(2008)10号F. (4)「白い壷のばら」(2009)8号F.
交流ホールの展示作品: (1)「鳥小屋のある露地」 (1965)50号F. (2)「屋台のある街角」 (1966)80号F. (3)「辰巳用水の雪」 (1967)50号F. (4)「ポスターの前」 (1967)100号F. (5)「犀川夕照」 (1987)100号P. (6)「桜坂の月」 (1989)50号F. (7)「けむる医王」 (1991)100号F. (8)「戸室への道」 (1997)100号F. (9)「五月の高台」 (2001)100号F. (10)「神苑」 (2002)50号F. (11)「浅野川の雪」 (2003)100号F. (12)「戸室山と街と」 (2005)150号F. (13)「県都悠久」 (2005)300号P. (14)「画室の桜」 (2008)50号F. (15)「街道筋の老舗」 (2006)60号F. (16)「初春の賑わい広場」 (2007)60号F. (17)「画室の窓」 (2008)50号F. (18)「杜の都」 (2008)300号P. (19)「いいね金沢」 (2009)60号F. (20)「森の都に虹」 (2009)200号P. (21)「坂の上のかざみどり」 (2010)60号F. (22)「六月の涼風」 (2011)60号F. (23)「卯辰山の華の宴」 (2011)300号P. 以上23点。
この展示には、半世紀近く前の初期の作品も出品されているが、当初はモノトーンであった画が、次第に色彩が華やかになり、300号という大作でも細部にわたって筆を入れられ、金沢のエッセンスが凝縮されているというような印象を受ける。そしてここ3年位前からは、絵の具を盛る技法を用いることにより、より立体的な感覚を持たせた豪華な作品に仕上がっている。最後の300号の作品は、ミレー友好協会展での受賞作である。
大滝さんは昭和4年(1929)生まれの81歳、これからも絵を描き続けると、そして特に変貌していく金沢の古き良さを画に残しておきたいと仰る。現在、石川県美術文化協会理事・日展会友・元一水会会員(平成20年退会)・ミレー友好協会委員である。
● 蕎麦「やまぎし」
開店は11時半なのだが、いつも11時に入るようにしている。この時間だとまだお客は来ておらず、確実にジッツできるからである。新聞社を出たのが11:10、すぐにバスに飛び乗って「やまぎし」へ、11:25だった。バスを降りたら前の駐車場は満タン、これは遅かったか、もし一杯なら諦めようと思って入ったら、私が最初だった。もっとも開店時間には席は埋まってしまった。久しぶりである。券売機には焼酎、お酒、ビール、ノンアルコールの表示もあるようになっていて、こんなオプションも付加できるのだなと感心する。焼酎(100ml)2杯と「粗挽き大盛り」を求めた。満席の皆さんも粗挽きばかりなのには驚いた。奥さんはこれまでは水曜のみのお出ましの筈なのにおいでるので聞くと、開店時からおいでた女の方が辞められ、代わりの方の応援だとか。この焼酎には粗挽きが実に似合う。お客さんは大概30分程で回転するが、私は45分位だ。待つ人もあり、出ることに。演奏会は15:00から、音楽堂のカフェテリアで時間をつぶそう。
2011年9月7日水曜日
2011年9月1日木曜日
『ドンキホーテの弁解』を読んで
『ドンキホーテの弁解』 One Word Too Many Again 永坂鉃夫著 前田書店 1,000円 (2002)
私のワープロには、永坂先生の随想のドンキホーテ・シリーズの第2作から第4作の、いわゆる読後感を記したものが残っている。その読後感を「晋亮の呟き」に再録しようと思ったのだが、何故か第1作の読後感が手元にない。そこで改めて第1作の『ドンキホーテの弁解』を読み返して、読後感を書こうと思う。先生からご恵送頂いて御礼申し上げなかったことはないと思うのだが、何せ手元に残っていないこともあって、緊急に対応しようとした。ただ発行から9年を経ていて、あの時の印象と現在の印象とでは読後感に差が生じていると思われるが、それは止むを得ないのではと思っている。
以下の拙い読後感を、敬愛する永坂先生に捧げる。
1.羊歯への思い
先生が羊歯に一時大変熱中され、採集に営林署の許可を貰われて国立公園内で採集されたとあるのは、単なる収集でなく、学問的な裏付けのある実績がないと許可されない筈です。私の叔父も羊歯ではないのですが、同様の採集許可を貰って白山での植物調査に当たったことがあり、私も同行したことがありますが、やはり半端ではありませんでした。先生は夢中になられていたとありますが、もう一端の羊歯の権威にまで昇華されていたように思えます。私も一時羊歯に興味を持ち標本作りに励みましたが、とても横綱と褌担ぎ程の差があるようです。私も日本シダの会が編纂した東大出版会発行の本を持っていますが、十分な活用をしたわけではありません。先生が長崎の鳴滝で見られた珍しい羊歯がヨーロッパではごくありふれた種類とのこと、先生の推理は的を射てるかも知れません。
コケシノブは可愛い羊歯ですが、属名が Hymenophylum というのは、葉が一層で薄く、光を透過する様が、何とも初々しいからでしょうか。英名は filmy fern だそうです。あの浅い緑色はクジャクシダの淡い緑色に似てませんか。
春には先生お手摘みのクサソテツの若芽のコゴミをお届け下さり有り難うございます。大事にもっぱら天ぷらにして食べるのですが、何か保存方法があるのでしょうか。昔は裏の背戸にも生えていましたが、環境の変化からか、なくなってしまいました。そういえば、コンテリクラマゴケ rainbow fern も消えました。食用羊歯では古くからゼンマイは保存食でしたが、近頃はワラビも塩蔵して保存できるようです。羊歯の虫食いは余り見ませんが、先生は噛まれて何か薬用成分がと仰っていますが、薬学分野では余り興味を示す人がいないのは残念で、案外と盲点なのかも知れません。昔一時城内移転した生薬学教室の裏手にコタニワタリが生えていましたが、あのクルッとしたオオタニワタリの新葉を食べられたとか、うまいんでしょうね。でも内地ではできない相談です。
ヒカゲノカズラ、昔は詰め物によく使いましたが、あんなに沢山の量をどこから仕入れたのか不思議でした。山ではよく見かけますが、先生が言われるように、敷き詰めたように生えているのは見たことはありません。でも、あるところにはあるようですね。そしてあの黄色い花粉のような胞子、私たちも物理の実験で使いました。
先生のお母さんの実家、昔は竹薮や雑木林が広がる田舎だったとか、あっという間に竹薮や雑木林がなくなり、田圃が埋め立てられ、殺風景な街並みに変わってしまったようですね。核家族化がそれを助長しているのでは。ところで私が住む野々市町で竹薮のあるのは小生宅のみになりました。まだホウチャクソウやアオマムシグサが健在です。シケチシダ、ベニシダ、ゼンマイ、チャセンシダもいます。でも消えた植物も沢山あります。本文に出てくるドンドロベはジャノヒゲのことじゃないでしょうかね。
2.世界の蕎麦
確かに世界の蕎麦情報はかなり貧困で、産出量にしても蕎麦を輸出している国のデータしか出てきませんし、喫食状況にしても断片的な記載にしか接していません。先生が国内にある各国の大使館に質問状を出されたのは正に画期的なことですが、対応は実にお粗末ですね。おそらく温帯域であれば蕎麦は栽培されていると思われますが、マイナーな食物であれば、国としての把握がないことは十分考えられることです。食形態にしても、麺形態で食べるというのは恐らく少ないでしょうね。でも少なくとも蕎麦にまつわる言葉が現存していれば、蕎麦に野生はありませんから、栽培されていたということは十分考えられますね。一部でもその成果をお纏めになっては如何でしょうか。
語源的には、蕎麦の実がブナの実と似ているとするのが学名以外にもあるとすると、少なくともその地域に居住する人は、ブナの実を知っていなければならないことになりますね。だからブナ林がない地域では、ブナに因んだ名称が出てこないのは当然とも言えます。「〇〇の小麦」という言い回しは、それを物語っていると言えそうですね。日本でも「くろむぎ」と呼ばれ、源順の『倭名類衆抄』十七巻には「久呂無木」との訓読がみられ、漢名の俗称「烏麦」にも通じると新島繁の「蕎麦の事典」にあります。
一つ気になったことがあります。本文に、赤花、白花、黄花が互い違いに植えられていたりすると、眺めてどれほど美しい景色になるだろうとありますが、ダッタンそばは別として、白と赤は交配しますので、風媒花でもあり、一緒の作付けは多分出来ない相談と思います。
3.偉人の名前
先生の名前のテツヲのテツは金偏に矢と書く鉃ですが、この字は通常のパソコンでは出てこない字です。私のワープロでは合成できます。いま私の手元にある大修館の漢語新辞典という中辞典をを見ますと、金偏に矢と書く「鉃」は、漢音ではシ、呉音ではジ、ただ日本では鉄の俗字でテツとも読めるとあり、字義は、①やじり。とあります。一方「鉄」は、漢音ではテツ、呉音ではテチで、字義は、①てつ、くろがね。②武器、刃物。③かね、かなもの。④他の語の上につけて、堅い・強い・正しいなどの意を表す。とあり、旧字体は「 」、古字は金偏に夷である。このように前者は金+矢、後者は金+失で、元は金+夷であり、成因が違うようです。
ポンペ先生については、広辞苑では、先生が間違いとされる Jonnkeer Johannes Lydius Catharinus Pompe van Meerdervoort とありました。戸籍は外国では全くないのでしょうか。それにしても、称号や洗礼名や出身地などが付いたものが本名となるのは、往々にしてあることなのでしょうか。でもポンペがあだ名でなく本名に落ち着いたようですね。あの作曲家のメンデルスゾーンも本名は実に長ったらしいものでした。
4.恩師の蔵書
先生が恩師中の恩師と言われる高木健太郎先生、参議院議員で2期目の途中でお亡くなりになりましたね。献体法の制定に関わった方とありましたが、高木先生自身献体されたのではなかったでしょうか。私が知っているのはその程度ですが、研究者として教育者として、その発想が独創的なのは、高木先生の旺盛な好奇心のなせる業とか、弟子?達は戸惑うかも知れませんが、後になってみれば、それが大いなる財産になったことになるのでしょうね。門下生の方々は実に素晴らしい時空を持たれたものです。後に「やぶにらみの生理学」が出版されたのも、当然の帰結のような気がします。
さて、高木先生が残された膨大な蔵書のこと、先生が最後の整理をなさったとのことでしたが、ケリはついたのでしょうか。というのも、私の叔父は経営工学の草分けで、大学教授をしていて、その木村ゼミからは大学教授や国会議員、大会社の経営者などを多く輩出していて、争議には70人ばかりが来てくれました。沢山の蔵書があり、私は在籍していた大学に引き取って頂けないかと掛け合い、その時は快諾を得たのですが、後で組織としては困難ということになり、結果的には大部分がゴミとして処分されました。没後では、蔵書の処理というのは大変だということが分かりました。本というゴミは、通常のゴミより費用がずっと割高だとか、けったいなことなのですが、門外漢には本当にゴミなんでしょうね。
本の題名についた「やぶにらみ」という形容語、病名を表していないのは明白なのに、何をいちゃもんつけるのですかね。言葉そのものを抹殺するというのは正にファッショです。馬鹿の一つ覚えもいいとこです。でも病名は転換が多いですね。認知症という語を考えた人は自画自賛してるとのことですが、新しい差別語もどんどん作られているのに、これにもどんどん対応してほしいものです。先生の主張は的を射てます。「婦人」という語も差別語とか。ふざけています。
5.修道士カドフェル
先生は表題が主人公で、シュルスバリの修道院を主な舞台としたミステリー・シリーズに取りつかれ、日本で評判になる前から愛読され、実物に接されていないにもかかわらず、登場する事物が頭の中でリアルに描写されるまでになられました。こうなると、機会あれば訪ねてみたいという気持ちが募るのも、自然の成行きなのでしょう。でも本当に実現されたのには脱帽です。それで空想の世界と現実の世界とは異なっていたとしても、先生は訪ねなかった方が良かったかも知れないと仰っていますが、それは結果であって、一度は訪れないと気が済まなかったでしょうね。それにしても、舞台となった町がダーウィンの生まれた町だったとは、先生ご存知だったのでしょうか。
6.木ときのこ
この章を読むと、先生の博識と果てしない空想力に感心せずにはおれません。キノコはこちらでは通常コケと言ってますが、ミズゴケやスギゴケもコケです。ただコケ採りと言えば、対象はキノコです。私は採りに行く時は、必ず達人と行きます。採った茸も4割以上が毒か雑ですから、素人判断は禁物です。タマゴタケが味第一級とありますが、分かっていても採らないし食べないでしょう。それはベニテングタケが猛毒で、それに似ているからです。ムスカリンはその毒成分ですが、作用が拮抗するアトロピンはベラドンナや日本に自生するハシリドコロに含まれるアルカロイド、学生のときにはそのハシリドコロのノルヒヨスチアミンの精製に奮闘しました。しかし毒物を扱ったミステリーはあって当然でしょうし、現に事件としても起きてますね。
毒々しい色をした生物には触手が延びないのは人間様だけではないのですね。しかし警戒色である一方で、誘因色でもあるのではないでしょうか。落葉樹の芽鱗のほんのりとした紅色に合目的的な意味があったとは初めて知りました。
木に霊が宿るという念は私もそう思います。特に巨樹に出会うと、その樹には神が宿っているような気がします。巨樹の会には、発会したときの会長の里見先生とは懇意にして頂いていたこともあって、会員にはなっていますが、亡くなられてからは活動しない会員です。探蕎会でも寺田先生以下何人かが所属されているようです。今夏二度も国指定の特別天然記念物の石徹白の大杉への対面を逃してしまいましたが、せめて今年中には大杉だけにでも面会したいと願っています。仏師は樹の霊を信じ、そして魂を吹き込むと言いますが、敬虔になれば、万物に霊が宿ると思うようになるのではないでしょうか。
7.ドンキホーテの八つ当たり
①マスコミのお言葉:NHKが自局の番組のナレーターの話し方の暴走に物申せないとは、ならば話し方教室など止めてしまえと言いたいですね。しかし勇気ある先生の矛先をよくぞかわしましたね。 ②カタカナ語のアクセント:日本語のカナは便利で、どんな外国語もカナに変換できますが、どっこいアクセントは原語とは似ても似つかないものになっていますが、この矯正を教育の対象にするのは、難問ですね。 ③外国語の案内:交通法規ほか、規則が国によって違うことは、よく外国へ行かれる先生はよくご存知なのでしょうが、個人の判断で「良い」が「悪い」となると、頭が混乱します。金沢でも外国語の説明文や案内文があっても、採点が「可」ではね。 ④たらいまわし:役人というのはとかく責任の所在を曖昧にするのが本分、「たらいまわし」は日常茶飯事の常套手段です。役人は権力にはへいこらするが、一市民の申し出なぞ善処しますでお終いです。 ⑤マナーと国際語:「自分にされて嫌なことを他人にしない」というのは鉄則でしょうが、とかく外国語を喋られるようになると天狗になってしまい、私は偉いのだと勘違いし、とかくマナーは二の次になってしまう。 ⑥仕方がないは国を滅ぼす:老人や障害者に席を譲るのに出くわすと、何とも爽やかな気になる。でも中には老人優先席に座っていながら席を譲らない若者もいる。でもそれを注意するには大変な勇気が要る。 ⑦医の倫理:医の倫理などあってなきが如しでしょう。医師のあるべき姿が「安逸を思わず、名利を顧みず、唯己を捨て人を救わんことを希ふべし」だとしても、実践される方は少ないのではないでしょうか。
私のワープロには、永坂先生の随想のドンキホーテ・シリーズの第2作から第4作の、いわゆる読後感を記したものが残っている。その読後感を「晋亮の呟き」に再録しようと思ったのだが、何故か第1作の読後感が手元にない。そこで改めて第1作の『ドンキホーテの弁解』を読み返して、読後感を書こうと思う。先生からご恵送頂いて御礼申し上げなかったことはないと思うのだが、何せ手元に残っていないこともあって、緊急に対応しようとした。ただ発行から9年を経ていて、あの時の印象と現在の印象とでは読後感に差が生じていると思われるが、それは止むを得ないのではと思っている。
以下の拙い読後感を、敬愛する永坂先生に捧げる。
1.羊歯への思い
先生が羊歯に一時大変熱中され、採集に営林署の許可を貰われて国立公園内で採集されたとあるのは、単なる収集でなく、学問的な裏付けのある実績がないと許可されない筈です。私の叔父も羊歯ではないのですが、同様の採集許可を貰って白山での植物調査に当たったことがあり、私も同行したことがありますが、やはり半端ではありませんでした。先生は夢中になられていたとありますが、もう一端の羊歯の権威にまで昇華されていたように思えます。私も一時羊歯に興味を持ち標本作りに励みましたが、とても横綱と褌担ぎ程の差があるようです。私も日本シダの会が編纂した東大出版会発行の本を持っていますが、十分な活用をしたわけではありません。先生が長崎の鳴滝で見られた珍しい羊歯がヨーロッパではごくありふれた種類とのこと、先生の推理は的を射てるかも知れません。
コケシノブは可愛い羊歯ですが、属名が Hymenophylum というのは、葉が一層で薄く、光を透過する様が、何とも初々しいからでしょうか。英名は filmy fern だそうです。あの浅い緑色はクジャクシダの淡い緑色に似てませんか。
春には先生お手摘みのクサソテツの若芽のコゴミをお届け下さり有り難うございます。大事にもっぱら天ぷらにして食べるのですが、何か保存方法があるのでしょうか。昔は裏の背戸にも生えていましたが、環境の変化からか、なくなってしまいました。そういえば、コンテリクラマゴケ rainbow fern も消えました。食用羊歯では古くからゼンマイは保存食でしたが、近頃はワラビも塩蔵して保存できるようです。羊歯の虫食いは余り見ませんが、先生は噛まれて何か薬用成分がと仰っていますが、薬学分野では余り興味を示す人がいないのは残念で、案外と盲点なのかも知れません。昔一時城内移転した生薬学教室の裏手にコタニワタリが生えていましたが、あのクルッとしたオオタニワタリの新葉を食べられたとか、うまいんでしょうね。でも内地ではできない相談です。
ヒカゲノカズラ、昔は詰め物によく使いましたが、あんなに沢山の量をどこから仕入れたのか不思議でした。山ではよく見かけますが、先生が言われるように、敷き詰めたように生えているのは見たことはありません。でも、あるところにはあるようですね。そしてあの黄色い花粉のような胞子、私たちも物理の実験で使いました。
先生のお母さんの実家、昔は竹薮や雑木林が広がる田舎だったとか、あっという間に竹薮や雑木林がなくなり、田圃が埋め立てられ、殺風景な街並みに変わってしまったようですね。核家族化がそれを助長しているのでは。ところで私が住む野々市町で竹薮のあるのは小生宅のみになりました。まだホウチャクソウやアオマムシグサが健在です。シケチシダ、ベニシダ、ゼンマイ、チャセンシダもいます。でも消えた植物も沢山あります。本文に出てくるドンドロベはジャノヒゲのことじゃないでしょうかね。
2.世界の蕎麦
確かに世界の蕎麦情報はかなり貧困で、産出量にしても蕎麦を輸出している国のデータしか出てきませんし、喫食状況にしても断片的な記載にしか接していません。先生が国内にある各国の大使館に質問状を出されたのは正に画期的なことですが、対応は実にお粗末ですね。おそらく温帯域であれば蕎麦は栽培されていると思われますが、マイナーな食物であれば、国としての把握がないことは十分考えられることです。食形態にしても、麺形態で食べるというのは恐らく少ないでしょうね。でも少なくとも蕎麦にまつわる言葉が現存していれば、蕎麦に野生はありませんから、栽培されていたということは十分考えられますね。一部でもその成果をお纏めになっては如何でしょうか。
語源的には、蕎麦の実がブナの実と似ているとするのが学名以外にもあるとすると、少なくともその地域に居住する人は、ブナの実を知っていなければならないことになりますね。だからブナ林がない地域では、ブナに因んだ名称が出てこないのは当然とも言えます。「〇〇の小麦」という言い回しは、それを物語っていると言えそうですね。日本でも「くろむぎ」と呼ばれ、源順の『倭名類衆抄』十七巻には「久呂無木」との訓読がみられ、漢名の俗称「烏麦」にも通じると新島繁の「蕎麦の事典」にあります。
一つ気になったことがあります。本文に、赤花、白花、黄花が互い違いに植えられていたりすると、眺めてどれほど美しい景色になるだろうとありますが、ダッタンそばは別として、白と赤は交配しますので、風媒花でもあり、一緒の作付けは多分出来ない相談と思います。
3.偉人の名前
先生の名前のテツヲのテツは金偏に矢と書く鉃ですが、この字は通常のパソコンでは出てこない字です。私のワープロでは合成できます。いま私の手元にある大修館の漢語新辞典という中辞典をを見ますと、金偏に矢と書く「鉃」は、漢音ではシ、呉音ではジ、ただ日本では鉄の俗字でテツとも読めるとあり、字義は、①やじり。とあります。一方「鉄」は、漢音ではテツ、呉音ではテチで、字義は、①てつ、くろがね。②武器、刃物。③かね、かなもの。④他の語の上につけて、堅い・強い・正しいなどの意を表す。とあり、旧字体は「 」、古字は金偏に夷である。このように前者は金+矢、後者は金+失で、元は金+夷であり、成因が違うようです。
ポンペ先生については、広辞苑では、先生が間違いとされる Jonnkeer Johannes Lydius Catharinus Pompe van Meerdervoort とありました。戸籍は外国では全くないのでしょうか。それにしても、称号や洗礼名や出身地などが付いたものが本名となるのは、往々にしてあることなのでしょうか。でもポンペがあだ名でなく本名に落ち着いたようですね。あの作曲家のメンデルスゾーンも本名は実に長ったらしいものでした。
4.恩師の蔵書
先生が恩師中の恩師と言われる高木健太郎先生、参議院議員で2期目の途中でお亡くなりになりましたね。献体法の制定に関わった方とありましたが、高木先生自身献体されたのではなかったでしょうか。私が知っているのはその程度ですが、研究者として教育者として、その発想が独創的なのは、高木先生の旺盛な好奇心のなせる業とか、弟子?達は戸惑うかも知れませんが、後になってみれば、それが大いなる財産になったことになるのでしょうね。門下生の方々は実に素晴らしい時空を持たれたものです。後に「やぶにらみの生理学」が出版されたのも、当然の帰結のような気がします。
さて、高木先生が残された膨大な蔵書のこと、先生が最後の整理をなさったとのことでしたが、ケリはついたのでしょうか。というのも、私の叔父は経営工学の草分けで、大学教授をしていて、その木村ゼミからは大学教授や国会議員、大会社の経営者などを多く輩出していて、争議には70人ばかりが来てくれました。沢山の蔵書があり、私は在籍していた大学に引き取って頂けないかと掛け合い、その時は快諾を得たのですが、後で組織としては困難ということになり、結果的には大部分がゴミとして処分されました。没後では、蔵書の処理というのは大変だということが分かりました。本というゴミは、通常のゴミより費用がずっと割高だとか、けったいなことなのですが、門外漢には本当にゴミなんでしょうね。
本の題名についた「やぶにらみ」という形容語、病名を表していないのは明白なのに、何をいちゃもんつけるのですかね。言葉そのものを抹殺するというのは正にファッショです。馬鹿の一つ覚えもいいとこです。でも病名は転換が多いですね。認知症という語を考えた人は自画自賛してるとのことですが、新しい差別語もどんどん作られているのに、これにもどんどん対応してほしいものです。先生の主張は的を射てます。「婦人」という語も差別語とか。ふざけています。
5.修道士カドフェル
先生は表題が主人公で、シュルスバリの修道院を主な舞台としたミステリー・シリーズに取りつかれ、日本で評判になる前から愛読され、実物に接されていないにもかかわらず、登場する事物が頭の中でリアルに描写されるまでになられました。こうなると、機会あれば訪ねてみたいという気持ちが募るのも、自然の成行きなのでしょう。でも本当に実現されたのには脱帽です。それで空想の世界と現実の世界とは異なっていたとしても、先生は訪ねなかった方が良かったかも知れないと仰っていますが、それは結果であって、一度は訪れないと気が済まなかったでしょうね。それにしても、舞台となった町がダーウィンの生まれた町だったとは、先生ご存知だったのでしょうか。
6.木ときのこ
この章を読むと、先生の博識と果てしない空想力に感心せずにはおれません。キノコはこちらでは通常コケと言ってますが、ミズゴケやスギゴケもコケです。ただコケ採りと言えば、対象はキノコです。私は採りに行く時は、必ず達人と行きます。採った茸も4割以上が毒か雑ですから、素人判断は禁物です。タマゴタケが味第一級とありますが、分かっていても採らないし食べないでしょう。それはベニテングタケが猛毒で、それに似ているからです。ムスカリンはその毒成分ですが、作用が拮抗するアトロピンはベラドンナや日本に自生するハシリドコロに含まれるアルカロイド、学生のときにはそのハシリドコロのノルヒヨスチアミンの精製に奮闘しました。しかし毒物を扱ったミステリーはあって当然でしょうし、現に事件としても起きてますね。
毒々しい色をした生物には触手が延びないのは人間様だけではないのですね。しかし警戒色である一方で、誘因色でもあるのではないでしょうか。落葉樹の芽鱗のほんのりとした紅色に合目的的な意味があったとは初めて知りました。
木に霊が宿るという念は私もそう思います。特に巨樹に出会うと、その樹には神が宿っているような気がします。巨樹の会には、発会したときの会長の里見先生とは懇意にして頂いていたこともあって、会員にはなっていますが、亡くなられてからは活動しない会員です。探蕎会でも寺田先生以下何人かが所属されているようです。今夏二度も国指定の特別天然記念物の石徹白の大杉への対面を逃してしまいましたが、せめて今年中には大杉だけにでも面会したいと願っています。仏師は樹の霊を信じ、そして魂を吹き込むと言いますが、敬虔になれば、万物に霊が宿ると思うようになるのではないでしょうか。
7.ドンキホーテの八つ当たり
①マスコミのお言葉:NHKが自局の番組のナレーターの話し方の暴走に物申せないとは、ならば話し方教室など止めてしまえと言いたいですね。しかし勇気ある先生の矛先をよくぞかわしましたね。 ②カタカナ語のアクセント:日本語のカナは便利で、どんな外国語もカナに変換できますが、どっこいアクセントは原語とは似ても似つかないものになっていますが、この矯正を教育の対象にするのは、難問ですね。 ③外国語の案内:交通法規ほか、規則が国によって違うことは、よく外国へ行かれる先生はよくご存知なのでしょうが、個人の判断で「良い」が「悪い」となると、頭が混乱します。金沢でも外国語の説明文や案内文があっても、採点が「可」ではね。 ④たらいまわし:役人というのはとかく責任の所在を曖昧にするのが本分、「たらいまわし」は日常茶飯事の常套手段です。役人は権力にはへいこらするが、一市民の申し出なぞ善処しますでお終いです。 ⑤マナーと国際語:「自分にされて嫌なことを他人にしない」というのは鉄則でしょうが、とかく外国語を喋られるようになると天狗になってしまい、私は偉いのだと勘違いし、とかくマナーは二の次になってしまう。 ⑥仕方がないは国を滅ぼす:老人や障害者に席を譲るのに出くわすと、何とも爽やかな気になる。でも中には老人優先席に座っていながら席を譲らない若者もいる。でもそれを注意するには大変な勇気が要る。 ⑦医の倫理:医の倫理などあってなきが如しでしょう。医師のあるべき姿が「安逸を思わず、名利を顧みず、唯己を捨て人を救わんことを希ふべし」だとしても、実践される方は少ないのではないでしょうか。
2011年8月25日木曜日
人と微生物との関わり
平成9年(1997)4月29日に金沢市で開催された石川県栄養士会の総会において、表記表題でもって特別講演を行なったが、以下はその時の講演要旨である。十数年を経て、若干違和感が無きにしも非ずだが、「晋亮の呟き」に再掲する。
微生物というと、黴菌、伝染病、食中毒という悪いイメージを連想することが多い。事実、微生物の仕業と分かる以前にも、人類は天然痘、ペスト、コレラ等の伝染病に悩まされ、その原因が未知だっただけに、神がかりなものとして極度に恐れられてきた。食中毒にしても、これは有史以前からあったに違いなく、微生物によるものばかりではなく、経験的に、どういうものが食べられ、どういう状態が安全であるのか、またどういうものが有毒で、どういう状態になると食べられなくなるのかを、長い年月をかけて会得してきた。
しかし一方で、これも微生物の仕業と分からなかったまでも、人はおろか猿までもが、酒を醸しだす技術を身に付けるようになったが、これは微生物の有用な利用の一方の旗頭として、我々人類にとってはなくてはならないものとなっている。
ところで、微生物学という学問は、伝染病の原因究明という大義名分のもと、病原微生物学として発展してきた。しかし、人にとって病原微生物といった場合、この一群の微生物は、とりもなおさず人の体温、すなわち37℃近辺を最も至適温度として増殖できることが最大の条件であり、大部分の病原微生物はこの範疇に入っている。しかしながら、このようないわゆる中温菌といわれる一群の菌群は、全体の微生物からすれば極めて少ない一握りでしかなく、大部分の微生物は自然界に広く分布している。そしてその生息する場所は極めて多様で、地中深くにも、気温が高い乾燥した砂漠にも、一年中氷で覆われている南極大陸にも、90℃を超える非常に高温な温泉の中にも、水深1万mを超す海底にも微生物は生息している。そしてこの自然界には、我々が未だ知らない微生物が、かなりの数存在しているであろうことは、十分予想されることである。
我々は微生物の洪水の中で生活をしていると言っても過言ではない。土の中、水の中、空気中等の環境、我々人体の表面、口、鼻、喉、消化管、生殖器等、外気と接しまたは通じている器官には、夥しい数の微生物が常在している。このような微生物の一群はノーマル・フローラ:正常細菌叢と呼ばれているが、平常は我々にとって不都合なことはほとんどなく、かえってこのようなフローラのない方の害の方が遥かに大きく、人の場合でも、大部分のノーマル・フローラは宿主である人と共存共栄、すなわち「共生」している。
我々にとって、食品や食材の腐敗は好ましいことでないばかりか、病気の一因となる。しかし、これら自然界に無数に存在する微生物は、自然界にとってはなくてはならない存在である。物質の輪廻を考えてみると、植物は無機体から有機体を形成するが、有機体を無機体にすることは出来ない。また動物は人も含め、有機体を利用し、有機体を排泄している。すなわち、動物も植物も有機体から構成されているが、有機体を無機体にする能力を持ち合わせてはいない。ということは、もしこの世の中に微生物、とりわけ有機物を利用する細菌が存在しなかったら、有機体のみが蓄積されることになり、地球上は夥しい量の動植物の屍骸と糞尿とで覆い尽くされてしまうことになる。人がもし有機体を無機体にしなければならないとしたら、燃焼以外に方法は見当たらない。このように微生物の環境浄化力は人智を遥かに超えている。
さて、我々の日常生活を見回してみても、微生物の恩恵に浴していることが如何に多いかに気付くはずである。発酵食品としての酒類(アルコール飲料)、味醂、食酢、大豆製品の味噌、醤油、納豆、水産加工品の鰹節、なれ寿し、くさや、塩辛、魚醤、乳製品としてのバター、チーズ、ヨーグルト、乳酸菌飲料、そのほかにも、パンや漬物、紅茶やウーロン茶等々、我々が口にするもので、微生物の恩恵に浴しているものは枚挙にいとまがない。また、酵素、ホルモン、ビタミン、抗生物質、ステロイドのほか、アルコール類、有機酸類、アミノ酸等も、その製造はまだまだ微生物に依存しているウェイトが高い。一方で、厄介ものの難分解性の合成洗剤、プラスチック、PCB,あるいはタンカーから流失した重油の後処理に、微生物による生分解が期待されていて、既に一部は実用化されている。このように、微生物は昼夜を分かたずに働き続けてくれ、もっと英知を傾ければ、我々人類はまだまだ微生物に頼れる部分が多くあるのではなかろうか。
さて、抗生物質やワクチンの普及、栄養や環境の改善、衛生思想の敷衍等によって、人類は伝染病の恐怖から解放され、もはや伝染病は過去のこととして我々の脳裏から忘れ去られようとしている。確かに、恐れられた天然痘(痘瘡)は、1980年には地球上から根絶されてしまったし、日本でも、戦前は多かったコレラ、赤痢、腸チフス、パラチフス、発疹チフス、ジフテリア等の伝染病は、皆無かもしくは極端に減少してしまった。ところが一方で、日本では発生が見られなくなったトラホームは、中国や東南アジアでは未だ重要な疾患であり、これによる失明者もまだまだ数多い。また発展途上にある国々では、3人に1人は感染症で亡くなっていると言われており、WHOの統計でも、1995年の死亡者数は約1,700万人に達したと報じられている。
現代医学は感染症の制圧に成功したかのような錯覚を感じさせていた時、突如として、先進国でも今まで経験したことがなかったような感染症が人類に襲いかかってきた。1981年に忽然として現れたエイズ:後天性免疫不全症候群を初めとして、新しい感染症が次々と現れてきた。日本でも1996年に大流行した腸管出血性大腸菌O157については未だ記憶に新しい。このように新しく我々の目の前に出現した感染症をエマージング・ディシーズ:新興感染症と呼んでいる。何故このような新しい感染症に我々は遭遇したのだろうか。一説に、20世紀後半の世界人口の急激な増加は、食料増産のために未開の土地を開かざるを得ない状況を作り出し、それに伴う環境破壊によって、これまで人類が知らなかった未知の新しい病原体と遭遇したと予測する人もいる。ともあれ致死性の高い新型の感染症が人類を苦しめることとなる。特にアフリカ奥地、アマゾン流域は、生態系が多様なことで知られているが、一方で病原体が潜む絶好の場所でもある。致死性の高いエボラ出血熱、マールブルグ病、ベネズエラ出血熱等しかりである。このほかにも、英国で起きた狂牛病、その病原体はプリオンと言われているが、クロイツフェルト。ヤコブ病との関連も取り沙汰されていて、牛から人への感染とも相まって、恐怖感が払拭されないでいる。これら新しい感染症は確たる治療法が確立されているわけではなく、またその感染のメカニズムも解明されていないのが現状である。
さて一方で、古くて新しい感染症、リエマージング・ディシーズ:再興感染症も疎かにはできない。インフルエンザは毎年流行する身近なウイルス病であるが、その根絶は極めて困難である。人類にとって「最強最後の感染症」と言われる所以は、その変わり身の速さにある。変幻自在に変化し、免疫系の網を潜り抜け、生き残る逞しさには脱帽せざるを得ない。化学療法剤もワクチンも決め手を欠いている。また日本では制圧に成功したかのように見えた結核も、ここ数年は増加の傾向にある。WHO発表の1995年の感染症による死亡者1,700万人の内、結核による死亡者は約300万人と言われ、この数字は結核が世界的に大流行した1900年前後の年間推定死亡者数を大きく上回る史上最悪の数字と言われている。特に米国では、エイズ患者が結核を発病するケースが増えてきており、20~40歳台の患者の増加が問題視されている。1995年には、結核以外にも、世界中でコレラが前年の4倍を超える規模で流行した。新型のベンガル型コレラ菌O139によるものである。日本でもバリ島帰りのコレラ患者多発は未だ耳に新しい。
そのほか、日本では、24時間風呂でのレジオネラ菌による感染、クリプトスポリジウム原虫による大量水系感染、サルモネラ・エンテリティジスによる食中毒の大量発生、MRSA(メシチリン耐性黄色ブドウ球菌)やVRE(バンコマイシン耐性腸球菌)等の薬剤多剤耐性菌やセラチア菌等のいわゆる日和見菌による院内感染等々、抗生物質の開発は限界に近いと言われているだけに、不測の事態を起こしかねない状況にある。
地球温暖化も厄介である。病原体を運ぶ吸血昆虫が生息域を拡げ、熱帯域での風土病であったデング熱やマラリアや寄生虫病が、再び温帯域まで拡がってくる恐れもある。
しかし一方で、ワクチンの適切な投与により、今後根絶が期待できる感染症も少なくない。ポリオは1961年の生ワクチン投与以降、日本では患者の発生はほぼ皆無に等しくなったことはまだ記憶に新しい。現在このポリオ根絶作戦は、中国や東南アジアで、日本が主導して展開中である。またMMRワクチンが普及するようになれば、麻疹(はしか)や風疹、ムンプス(おたふく風邪)」の発生を激減させることが出来ようし、B型肝炎や成人T細胞白血病も、適切な対応とワクチン投与により、将来はなくなるであろう。エイズやC型肝炎にしても、例え感染しても、ヘルペスウイルスグループ感染の例のように、発病を抑えることが可能になり、ウイルスと共存して生きていけるようになるであろう。トラホームやらいについては、治療法が確立されたこともあって、日本では、その予防法の必要性はなくなり、既に廃止された。
これまで人類は英知でもって感染症に立ち向かい、困難を乗り越えてきた。これからも例え新型の感染症が出現したとしても、化学療法剤やワクチンを含む免疫学的、分子生物学的療法でもって、それを克服するに違いない。しかし、忘れてならないのは、病原体も生き物、人智をもってする数多くのバリアーを乗り越えて子孫を増やそうと策を弄するであろう。とすると、人と病原体との闘いは、長い目で見ると、どちらの勝利もない、いわばいたちごっこの、延々と際限なく続く、デスマッチと言えるかも知れない。
ところで微生物工業は、従来の醗酵工業から脱皮して、新しい世代に入ってきた。醗酵工業では、培地中に微生物の代謝産物を蓄積させ、それを単離して利用するのが一般的な常法であり、その収量を上げるために、自然界で自然に起きる突然変異株(細胞分裂100万回~100億回に1回起きるといわれている)の中に、より優れた株がないかをチェックしてきた。しかし、この「啼くまで待とう」式では、極めて効率が悪いうえ、時間を要した。そこでより突然変異株を効率よく作り出すため、人為的に変異原を用いて誘導する方法が考案された。それには、X線、γ線、紫外線を照射する物理的な方法と、変異原物質を用いる化学的な方法とがあるが、これらの方法は「啼かせて見せよう」式とも言える。その後の解明により、これらの変異は、遺伝子の傷、複製の間違い、組み換えや再編成、動く遺伝子の介入によっていることが判明し、DNA上では、塩基や塩基群の添加、欠損、置換、重複、転座、逆位等がみられた。
一方、細菌を用いた遺伝情報の伝達の研究から、細菌等の原核細胞には、体染色体のほかにプラスミドという伝達可能な遺伝子が存在すること、細菌ウイルスであるバクテリオファージの中には、その遺伝子を細菌の体染色体に取り込ませて組み換えを起こし、溶菌することなく細菌の増殖につれて増殖する溶原化現象を起こす株があることが分かり、プラスミドによる伝達(接合)やファージによる形質導入が可能になった。また、ある細菌から抽出したDNAを他の細菌に取り込ませる形質転換の方法も確立され、細菌間の遺伝情報の伝達に止まらず、外来遺伝子DNAを異種の細胞内に導入し、その形質を発現させるということが可能になった。
更に、ある細胞から抽出したDNAから、目的とする遺伝情報のみを、制限酵素というハサミで切り取る技術が開発され、この情報を運び屋である自己増殖性のある小型DNAのベクター(プラスミドか溶原ウイルス)に、同じ制限酵素で開裂させた箇所にノリの役目をするDNAリガーゼを用いて結合させ、この両種の雑種である組み換えDNA分子を形質転換の技術を応用して宿主の細胞に移し込む、遺伝子組み換え技術が開発された。この宿主の遺伝子工場には、大腸菌、枯草菌、酵母等が好んで用いられ、ヒトの生理活性物質の多くがこの方法で作られ、利用されている。その他、細胞融合やベクターDNAのみを増幅させる方法も考案され、微量生産物質の大量生産も可能になった。
微生物というと、黴菌、伝染病、食中毒という悪いイメージを連想することが多い。事実、微生物の仕業と分かる以前にも、人類は天然痘、ペスト、コレラ等の伝染病に悩まされ、その原因が未知だっただけに、神がかりなものとして極度に恐れられてきた。食中毒にしても、これは有史以前からあったに違いなく、微生物によるものばかりではなく、経験的に、どういうものが食べられ、どういう状態が安全であるのか、またどういうものが有毒で、どういう状態になると食べられなくなるのかを、長い年月をかけて会得してきた。
しかし一方で、これも微生物の仕業と分からなかったまでも、人はおろか猿までもが、酒を醸しだす技術を身に付けるようになったが、これは微生物の有用な利用の一方の旗頭として、我々人類にとってはなくてはならないものとなっている。
ところで、微生物学という学問は、伝染病の原因究明という大義名分のもと、病原微生物学として発展してきた。しかし、人にとって病原微生物といった場合、この一群の微生物は、とりもなおさず人の体温、すなわち37℃近辺を最も至適温度として増殖できることが最大の条件であり、大部分の病原微生物はこの範疇に入っている。しかしながら、このようないわゆる中温菌といわれる一群の菌群は、全体の微生物からすれば極めて少ない一握りでしかなく、大部分の微生物は自然界に広く分布している。そしてその生息する場所は極めて多様で、地中深くにも、気温が高い乾燥した砂漠にも、一年中氷で覆われている南極大陸にも、90℃を超える非常に高温な温泉の中にも、水深1万mを超す海底にも微生物は生息している。そしてこの自然界には、我々が未だ知らない微生物が、かなりの数存在しているであろうことは、十分予想されることである。
我々は微生物の洪水の中で生活をしていると言っても過言ではない。土の中、水の中、空気中等の環境、我々人体の表面、口、鼻、喉、消化管、生殖器等、外気と接しまたは通じている器官には、夥しい数の微生物が常在している。このような微生物の一群はノーマル・フローラ:正常細菌叢と呼ばれているが、平常は我々にとって不都合なことはほとんどなく、かえってこのようなフローラのない方の害の方が遥かに大きく、人の場合でも、大部分のノーマル・フローラは宿主である人と共存共栄、すなわち「共生」している。
我々にとって、食品や食材の腐敗は好ましいことでないばかりか、病気の一因となる。しかし、これら自然界に無数に存在する微生物は、自然界にとってはなくてはならない存在である。物質の輪廻を考えてみると、植物は無機体から有機体を形成するが、有機体を無機体にすることは出来ない。また動物は人も含め、有機体を利用し、有機体を排泄している。すなわち、動物も植物も有機体から構成されているが、有機体を無機体にする能力を持ち合わせてはいない。ということは、もしこの世の中に微生物、とりわけ有機物を利用する細菌が存在しなかったら、有機体のみが蓄積されることになり、地球上は夥しい量の動植物の屍骸と糞尿とで覆い尽くされてしまうことになる。人がもし有機体を無機体にしなければならないとしたら、燃焼以外に方法は見当たらない。このように微生物の環境浄化力は人智を遥かに超えている。
さて、我々の日常生活を見回してみても、微生物の恩恵に浴していることが如何に多いかに気付くはずである。発酵食品としての酒類(アルコール飲料)、味醂、食酢、大豆製品の味噌、醤油、納豆、水産加工品の鰹節、なれ寿し、くさや、塩辛、魚醤、乳製品としてのバター、チーズ、ヨーグルト、乳酸菌飲料、そのほかにも、パンや漬物、紅茶やウーロン茶等々、我々が口にするもので、微生物の恩恵に浴しているものは枚挙にいとまがない。また、酵素、ホルモン、ビタミン、抗生物質、ステロイドのほか、アルコール類、有機酸類、アミノ酸等も、その製造はまだまだ微生物に依存しているウェイトが高い。一方で、厄介ものの難分解性の合成洗剤、プラスチック、PCB,あるいはタンカーから流失した重油の後処理に、微生物による生分解が期待されていて、既に一部は実用化されている。このように、微生物は昼夜を分かたずに働き続けてくれ、もっと英知を傾ければ、我々人類はまだまだ微生物に頼れる部分が多くあるのではなかろうか。
さて、抗生物質やワクチンの普及、栄養や環境の改善、衛生思想の敷衍等によって、人類は伝染病の恐怖から解放され、もはや伝染病は過去のこととして我々の脳裏から忘れ去られようとしている。確かに、恐れられた天然痘(痘瘡)は、1980年には地球上から根絶されてしまったし、日本でも、戦前は多かったコレラ、赤痢、腸チフス、パラチフス、発疹チフス、ジフテリア等の伝染病は、皆無かもしくは極端に減少してしまった。ところが一方で、日本では発生が見られなくなったトラホームは、中国や東南アジアでは未だ重要な疾患であり、これによる失明者もまだまだ数多い。また発展途上にある国々では、3人に1人は感染症で亡くなっていると言われており、WHOの統計でも、1995年の死亡者数は約1,700万人に達したと報じられている。
現代医学は感染症の制圧に成功したかのような錯覚を感じさせていた時、突如として、先進国でも今まで経験したことがなかったような感染症が人類に襲いかかってきた。1981年に忽然として現れたエイズ:後天性免疫不全症候群を初めとして、新しい感染症が次々と現れてきた。日本でも1996年に大流行した腸管出血性大腸菌O157については未だ記憶に新しい。このように新しく我々の目の前に出現した感染症をエマージング・ディシーズ:新興感染症と呼んでいる。何故このような新しい感染症に我々は遭遇したのだろうか。一説に、20世紀後半の世界人口の急激な増加は、食料増産のために未開の土地を開かざるを得ない状況を作り出し、それに伴う環境破壊によって、これまで人類が知らなかった未知の新しい病原体と遭遇したと予測する人もいる。ともあれ致死性の高い新型の感染症が人類を苦しめることとなる。特にアフリカ奥地、アマゾン流域は、生態系が多様なことで知られているが、一方で病原体が潜む絶好の場所でもある。致死性の高いエボラ出血熱、マールブルグ病、ベネズエラ出血熱等しかりである。このほかにも、英国で起きた狂牛病、その病原体はプリオンと言われているが、クロイツフェルト。ヤコブ病との関連も取り沙汰されていて、牛から人への感染とも相まって、恐怖感が払拭されないでいる。これら新しい感染症は確たる治療法が確立されているわけではなく、またその感染のメカニズムも解明されていないのが現状である。
さて一方で、古くて新しい感染症、リエマージング・ディシーズ:再興感染症も疎かにはできない。インフルエンザは毎年流行する身近なウイルス病であるが、その根絶は極めて困難である。人類にとって「最強最後の感染症」と言われる所以は、その変わり身の速さにある。変幻自在に変化し、免疫系の網を潜り抜け、生き残る逞しさには脱帽せざるを得ない。化学療法剤もワクチンも決め手を欠いている。また日本では制圧に成功したかのように見えた結核も、ここ数年は増加の傾向にある。WHO発表の1995年の感染症による死亡者1,700万人の内、結核による死亡者は約300万人と言われ、この数字は結核が世界的に大流行した1900年前後の年間推定死亡者数を大きく上回る史上最悪の数字と言われている。特に米国では、エイズ患者が結核を発病するケースが増えてきており、20~40歳台の患者の増加が問題視されている。1995年には、結核以外にも、世界中でコレラが前年の4倍を超える規模で流行した。新型のベンガル型コレラ菌O139によるものである。日本でもバリ島帰りのコレラ患者多発は未だ耳に新しい。
そのほか、日本では、24時間風呂でのレジオネラ菌による感染、クリプトスポリジウム原虫による大量水系感染、サルモネラ・エンテリティジスによる食中毒の大量発生、MRSA(メシチリン耐性黄色ブドウ球菌)やVRE(バンコマイシン耐性腸球菌)等の薬剤多剤耐性菌やセラチア菌等のいわゆる日和見菌による院内感染等々、抗生物質の開発は限界に近いと言われているだけに、不測の事態を起こしかねない状況にある。
地球温暖化も厄介である。病原体を運ぶ吸血昆虫が生息域を拡げ、熱帯域での風土病であったデング熱やマラリアや寄生虫病が、再び温帯域まで拡がってくる恐れもある。
しかし一方で、ワクチンの適切な投与により、今後根絶が期待できる感染症も少なくない。ポリオは1961年の生ワクチン投与以降、日本では患者の発生はほぼ皆無に等しくなったことはまだ記憶に新しい。現在このポリオ根絶作戦は、中国や東南アジアで、日本が主導して展開中である。またMMRワクチンが普及するようになれば、麻疹(はしか)や風疹、ムンプス(おたふく風邪)」の発生を激減させることが出来ようし、B型肝炎や成人T細胞白血病も、適切な対応とワクチン投与により、将来はなくなるであろう。エイズやC型肝炎にしても、例え感染しても、ヘルペスウイルスグループ感染の例のように、発病を抑えることが可能になり、ウイルスと共存して生きていけるようになるであろう。トラホームやらいについては、治療法が確立されたこともあって、日本では、その予防法の必要性はなくなり、既に廃止された。
これまで人類は英知でもって感染症に立ち向かい、困難を乗り越えてきた。これからも例え新型の感染症が出現したとしても、化学療法剤やワクチンを含む免疫学的、分子生物学的療法でもって、それを克服するに違いない。しかし、忘れてならないのは、病原体も生き物、人智をもってする数多くのバリアーを乗り越えて子孫を増やそうと策を弄するであろう。とすると、人と病原体との闘いは、長い目で見ると、どちらの勝利もない、いわばいたちごっこの、延々と際限なく続く、デスマッチと言えるかも知れない。
ところで微生物工業は、従来の醗酵工業から脱皮して、新しい世代に入ってきた。醗酵工業では、培地中に微生物の代謝産物を蓄積させ、それを単離して利用するのが一般的な常法であり、その収量を上げるために、自然界で自然に起きる突然変異株(細胞分裂100万回~100億回に1回起きるといわれている)の中に、より優れた株がないかをチェックしてきた。しかし、この「啼くまで待とう」式では、極めて効率が悪いうえ、時間を要した。そこでより突然変異株を効率よく作り出すため、人為的に変異原を用いて誘導する方法が考案された。それには、X線、γ線、紫外線を照射する物理的な方法と、変異原物質を用いる化学的な方法とがあるが、これらの方法は「啼かせて見せよう」式とも言える。その後の解明により、これらの変異は、遺伝子の傷、複製の間違い、組み換えや再編成、動く遺伝子の介入によっていることが判明し、DNA上では、塩基や塩基群の添加、欠損、置換、重複、転座、逆位等がみられた。
一方、細菌を用いた遺伝情報の伝達の研究から、細菌等の原核細胞には、体染色体のほかにプラスミドという伝達可能な遺伝子が存在すること、細菌ウイルスであるバクテリオファージの中には、その遺伝子を細菌の体染色体に取り込ませて組み換えを起こし、溶菌することなく細菌の増殖につれて増殖する溶原化現象を起こす株があることが分かり、プラスミドによる伝達(接合)やファージによる形質導入が可能になった。また、ある細菌から抽出したDNAを他の細菌に取り込ませる形質転換の方法も確立され、細菌間の遺伝情報の伝達に止まらず、外来遺伝子DNAを異種の細胞内に導入し、その形質を発現させるということが可能になった。
更に、ある細胞から抽出したDNAから、目的とする遺伝情報のみを、制限酵素というハサミで切り取る技術が開発され、この情報を運び屋である自己増殖性のある小型DNAのベクター(プラスミドか溶原ウイルス)に、同じ制限酵素で開裂させた箇所にノリの役目をするDNAリガーゼを用いて結合させ、この両種の雑種である組み換えDNA分子を形質転換の技術を応用して宿主の細胞に移し込む、遺伝子組み換え技術が開発された。この宿主の遺伝子工場には、大腸菌、枯草菌、酵母等が好んで用いられ、ヒトの生理活性物質の多くがこの方法で作られ、利用されている。その他、細胞融合やベクターDNAのみを増幅させる方法も考案され、微量生産物質の大量生産も可能になった。
2011年8月23日火曜日
濃霧・雨・風で再び石徹白への下りを断念
別山からさらに南へ延びる美濃禅定道(南縦走路)は一部を除いてまだ走破したことがなく、今年はどうしても踏破したいと願っていた。急いでいるのは一つは年齢の壁であり、年々体力とバランス感覚の衰えが進行しているように思えるからである。幸い宮川さんという一回りも若い助っ人を得、かつ前田さんの協力もあり、何とか成就できないかと願っている。今年の最初のチャレンジは7月18日、これは16・17日の土日は満員で宿泊できなかったからで、実は後の祭りになるのだが、今から思えば18日を15日にしておけば、台風6号の影響も受けずに、成就できたのではと思っている。それが判断ミスで18日としたものだから、台風の影響をもろに受けてしまった。天気予報では北陸への影響は20日以降とのことだったが、高山では2日前からも大きな影響が出ていた。こうして初回のチャレンジは特に風の影響でもって不首尾に終わった。
次いで計画したのが8月7~9日の日~火、結果的にこの期間は天気が安定していて申し分なかったのだが、石徹白はこの週全村挙げての体験ツアー受け入れがあり、宿泊は全く駄目とかで断念せざるを得なかった。お盆は空いているとは言われても、こちらも旧盆でいろいろ都合があり、リベンジは盆明けの土~月の8月20~22日を予定し、協力していただけるお二方の了解も得た。
当日4時半に家を出立、家内運転で1時間程で市ノ瀬へ、5時20分発のシャトルバスで別当出合へ、天気は曇り、でもガスで視界は悪い。天気図では、日本列島に停滞している秋雨前線が幾分北寄りだったのが南下したため、北陸も大きく影響を受けることになった。でも少々の悪化ならばリベンジには特に大きな障害とはならない。6時10分前に歩き出す。高度が上がるにつれガスは濃くなり、甚之助小屋辺りではもうミルキーホワイト、何にも見えない状態だった。ところが更に高度が上がると、このガス帯を抜け、別山の山並みがくっきりと見えるようになり、眼下にはミルキーホワイトの雲の層が広がっている状況に。しかし空には厚い高層雲があり、陽の光はない。
南竜山荘には8時過ぎに着く。何時もだと受付は午後からなのだが、山荘へはもう入れますとのことで、部屋に荷を置き御前峰へ向かうことに。今日は120名の宿泊とか、やはり土曜はほぼ満員のようだ。主任の方に聞くと、予報では午後には雨になるとか、昼食と雨具を持って出かける。出掛けに小母さんと話していると、植生されたコマクサを除去する話が持ち上がっているとか、どんどん繁殖するオオバコと同一視されては叶わないのだが。小母さんは植生した御仁も知っていた。また雷鳥の居場所は御前でなく大汝だという話を聞いたとか。私は御前のような気がするが、でもそれは単なる勘でしかない。小母さんは上馬さんに聞いて見ないととも言う。彼は雷鳥をビデオ撮りした当人だが、彼は現在県の白山自然保護センターの次長でもあり、彼は話すことはないだろう。ひとしきり話をして室堂へと向かう。トンビ岩コースを辿る。この前通ったときはこのコースにはかなりの残雪があったが、もう雪は全くない。雪が溶けるのが遅かった斜面には、コイワカガミやアオノツガザクラが丁度満開、ピンクとホワイトグリーンの絨毯を形成している。御前坂の上部ではもうベニバナイチゴが赤い熟れた実をつけている。ミヤマリンドウも青紫の花を咲かせている。
室堂前の広場で食事をする。何時もは登山者で一杯になる広場も、この日は半分程度の入り、旧盆が済んでピークが過ぎた印象を受ける。雨がポツリときた。ガスも少しだがかかり始めた。雨具を着け頂上へ向かう。今室堂平はハクサンフウロとイブキトラノオ、オンタデが丁度花盛り、特に濃いピンクのハクサンフウロは圧巻だ。頂上への径で、60ℓのピンクのザックカバーを付けた人が前を歩いている。こちらはほとんど空身、なのに中々追いつけない。とうとう頂上まで追いつけなかった。頂上でご対面したら小柄な女の子、これからどちらへと聞いたら南竜のテン場とか、その荷物を持ってまた下りるのですかと言うと、これはザックカバーだけなのですと、道理で追いつけなかったわけだ。ガスも次第に濃くなってきた。
予定どうり展望コースを下る。ガスで視界は全く利かず、ただ黙々と下るのみ。展望台からの下りで、子供を含めた中年男性の一団、室堂泊まりとか、お天気が好ければ素晴らしい展望が開けるが、この雨とガスでは余りお勧めできるコースではない。雨も次第に強くなる。4時間半余りの周遊、濡れたものを乾燥室で乾かす。一段落し、これから食堂で、この前のように一杯しようと思ったら、大勢の人数の弁当作りとかで2時には食堂はシャットアウトになり、部屋飲みになる。5時に夕食、気温の低下もあって、ビールでなく熱燗にする。ガスは次第に濃くなる。別棟ではギターのコンサートとか。お陰で8時消灯が8時半に、この間食堂でテレビを見ながらの飲み、主任と副とバイトの学生5人、お酒と焼酎をお相伴になる。話の中で主任はまだ独身とか、お客の8割方は女性というのに、勿論ペアあり、中高年ありだが、若い山ガールも結構多いというのに。アルバイトは古くは女子短大生だったが、ここ10年ばかりは金沢工大のスキー部員だとか。山荘に常駐は5人、バイトは土曜の午前に来て、日曜の午後に帰るパターン、速い人は山荘から中飯場まで下り30分とか、驚くべきタフさだ。そう言えば、新しい甚之助小屋の建設にあたって、あそこの現場主任は、中飯場から長靴履きで毎日30分で通う野々市の人だった。
コンサートは終わり、飲みも終了。窓には明かりを求めて沢山の白い翅の蛾が、主任では明日は雨は大したことはないと言う。雨になる日はこの蛾は来ないと言う。でもガスはますます濃くなったようだ。隣の小舎がもう見え難い。
夜中に起きてベランダに出ると、ガスは濃く、ホワイトアウトとまでは濃くはないものの、それに近い状態、小雨が降っている。風も混じってきて、時々ヒューという息が聞こえてくる。今日の夕方の雨とガス程度なら決行しようと、夕食後、前田さんにも、石徹白の民宿「おしたに」へも、家内へもその旨伝えたところだが、こう視界が悪いと、別山越えは難しいかも知れないと思うようになる。でもこんな状態の中、3時にペアが、3時半には6人のパーティーが出発していった、昨晩おしたにさんには別山まではよく通い慣れた径ですのでとは言ったのだが、こうも状態が悪いと断念しなければならないのではと思い直した。予定では5時の出立だが、もう1時間だけ様子を見ることにする。もう1晩泊まって様子をみようかとも思ったが、昨晩の気象衛星画像を見ると、前線の雲が日本列島をすっぽり覆っているようで、明日快方に向かうという保証はない。濃いガスと小雨、それに風も出てきて、終に断念することにした。6時に民宿「おしたに」へ電話、やはり無理でしょうとのことだった。家内にもその旨伝える。前田さんには明日のことなので、市ノ瀬へ下りてから宮川さんに伝言してもらうことにする。ほとんどの方が市ノ瀬へ下るようだ。私たちも7時に山荘を出た。
南竜分岐から標高が下がるにつれて、ガスの濃さは段々薄れてきたが、雨粒は大きくなり、本降りの様相になる。甚之助小屋に着くまでは余り上りの人とは会っていない。小屋では数人がシュラフに包まっていた。新しい小屋は実に快適、トイレもきれいで気持ちが良い。しかし小屋を過ぎた辺りから、この雨の中、続々と沢山の登山者が、そしてその8割近くが女性、妙齢の若い方も多い。何が彼女らを駆り立てるのか。天候が少しでも快方に向かうことを願わずにはおれない。40人近くの団体も2パーティー。上る人をやり過ごしたり、またお喋りもしたりで、ゆっくりと下る。以前だと旧盆を過ぎると登山者はぐっと少なくなったものだが、これもブームだからなのだろうか。私たちが2時間10分もかかって別当出合に着いてからも、登山者がシャトルバスで上がってくる。下ではガスは薄れているが、まだ雨は間断なく降っている。
シャトルバスは9時半に市ノ瀬へ、金沢駅行きのバスは、8月20日を過ぎると午後1時30分1本のみに、時間があるので、永井旅館の日本の秘湯にでも浸って疲れを癒すことに。この温泉は掛け流し、食塩・炭酸泉、源泉は48℃だが、掛け流しの方は加温なしなので、気温によって湯温が異なりますという断り書きがしてある。一方大きな浴槽は加温循環式なので熱い。我々がトップ、ゆっくり温泉に浸れた。旧の本館にあった浴槽は小さかったが、新館の浴槽は明るくてきれいで気持ちが良い。上がってお決まりのビール、まだバス出発まで2時間以上、カップラーメンで腹ごしらえをする。この頃から続々と入浴客が、女性も多い。浴場は芋の子を洗うが如き状態だろう。助っ人の宮川さんからは、昨晩に引き続いて山の話をいろいろ聞く。年に50日も山へ行っているとか、近場の山も、また積雪期にも、でも写真での記録はあるものの、それ以外の記録は極めて少ないのは勿体ない。私はどんな小さな山行でも記録を取るが、彼は一切しないようだ。また文章にも残していない。聞くと実に素晴らしい山行もあり、写真のみでなく、ほんの印象だけでも書き記すように勧めたのだが。でも写真は玄人はだしの作品もあるようで、コンテストに出さないかと言われているとか、本人も意欲はあるようだ。
別当出合を13:30に出た金沢駅行きバスは満員、市ノ瀬を10分遅れで出発した。このバスには生まれて初めての乗車。びっくりしたのは白峰車庫で5分間のトイレ休憩、その後白峰の街中の旧道を経由し、何故か尾口瀬女の道の駅へ立ち寄り、鶴来でも街中の旧道に入り鶴来駅へ、それから鶴来街道を野々市へ。金沢駅への急行バスとあったが、とんだ寄り道だらけの急行バスだった。
こうして石徹白へのリベンジはまたも敗退となった。
次いで計画したのが8月7~9日の日~火、結果的にこの期間は天気が安定していて申し分なかったのだが、石徹白はこの週全村挙げての体験ツアー受け入れがあり、宿泊は全く駄目とかで断念せざるを得なかった。お盆は空いているとは言われても、こちらも旧盆でいろいろ都合があり、リベンジは盆明けの土~月の8月20~22日を予定し、協力していただけるお二方の了解も得た。
当日4時半に家を出立、家内運転で1時間程で市ノ瀬へ、5時20分発のシャトルバスで別当出合へ、天気は曇り、でもガスで視界は悪い。天気図では、日本列島に停滞している秋雨前線が幾分北寄りだったのが南下したため、北陸も大きく影響を受けることになった。でも少々の悪化ならばリベンジには特に大きな障害とはならない。6時10分前に歩き出す。高度が上がるにつれガスは濃くなり、甚之助小屋辺りではもうミルキーホワイト、何にも見えない状態だった。ところが更に高度が上がると、このガス帯を抜け、別山の山並みがくっきりと見えるようになり、眼下にはミルキーホワイトの雲の層が広がっている状況に。しかし空には厚い高層雲があり、陽の光はない。
南竜山荘には8時過ぎに着く。何時もだと受付は午後からなのだが、山荘へはもう入れますとのことで、部屋に荷を置き御前峰へ向かうことに。今日は120名の宿泊とか、やはり土曜はほぼ満員のようだ。主任の方に聞くと、予報では午後には雨になるとか、昼食と雨具を持って出かける。出掛けに小母さんと話していると、植生されたコマクサを除去する話が持ち上がっているとか、どんどん繁殖するオオバコと同一視されては叶わないのだが。小母さんは植生した御仁も知っていた。また雷鳥の居場所は御前でなく大汝だという話を聞いたとか。私は御前のような気がするが、でもそれは単なる勘でしかない。小母さんは上馬さんに聞いて見ないととも言う。彼は雷鳥をビデオ撮りした当人だが、彼は現在県の白山自然保護センターの次長でもあり、彼は話すことはないだろう。ひとしきり話をして室堂へと向かう。トンビ岩コースを辿る。この前通ったときはこのコースにはかなりの残雪があったが、もう雪は全くない。雪が溶けるのが遅かった斜面には、コイワカガミやアオノツガザクラが丁度満開、ピンクとホワイトグリーンの絨毯を形成している。御前坂の上部ではもうベニバナイチゴが赤い熟れた実をつけている。ミヤマリンドウも青紫の花を咲かせている。
室堂前の広場で食事をする。何時もは登山者で一杯になる広場も、この日は半分程度の入り、旧盆が済んでピークが過ぎた印象を受ける。雨がポツリときた。ガスも少しだがかかり始めた。雨具を着け頂上へ向かう。今室堂平はハクサンフウロとイブキトラノオ、オンタデが丁度花盛り、特に濃いピンクのハクサンフウロは圧巻だ。頂上への径で、60ℓのピンクのザックカバーを付けた人が前を歩いている。こちらはほとんど空身、なのに中々追いつけない。とうとう頂上まで追いつけなかった。頂上でご対面したら小柄な女の子、これからどちらへと聞いたら南竜のテン場とか、その荷物を持ってまた下りるのですかと言うと、これはザックカバーだけなのですと、道理で追いつけなかったわけだ。ガスも次第に濃くなってきた。
予定どうり展望コースを下る。ガスで視界は全く利かず、ただ黙々と下るのみ。展望台からの下りで、子供を含めた中年男性の一団、室堂泊まりとか、お天気が好ければ素晴らしい展望が開けるが、この雨とガスでは余りお勧めできるコースではない。雨も次第に強くなる。4時間半余りの周遊、濡れたものを乾燥室で乾かす。一段落し、これから食堂で、この前のように一杯しようと思ったら、大勢の人数の弁当作りとかで2時には食堂はシャットアウトになり、部屋飲みになる。5時に夕食、気温の低下もあって、ビールでなく熱燗にする。ガスは次第に濃くなる。別棟ではギターのコンサートとか。お陰で8時消灯が8時半に、この間食堂でテレビを見ながらの飲み、主任と副とバイトの学生5人、お酒と焼酎をお相伴になる。話の中で主任はまだ独身とか、お客の8割方は女性というのに、勿論ペアあり、中高年ありだが、若い山ガールも結構多いというのに。アルバイトは古くは女子短大生だったが、ここ10年ばかりは金沢工大のスキー部員だとか。山荘に常駐は5人、バイトは土曜の午前に来て、日曜の午後に帰るパターン、速い人は山荘から中飯場まで下り30分とか、驚くべきタフさだ。そう言えば、新しい甚之助小屋の建設にあたって、あそこの現場主任は、中飯場から長靴履きで毎日30分で通う野々市の人だった。
コンサートは終わり、飲みも終了。窓には明かりを求めて沢山の白い翅の蛾が、主任では明日は雨は大したことはないと言う。雨になる日はこの蛾は来ないと言う。でもガスはますます濃くなったようだ。隣の小舎がもう見え難い。
夜中に起きてベランダに出ると、ガスは濃く、ホワイトアウトとまでは濃くはないものの、それに近い状態、小雨が降っている。風も混じってきて、時々ヒューという息が聞こえてくる。今日の夕方の雨とガス程度なら決行しようと、夕食後、前田さんにも、石徹白の民宿「おしたに」へも、家内へもその旨伝えたところだが、こう視界が悪いと、別山越えは難しいかも知れないと思うようになる。でもこんな状態の中、3時にペアが、3時半には6人のパーティーが出発していった、昨晩おしたにさんには別山まではよく通い慣れた径ですのでとは言ったのだが、こうも状態が悪いと断念しなければならないのではと思い直した。予定では5時の出立だが、もう1時間だけ様子を見ることにする。もう1晩泊まって様子をみようかとも思ったが、昨晩の気象衛星画像を見ると、前線の雲が日本列島をすっぽり覆っているようで、明日快方に向かうという保証はない。濃いガスと小雨、それに風も出てきて、終に断念することにした。6時に民宿「おしたに」へ電話、やはり無理でしょうとのことだった。家内にもその旨伝える。前田さんには明日のことなので、市ノ瀬へ下りてから宮川さんに伝言してもらうことにする。ほとんどの方が市ノ瀬へ下るようだ。私たちも7時に山荘を出た。
南竜分岐から標高が下がるにつれて、ガスの濃さは段々薄れてきたが、雨粒は大きくなり、本降りの様相になる。甚之助小屋に着くまでは余り上りの人とは会っていない。小屋では数人がシュラフに包まっていた。新しい小屋は実に快適、トイレもきれいで気持ちが良い。しかし小屋を過ぎた辺りから、この雨の中、続々と沢山の登山者が、そしてその8割近くが女性、妙齢の若い方も多い。何が彼女らを駆り立てるのか。天候が少しでも快方に向かうことを願わずにはおれない。40人近くの団体も2パーティー。上る人をやり過ごしたり、またお喋りもしたりで、ゆっくりと下る。以前だと旧盆を過ぎると登山者はぐっと少なくなったものだが、これもブームだからなのだろうか。私たちが2時間10分もかかって別当出合に着いてからも、登山者がシャトルバスで上がってくる。下ではガスは薄れているが、まだ雨は間断なく降っている。
シャトルバスは9時半に市ノ瀬へ、金沢駅行きのバスは、8月20日を過ぎると午後1時30分1本のみに、時間があるので、永井旅館の日本の秘湯にでも浸って疲れを癒すことに。この温泉は掛け流し、食塩・炭酸泉、源泉は48℃だが、掛け流しの方は加温なしなので、気温によって湯温が異なりますという断り書きがしてある。一方大きな浴槽は加温循環式なので熱い。我々がトップ、ゆっくり温泉に浸れた。旧の本館にあった浴槽は小さかったが、新館の浴槽は明るくてきれいで気持ちが良い。上がってお決まりのビール、まだバス出発まで2時間以上、カップラーメンで腹ごしらえをする。この頃から続々と入浴客が、女性も多い。浴場は芋の子を洗うが如き状態だろう。助っ人の宮川さんからは、昨晩に引き続いて山の話をいろいろ聞く。年に50日も山へ行っているとか、近場の山も、また積雪期にも、でも写真での記録はあるものの、それ以外の記録は極めて少ないのは勿体ない。私はどんな小さな山行でも記録を取るが、彼は一切しないようだ。また文章にも残していない。聞くと実に素晴らしい山行もあり、写真のみでなく、ほんの印象だけでも書き記すように勧めたのだが。でも写真は玄人はだしの作品もあるようで、コンテストに出さないかと言われているとか、本人も意欲はあるようだ。
別当出合を13:30に出た金沢駅行きバスは満員、市ノ瀬を10分遅れで出発した。このバスには生まれて初めての乗車。びっくりしたのは白峰車庫で5分間のトイレ休憩、その後白峰の街中の旧道を経由し、何故か尾口瀬女の道の駅へ立ち寄り、鶴来でも街中の旧道に入り鶴来駅へ、それから鶴来街道を野々市へ。金沢駅への急行バスとあったが、とんだ寄り道だらけの急行バスだった。
こうして石徹白へのリベンジはまたも敗退となった。
2011年8月19日金曜日
平成22年開催のゼレン会への近況報告
● まえがき
私は昭和34年3月に金沢大学薬学部を卒業した。その同窓生の会の名称が「ゼレン会」である。この命名に当たっては、私は卒業時にかなり重度の胃潰瘍で入院していて参画できなかったが、経緯は卒業年を原子番号34にあやかっての命名と聴いている。元素記号はSeで、日本名はセレン、英名は Selenium 、ドイツ名はSelen で、命名はドイツ名の日本式ドイツ語読みによる(ドイツ語ではゼレーンと発音)。あの頃は薬学の分野ではまだドイツ語が幅を利かしていたものだ。ところで昨年(2010)は9月に同窓会があったが、その折幹事から同窓生各位に近況報告をと頼まれしたためたものを、「晋亮の呟き」に再録する。因みに今年(2011)は5月に宮城県で開催予定だったが、3月に未曾有の東日本大震災があり、中止になった。ゼレン会はこのところ毎年開催している。
● 近況報告
(1) 健 康
私は現在石川県予防医学協会という健診機関に勤務していることもあって、年に2回の健康診断を受けている。直近の検査は7月末、指摘があったのは、糖代謝と脂質代謝、前者は HbA1c が 6.2、後者は LDLコレステロールがやや高めである。糖尿病については薬物療法を行なっているが、それだけでは数字の改善は望めず、加えて食事療法と運動療法を行なっている。もっとも食事は完全な糖尿病食ではなく、心掛けているという程度。運動は毎朝6km1時間のウォーキングを行なっているが、これは皮下脂肪減少や糖代謝促進に対して若干の効果があるようだ。ただこれには筋トレ効果はない。
ほかにはペースメーカーを装着しているので、年に2回の健康診断と機器チェックがある。また消化器がん予防のため、年に1回、食道・胃・大腸の内視鏡検査を受けている。常用薬としては、糖尿病用薬、高脂血症用薬、緩下剤、消化性潰瘍治療薬、降圧薬を服用している。
飲酒は医師の指導もあり、1日酒換算4合から2合に減量、また酒は自主的に糖分の少ない蒸留酒をメインにしているが、どんな酒にでもそれぞれの個性があることから、酒の種類による好き嫌いは一切ない。健診の勧告では、酒は1日1合、週に2日の休肝日をというが、それは無理というか不可能な相談だ。ただ入院中の禁酒は厳守している。
(2)白 山
白山では絶滅したと思われていた雷鳥が、昨年(2008)の6月に雌1羽だけであるが、生息していることが確認された。その後昨年には越冬したことが確認されたものの、今年は8月まで未確認だったが、9月になって漸く居ることが確認され、これで2度越冬したことになる。昨年採取された抜け落ちた羽のDNA鑑定では、北アルプスにいるコロニーと同じであることが確認されている。北アルプスから来たとすれば、どうして来たのだろうか。
白山にコマクサは自生していないが、10年前に植生した人がいて、新聞でも紹介されたことがある。新聞紹介の場所は御前峰の北側だが、そこは私はまだ確認していない。3カ所位あるらしいが、私が毎年眺めに出かけているのは、大汝峰の頂上西方の礫地、成育場所としては申し分ない環境だが、そんなに増えているわけではない。ただ実生は育っている。日本のある町では、勝手に植生した駒草を除去したと報じられていたが、ここは国立公園なので、引っこ抜いて除去することはできない。私としてはこれからも見守っていきたい。
国立公園内でも、除去が歓迎されている植物がある。それはオオバコとスズメノカタビラである。道路周辺に多いということは、登山者の靴に付着して侵入してきたもので、毎年ボランティアを募り駆除している。でもその除去区域は山小屋周辺に限られている。中でも特に深刻なのはオオバコで、南竜周辺は以前はハクサンオオバコの群生地だったが、今は2つの種の中間雑種が跋扈していて、のっぴきならない事態になっている。
(3)そ ば
学生の頃も「そば」は好きだったが、当時の金沢には自家製のそば(そこは機械打ち)を出す店は1軒のみしかなかった。石川県自体が「うどん圏」だったからでもある。当時は東京23区内でも、蕎麦屋は百数十軒位ではなかったろうか。学生の頃は山に夢中だったから蕎麦まで気が回らなかったが、石川県に奉職してからというもの、出張時には、地図を片手に都内の蕎麦屋をほっつき歩いたものだ。でも今はそばブーム、東京には少なくとも3千軒以上の蕎麦屋があるだろう。私の師匠も「そば」が好きになり、それこそ全国の蕎麦屋巡りをした。高じて十数年前に金沢で「探蕎会」なるそば同好会を立ち上げ、会員は全国津々浦々へ出かけている。会でもツアーを組み、これまで北海道、四国、九州を除く各地に出かけ、単に「そば」を食うばかりでなく、その地の文化に接し、その地の酒を愛で、いわゆる「探蕎」を続けている。もし興味ある方は「探蕎会」で検索してみて下さい。
私は昭和34年3月に金沢大学薬学部を卒業した。その同窓生の会の名称が「ゼレン会」である。この命名に当たっては、私は卒業時にかなり重度の胃潰瘍で入院していて参画できなかったが、経緯は卒業年を原子番号34にあやかっての命名と聴いている。元素記号はSeで、日本名はセレン、英名は Selenium 、ドイツ名はSelen で、命名はドイツ名の日本式ドイツ語読みによる(ドイツ語ではゼレーンと発音)。あの頃は薬学の分野ではまだドイツ語が幅を利かしていたものだ。ところで昨年(2010)は9月に同窓会があったが、その折幹事から同窓生各位に近況報告をと頼まれしたためたものを、「晋亮の呟き」に再録する。因みに今年(2011)は5月に宮城県で開催予定だったが、3月に未曾有の東日本大震災があり、中止になった。ゼレン会はこのところ毎年開催している。
● 近況報告
(1) 健 康
私は現在石川県予防医学協会という健診機関に勤務していることもあって、年に2回の健康診断を受けている。直近の検査は7月末、指摘があったのは、糖代謝と脂質代謝、前者は HbA1c が 6.2、後者は LDLコレステロールがやや高めである。糖尿病については薬物療法を行なっているが、それだけでは数字の改善は望めず、加えて食事療法と運動療法を行なっている。もっとも食事は完全な糖尿病食ではなく、心掛けているという程度。運動は毎朝6km1時間のウォーキングを行なっているが、これは皮下脂肪減少や糖代謝促進に対して若干の効果があるようだ。ただこれには筋トレ効果はない。
ほかにはペースメーカーを装着しているので、年に2回の健康診断と機器チェックがある。また消化器がん予防のため、年に1回、食道・胃・大腸の内視鏡検査を受けている。常用薬としては、糖尿病用薬、高脂血症用薬、緩下剤、消化性潰瘍治療薬、降圧薬を服用している。
飲酒は医師の指導もあり、1日酒換算4合から2合に減量、また酒は自主的に糖分の少ない蒸留酒をメインにしているが、どんな酒にでもそれぞれの個性があることから、酒の種類による好き嫌いは一切ない。健診の勧告では、酒は1日1合、週に2日の休肝日をというが、それは無理というか不可能な相談だ。ただ入院中の禁酒は厳守している。
(2)白 山
白山では絶滅したと思われていた雷鳥が、昨年(2008)の6月に雌1羽だけであるが、生息していることが確認された。その後昨年には越冬したことが確認されたものの、今年は8月まで未確認だったが、9月になって漸く居ることが確認され、これで2度越冬したことになる。昨年採取された抜け落ちた羽のDNA鑑定では、北アルプスにいるコロニーと同じであることが確認されている。北アルプスから来たとすれば、どうして来たのだろうか。
白山にコマクサは自生していないが、10年前に植生した人がいて、新聞でも紹介されたことがある。新聞紹介の場所は御前峰の北側だが、そこは私はまだ確認していない。3カ所位あるらしいが、私が毎年眺めに出かけているのは、大汝峰の頂上西方の礫地、成育場所としては申し分ない環境だが、そんなに増えているわけではない。ただ実生は育っている。日本のある町では、勝手に植生した駒草を除去したと報じられていたが、ここは国立公園なので、引っこ抜いて除去することはできない。私としてはこれからも見守っていきたい。
国立公園内でも、除去が歓迎されている植物がある。それはオオバコとスズメノカタビラである。道路周辺に多いということは、登山者の靴に付着して侵入してきたもので、毎年ボランティアを募り駆除している。でもその除去区域は山小屋周辺に限られている。中でも特に深刻なのはオオバコで、南竜周辺は以前はハクサンオオバコの群生地だったが、今は2つの種の中間雑種が跋扈していて、のっぴきならない事態になっている。
(3)そ ば
学生の頃も「そば」は好きだったが、当時の金沢には自家製のそば(そこは機械打ち)を出す店は1軒のみしかなかった。石川県自体が「うどん圏」だったからでもある。当時は東京23区内でも、蕎麦屋は百数十軒位ではなかったろうか。学生の頃は山に夢中だったから蕎麦まで気が回らなかったが、石川県に奉職してからというもの、出張時には、地図を片手に都内の蕎麦屋をほっつき歩いたものだ。でも今はそばブーム、東京には少なくとも3千軒以上の蕎麦屋があるだろう。私の師匠も「そば」が好きになり、それこそ全国の蕎麦屋巡りをした。高じて十数年前に金沢で「探蕎会」なるそば同好会を立ち上げ、会員は全国津々浦々へ出かけている。会でもツアーを組み、これまで北海道、四国、九州を除く各地に出かけ、単に「そば」を食うばかりでなく、その地の文化に接し、その地の酒を愛で、いわゆる「探蕎」を続けている。もし興味ある方は「探蕎会」で検索してみて下さい。
2011年8月17日水曜日
探蕎会有志の面々、いざ、そば農園第二次農事作業へ
● まえがき
探蕎会の素地ができたのは、平成10年(1998)1月に、波田野先生宅で持たれた会合で、この寄り合いには、松原、北島、植松、塚野、前田の諸氏が参加したとある。そして3月8日には「末野倉」で探蕎会の第1回の行事としての発会式が行なわれ、会長波田野、副会長松原、他の4氏は世話人ということで会が発足した。この平成10年には12月の総会までに12回の行事が持たれ、このうちの4回をそば農園での種蒔き、除草・土寄せ、収穫、そば打ちに当てている。私が誘われて初めて会の行事に参加したのがこの種蒔きの時で、この年の第5回目の行事の時だった。
その当時はまだ会報はなく、行事の経緯や成行きは、会長指名の方が、後日A4もしくはB5のレポート用紙に感想を交えてレポートし、そのコピーが会員に配布されていた。会報が創刊されたのは翌年の平成11年(1999)12月であるからして、平成10年と11年の行事記録はこのようなレポート様式で報告されており、公式には現存していない。
ところで、そば農園での農事作業は計4回で、会の行事では、第5回、第6回、第7回、第9回がこれに該当する。この作業が行なわれた「そば農園」の場所は、長野県東筑摩郡朝日村大字古見の「もえぎ野」にある。以下に4回にわたり実施された農事作業の実施日、作業ツアー名、参加者(入会順)、指名報告者を掲げる。またツアー時に寄った蕎麦屋も記載した。
(1) 7月26日 そば農園種蒔きツアー(波田野、松原、北島、前田、木村、越浦、前田さんの娘さん)、
レポーター:北島健次、「もえぎ野」(朝日村)・「信州家」(松本)。
(2) 8月23日 そば農園除草・土寄せツアー(波田野、北島、塚野、前田、木村)、
レポーター:木村晋亮、「ふじおか」(黒姫)・「ひらく」(穂高)。
(3) 10月9日 そば農園収穫ツアー(波田野、北島、塚野、前田、木村)、
レポーター:塚野八平、「もとき」(松本)・「浅田」(松本)。
(4) 11月21日~22日 そば農園収穫そば打ち体験ツアー(波田野、松原、北島、塚野、木村、越浦)、
レポーター:松原 敏、「浅田」(松本)・「もえぎ野」(朝日村)。宿泊:「ホテル花月」(松本)。
以上が概略で、表記表題の初出は、平成10年(1998)8月23日に行なわれたそば農園第二次農事作業と探訪した蕎麦屋のレポートである。 「晋亮の呟き」に再録する。
● レポート
今日一日、晴れが保証のの8月23日(日)の朝、小生は今日の農事作業である草取り・土寄せに必要な鎌、鍬、長靴等を用意し、波多野会長の命により、先生宅へ午前8時にお寄りする。奥様お手注ぎのお茶を頂くも間もなく、出発の案内。出ればMr前田のOdyssey号には既にMr北島が鎮座されており、我々も乗り込む。道案内を自認する波田野会長は助手席に陣取る。その後、鈴見台で今一人の参加者Mr塚野を同道し、金沢を後にする。この日の作業が如何ばかりなのか全く見当が付かないが、各々方は各自それなりに周到な準備を怠りなくされているようにお見受けした。
金沢東ICへ入ったのが8時半、前回が5時なのに比べると一寸遅い感じだ。富山へ入ると、同乗の鮎釣師は、河川の水量、濁りを見極めんと鋭い眼差し、門外漢の小生には友釣りの醍醐味も分からず、ただ食するのみだが、でも素晴らしいレクチャーをして貰った。
Mr前田の運転は極めて快調、先ずは今日の第一のお目当て、黒姫山麓の「ふじおか」へ向かう。妙高高原スキー場への通い慣れたR18を一路南下、会長の名指示で信濃町野尻山桑へ達する。辺りにはペンションが乱立、このような所に名店があるのかと訝る。杉野沢への道を右折して間もなく、Mr塚野が「あった」と喜びの声、直進すれば妙高へ行ってしまうところだったが、寸でのところでうまく解決した。まだ11時、11時半が開店だが行こうと杉木立の林の中の一本道を辿る。幽山深谷とは異とするが、開けた明るい所からいきなり暗い所へだと、何となくそう感じても不思議ではない。道端にはノアザミの赤、ツユクサの青、ミズギボウシの紫が美しい。下り坂を400mばかり、左手に一見山小屋風の建物が見え、そこが「ふじおか」だった。誰かが言う。初めてお妾さんの家へ通う時のときめくあの気持ちだとか。経験はないが、このときめきがそうなのだろうか。
着くと、既に5台の乗用車、長岡が2台、富山、大阪、長野が各1台、空き地に駐車している。そして石川、30分前だが、待つ甲斐があると納得する。受付入店もやはり11時半、小生は信濃Breweryまでの山中を徘徊する。時間になり漸く開店。辛抱強く待った蕎気の男女が次々と中に消える。我々も後に続く。定員20名は既に了承済み、ぎりぎり何とかなるさは、極めて甘い観測だった。6組目の私達は、主人から午後1時半にお越し下さいとの丁重なお断り、本当に前の組とは真にタッチの差であっただけに、泣き言の一つも出ようというものだ。こうなっては2時間待ってもありつくぞと衆意一決する。たかが「そば」を食うのに2時間待ちとは、蕎変じて狂となる。その執念たるやである。それではと、北信濃の地ビールを製造している信濃町野尻上山桑にある信濃Breweryへと向かう。田中の畦道をそぞろ歩く。湿地にはガマの群生、太い茶色の穂が素晴らしい。また畦にはコウヤワラビが一面に、若々しい浅緑、清々しい。
着くとやはり他県ナンバーの車がやたらと多い。中へ入ると、4種の地ビール、Shinano, Mountain, Dragon の各エールと、Kurohime stout、思い思いに2杯位ずつ胃の腑へ流し込む。小生の飲み比べた印象では、芳醇な香りと適度な苦味の Dragon が良かった。この地ビールは全国へ宅配できるとか、一度ご賞味を。
再びぶらぶら、林へ入る。途中熟れたブルーベリーを少々口に含む。甘い。「そば」にありつけるまでにはまだ1時間余り。折りよく一茶記念館の標識が、聞けば車で10分とか。Mr前田は車を回してくれた。信濃町柏原にある記念館はそこそこの人出、こざっぱりした感じ。併設の民族資料館には思い出の農機具の数々、懐かしい。2時間の余得。感謝々々。
今度こそはご対面できると思うと心がときめく。取って返して蕎麦処へ。空き地には湘南ナンバーの車もある。午後1時半きっかり、我々5人が最初に入る。中は6人掛けと4人掛けのテーブルが各2脚、それで計20人、但し原則として相席はないとのこと、頑固そのものである。また10歳以下のお子様お断りもしかりである。紹介書には甘皮を残した蕎麦の実を挽いたという、微かに緑を宿すかに思える「せいろ」と「そばがき」が載せてある。「せいろ」5枚と越後大吟醸の「鄙願」を3本所望する。待つこと暫し、2時近くに、酒と蕎麦実・野山の幸が入った5人分の突き出し?がドンと出た。本番前にはかくあるのか、雑味払いか、酒は美味しい。ただ全くクセがない。吟醸香が極めて薄い。これで徳利1本1100円は高いのでは、一致した意見だった。また待つこと暫し、佐々木小次郎の胸中を察する。しかし終にご対面。甘皮を付けたまま挽いた蕎麦粉100%の「せいろ」、姿・形は本とそっくりである。そっと数本口に含む。微かな蕎麦の香り、久方振りに出会った名品。生山葵を含めた旨い淡味のつゆが花を添える。再び「せいろ」3枚と「そばがき」2鉢を追加する。待つこと暫し、「そばがき」が現れた。讃岐彫り様の木皿に、搗き立ての柔らかい餅と見紛う、ブナの新緑を思い起こさせる淡い若草色の「そばがき」が鎮座している。こんな印象はこの62年間にはない。絶品としか他に言いようが無い。「せいろ」よりも蕎麦の香りが良い。と同時にどうしてこんなに均一で滑らかなのか。粉に秘密があるのか、或いは掻き方によるのか、いずれにせよ大収穫であった。本日も振られた11時半と1時半の2回のみ。1日多くて40人。再び挑戦するとすれば、平日か。2,3回振られた人もいるとか、今日はもうお終いですとの声に去る組もあった。
余韻を後に、本日の主行事の蕎麦の草取り土寄せに朝日村へ向かう。信濃町ICから塩尻北ICへ高速道を辿り、1時間半後の4時半きっかりに朝日村古見のもえぎ野に着いた。途中に見えた農園の蕎麦は花盛り。私達のは畝や条の不揃いがあり、種蒔きの濃淡があり、どうなっているかとあれこれ心配したが、どうもそれは一見おいそ目には全く分からず、胸をなで下ろした。それで勇んで農場へ。道端に車を停め、身繕いして農園に入る。農園には我々以外には人影はなく、頃合いとすれば、日中よりはましである。さてと、手入れが終わった先人のをと見ると、かなり人為的倒伏が目立つ。蕎麦は肥料を施したせいもあって、思ったより大きく、しかもはちこっている。丈は50~60cmはあろうか、しかも茎はスカンポのように太く、けれど中空な茎は簡単に折れてしまう。本来ならば草丈30cm位の頃に土寄せしなければならないのに、蕎麦のはちこりで蕎麦が畝の両端からはみ出ていて、草取りが出来ず、草取りは省けたものの、土寄せ自体は難行を極めた。蕎麦の間に潜るので、新たな蕎麦の倒伏は先人の比ではなく、これでは収穫は半減するのではないかとさえ思え、いっそのことしないほうが良いのではという率直な意見が続出し、完全な土寄せは極めて困難との見通しから、作業を中断した。行なった部分的な惨状は会長が自ら記録に留めることにする。作業すること40分余り、滞在1時間で切り上げ、次の目的地の穂高町「上条」へ向かうことに。
運転は大吟醸を召したMr前田に代わってMr塚野が、車では前回小生の不覚で迷い込んだ立派な尻切れ農道の話が一頻り、しかし今回Mr塚野も危うく前車の轍を踏んで、あの袋小路の農道へ迷い込みそうになった。表示板が曖昧過ぎる。高速道を塩尻北ICから豊科ICへ、夕暮れの安曇野を北へ向かう。常念岳が残照に浮かぶ黄昏、会長の先導でご推薦の「上条」に着いた。この建物の外観は洋館、幟がなければ全く蕎麦屋には見えない。案内では8時までのはず、でも灯は落ちており、振られてしまった。
急遽、代役は同じ穂高町の「ひらく」、かの「ふじおか」と同じ紹介書に載っている銘店である。そして閉店間際?に到着。時刻は午後6時40分、早速「特製ざる」3枚、「そばがき」2鉢、つまみに花山葵、酒は冷燗の白馬錦を所望する。「ざる」は細打ち、「そばがき」は田舎風で量は豊か、つまみはセンナの醤油漬し、酒はいわゆる爽やかな本醸造、かれこれ40分ばかり居たろうか、7時半前には帰路についた。安房峠経由で金沢へ、Mr前田の滑らかな流れるような運転で夜をひた走り、11時に帰沢した。走行600kmに及んだ1日もどうやら無事終了した。
探蕎会の素地ができたのは、平成10年(1998)1月に、波田野先生宅で持たれた会合で、この寄り合いには、松原、北島、植松、塚野、前田の諸氏が参加したとある。そして3月8日には「末野倉」で探蕎会の第1回の行事としての発会式が行なわれ、会長波田野、副会長松原、他の4氏は世話人ということで会が発足した。この平成10年には12月の総会までに12回の行事が持たれ、このうちの4回をそば農園での種蒔き、除草・土寄せ、収穫、そば打ちに当てている。私が誘われて初めて会の行事に参加したのがこの種蒔きの時で、この年の第5回目の行事の時だった。
その当時はまだ会報はなく、行事の経緯や成行きは、会長指名の方が、後日A4もしくはB5のレポート用紙に感想を交えてレポートし、そのコピーが会員に配布されていた。会報が創刊されたのは翌年の平成11年(1999)12月であるからして、平成10年と11年の行事記録はこのようなレポート様式で報告されており、公式には現存していない。
ところで、そば農園での農事作業は計4回で、会の行事では、第5回、第6回、第7回、第9回がこれに該当する。この作業が行なわれた「そば農園」の場所は、長野県東筑摩郡朝日村大字古見の「もえぎ野」にある。以下に4回にわたり実施された農事作業の実施日、作業ツアー名、参加者(入会順)、指名報告者を掲げる。またツアー時に寄った蕎麦屋も記載した。
(1) 7月26日 そば農園種蒔きツアー(波田野、松原、北島、前田、木村、越浦、前田さんの娘さん)、
レポーター:北島健次、「もえぎ野」(朝日村)・「信州家」(松本)。
(2) 8月23日 そば農園除草・土寄せツアー(波田野、北島、塚野、前田、木村)、
レポーター:木村晋亮、「ふじおか」(黒姫)・「ひらく」(穂高)。
(3) 10月9日 そば農園収穫ツアー(波田野、北島、塚野、前田、木村)、
レポーター:塚野八平、「もとき」(松本)・「浅田」(松本)。
(4) 11月21日~22日 そば農園収穫そば打ち体験ツアー(波田野、松原、北島、塚野、木村、越浦)、
レポーター:松原 敏、「浅田」(松本)・「もえぎ野」(朝日村)。宿泊:「ホテル花月」(松本)。
以上が概略で、表記表題の初出は、平成10年(1998)8月23日に行なわれたそば農園第二次農事作業と探訪した蕎麦屋のレポートである。 「晋亮の呟き」に再録する。
● レポート
今日一日、晴れが保証のの8月23日(日)の朝、小生は今日の農事作業である草取り・土寄せに必要な鎌、鍬、長靴等を用意し、波多野会長の命により、先生宅へ午前8時にお寄りする。奥様お手注ぎのお茶を頂くも間もなく、出発の案内。出ればMr前田のOdyssey号には既にMr北島が鎮座されており、我々も乗り込む。道案内を自認する波田野会長は助手席に陣取る。その後、鈴見台で今一人の参加者Mr塚野を同道し、金沢を後にする。この日の作業が如何ばかりなのか全く見当が付かないが、各々方は各自それなりに周到な準備を怠りなくされているようにお見受けした。
金沢東ICへ入ったのが8時半、前回が5時なのに比べると一寸遅い感じだ。富山へ入ると、同乗の鮎釣師は、河川の水量、濁りを見極めんと鋭い眼差し、門外漢の小生には友釣りの醍醐味も分からず、ただ食するのみだが、でも素晴らしいレクチャーをして貰った。
Mr前田の運転は極めて快調、先ずは今日の第一のお目当て、黒姫山麓の「ふじおか」へ向かう。妙高高原スキー場への通い慣れたR18を一路南下、会長の名指示で信濃町野尻山桑へ達する。辺りにはペンションが乱立、このような所に名店があるのかと訝る。杉野沢への道を右折して間もなく、Mr塚野が「あった」と喜びの声、直進すれば妙高へ行ってしまうところだったが、寸でのところでうまく解決した。まだ11時、11時半が開店だが行こうと杉木立の林の中の一本道を辿る。幽山深谷とは異とするが、開けた明るい所からいきなり暗い所へだと、何となくそう感じても不思議ではない。道端にはノアザミの赤、ツユクサの青、ミズギボウシの紫が美しい。下り坂を400mばかり、左手に一見山小屋風の建物が見え、そこが「ふじおか」だった。誰かが言う。初めてお妾さんの家へ通う時のときめくあの気持ちだとか。経験はないが、このときめきがそうなのだろうか。
着くと、既に5台の乗用車、長岡が2台、富山、大阪、長野が各1台、空き地に駐車している。そして石川、30分前だが、待つ甲斐があると納得する。受付入店もやはり11時半、小生は信濃Breweryまでの山中を徘徊する。時間になり漸く開店。辛抱強く待った蕎気の男女が次々と中に消える。我々も後に続く。定員20名は既に了承済み、ぎりぎり何とかなるさは、極めて甘い観測だった。6組目の私達は、主人から午後1時半にお越し下さいとの丁重なお断り、本当に前の組とは真にタッチの差であっただけに、泣き言の一つも出ようというものだ。こうなっては2時間待ってもありつくぞと衆意一決する。たかが「そば」を食うのに2時間待ちとは、蕎変じて狂となる。その執念たるやである。それではと、北信濃の地ビールを製造している信濃町野尻上山桑にある信濃Breweryへと向かう。田中の畦道をそぞろ歩く。湿地にはガマの群生、太い茶色の穂が素晴らしい。また畦にはコウヤワラビが一面に、若々しい浅緑、清々しい。
着くとやはり他県ナンバーの車がやたらと多い。中へ入ると、4種の地ビール、Shinano, Mountain, Dragon の各エールと、Kurohime stout、思い思いに2杯位ずつ胃の腑へ流し込む。小生の飲み比べた印象では、芳醇な香りと適度な苦味の Dragon が良かった。この地ビールは全国へ宅配できるとか、一度ご賞味を。
再びぶらぶら、林へ入る。途中熟れたブルーベリーを少々口に含む。甘い。「そば」にありつけるまでにはまだ1時間余り。折りよく一茶記念館の標識が、聞けば車で10分とか。Mr前田は車を回してくれた。信濃町柏原にある記念館はそこそこの人出、こざっぱりした感じ。併設の民族資料館には思い出の農機具の数々、懐かしい。2時間の余得。感謝々々。
今度こそはご対面できると思うと心がときめく。取って返して蕎麦処へ。空き地には湘南ナンバーの車もある。午後1時半きっかり、我々5人が最初に入る。中は6人掛けと4人掛けのテーブルが各2脚、それで計20人、但し原則として相席はないとのこと、頑固そのものである。また10歳以下のお子様お断りもしかりである。紹介書には甘皮を残した蕎麦の実を挽いたという、微かに緑を宿すかに思える「せいろ」と「そばがき」が載せてある。「せいろ」5枚と越後大吟醸の「鄙願」を3本所望する。待つこと暫し、2時近くに、酒と蕎麦実・野山の幸が入った5人分の突き出し?がドンと出た。本番前にはかくあるのか、雑味払いか、酒は美味しい。ただ全くクセがない。吟醸香が極めて薄い。これで徳利1本1100円は高いのでは、一致した意見だった。また待つこと暫し、佐々木小次郎の胸中を察する。しかし終にご対面。甘皮を付けたまま挽いた蕎麦粉100%の「せいろ」、姿・形は本とそっくりである。そっと数本口に含む。微かな蕎麦の香り、久方振りに出会った名品。生山葵を含めた旨い淡味のつゆが花を添える。再び「せいろ」3枚と「そばがき」2鉢を追加する。待つこと暫し、「そばがき」が現れた。讃岐彫り様の木皿に、搗き立ての柔らかい餅と見紛う、ブナの新緑を思い起こさせる淡い若草色の「そばがき」が鎮座している。こんな印象はこの62年間にはない。絶品としか他に言いようが無い。「せいろ」よりも蕎麦の香りが良い。と同時にどうしてこんなに均一で滑らかなのか。粉に秘密があるのか、或いは掻き方によるのか、いずれにせよ大収穫であった。本日も振られた11時半と1時半の2回のみ。1日多くて40人。再び挑戦するとすれば、平日か。2,3回振られた人もいるとか、今日はもうお終いですとの声に去る組もあった。
余韻を後に、本日の主行事の蕎麦の草取り土寄せに朝日村へ向かう。信濃町ICから塩尻北ICへ高速道を辿り、1時間半後の4時半きっかりに朝日村古見のもえぎ野に着いた。途中に見えた農園の蕎麦は花盛り。私達のは畝や条の不揃いがあり、種蒔きの濃淡があり、どうなっているかとあれこれ心配したが、どうもそれは一見おいそ目には全く分からず、胸をなで下ろした。それで勇んで農場へ。道端に車を停め、身繕いして農園に入る。農園には我々以外には人影はなく、頃合いとすれば、日中よりはましである。さてと、手入れが終わった先人のをと見ると、かなり人為的倒伏が目立つ。蕎麦は肥料を施したせいもあって、思ったより大きく、しかもはちこっている。丈は50~60cmはあろうか、しかも茎はスカンポのように太く、けれど中空な茎は簡単に折れてしまう。本来ならば草丈30cm位の頃に土寄せしなければならないのに、蕎麦のはちこりで蕎麦が畝の両端からはみ出ていて、草取りが出来ず、草取りは省けたものの、土寄せ自体は難行を極めた。蕎麦の間に潜るので、新たな蕎麦の倒伏は先人の比ではなく、これでは収穫は半減するのではないかとさえ思え、いっそのことしないほうが良いのではという率直な意見が続出し、完全な土寄せは極めて困難との見通しから、作業を中断した。行なった部分的な惨状は会長が自ら記録に留めることにする。作業すること40分余り、滞在1時間で切り上げ、次の目的地の穂高町「上条」へ向かうことに。
運転は大吟醸を召したMr前田に代わってMr塚野が、車では前回小生の不覚で迷い込んだ立派な尻切れ農道の話が一頻り、しかし今回Mr塚野も危うく前車の轍を踏んで、あの袋小路の農道へ迷い込みそうになった。表示板が曖昧過ぎる。高速道を塩尻北ICから豊科ICへ、夕暮れの安曇野を北へ向かう。常念岳が残照に浮かぶ黄昏、会長の先導でご推薦の「上条」に着いた。この建物の外観は洋館、幟がなければ全く蕎麦屋には見えない。案内では8時までのはず、でも灯は落ちており、振られてしまった。
急遽、代役は同じ穂高町の「ひらく」、かの「ふじおか」と同じ紹介書に載っている銘店である。そして閉店間際?に到着。時刻は午後6時40分、早速「特製ざる」3枚、「そばがき」2鉢、つまみに花山葵、酒は冷燗の白馬錦を所望する。「ざる」は細打ち、「そばがき」は田舎風で量は豊か、つまみはセンナの醤油漬し、酒はいわゆる爽やかな本醸造、かれこれ40分ばかり居たろうか、7時半前には帰路についた。安房峠経由で金沢へ、Mr前田の滑らかな流れるような運転で夜をひた走り、11時に帰沢した。走行600kmに及んだ1日もどうやら無事終了した。
2011年8月12日金曜日
奈良探蕎 : 玄(奈良市) と 稜(葛城市)
表記表題の初出は「探蕎」会報第41号(平成20年7月5日発行)で、訪れたのは平成20年(2008)の6月14日に「玄」、6月15日に「稜」である。 「晋亮の呟き」に再録する。
本年前半の行事のうち、探蕎小旅行は奈良・京都方面ということだったが、参加予定者が10名と少なかった上、いつも企画・立案・案内される久保さんが不参加ということで、旅行の実施自体が危ぶまれた。事務局の前田さんでは、会の行事として決めたので、団体でなくても個人でいいから探蕎してきてほしいとのこと、全く自信がなかった。5月25日に湯涌みどりの里で会員そば打ちがあり、会員多数が参加し、6月の旅行に参加を予定している人も8名出席だった。それで当初は団体での旅行の中止を伝えようと臨んだのだが、和泉さんご夫妻から8名だったら私の方で車を用意しましょうとの申し出があり、そこで方向転換、実施することで話を進めることになった。久保さんからは奈良市のそば屋を4店紹介して頂いた。しかし宿はコースが未定なこともあり、参加の皆さんにはアウトラインが決まってからお知らせすることにして、取り合えず帰りに前田書店へ相談に寄った。私はいつもなら蕎麦前を頂くのだが、前日に大腸ポリープを切除して禁酒 を命じられていたこともあって、車の運転は可能だった。
宿は前田さんでは「奈良ホテル」を推奨、電話ではツイン4室ありとのことだったが、仮押さえせずにネット申込みしたものだから、いざ申込みの時点では「空室なし」になっていた。帰宅してネットでいろいろ調べるが、当たったホテルはすべて満室、ただ当初の奈良ホテルに空きがあるようなサインが出たので、今一度前田さんにお願いした。結果として奈良ホテルはノーだったが、程近い「さるさわ池よしだや」をゲットして頂けた。一方、旅行スケジュールについては一切を寺田先生にお願いすることにした。そば屋は初日は奈良では最も古い「玄(げん)」に、2日目は當麻寺門前の仁王門「稜(そば)」とし、そば屋の交渉以外は一切先生に一任ということで旅行はゴーとなった。そば屋2店には、翌日に「石川県の金沢から食べにお伺いするので、何とか便宜を図ってもらえませんか」とお願いしたところ、「玄」では「せいろ」と「田舎」8人分を余分にお打ちしましょうと言って下さったし、「稜」でも確保して置きましょうと言って頂けた。寺田先生のコース取りも決まり、5月31日に事務局の前田さんから参加者全員に「奈良方面旅行のご案内」としてメールが発信された。こうして、和泉さん、寺田先生、前田さんのご尽力で、どうやら旅行が成立することになった。
● 玄(げん) (6月14日)
予約は開店時間の11時30分、白山市番匠を午前6時少し前に出発、寺田先生の水先案内よろしく、奈良には4時間で着いてしまった。開店にはたっぷりの時間があり、先に国立奈良博物館を訪れた。「玄」からは、近くへ来たら電話下さいとのことで、博物館から出るときに電話をした。「県庁の駐車場からだったら、天理街道を南下して、奈良ホテルが見えたら、次の大きな交差点の次の福智院町の交差点を右に折れ、少し進むと右に駐車場がありますから、そこの島崎と書いてある5~7番に車を停めて下さい」とのこと、了解して駐車場を出た。ところが右折禁止で銚子が狂って方角を間違え、天理街道へ戻ってからも交差点を見落として1km以上もオーバーラン、通行人に訊き漸く件の交差点に着いた。でも今度は駐車場の場所が不明、また電話したら、極々近くだった。興善寺の門前の通路には参詣者用の駐車場はあるものの、ここは駄目らしい。寺の門前を左に折れ、狭い路地を直進すると、突き当たりにお目当ての「玄」の暖簾が見えた。予定の10分遅れで着けた。由緒有りげな門と建物と思ったら、隣にある重要文化財「今西家書院」の離れだという。小さな庭は手入れが行き届いている。
上がると3列に座机、既に2組が陣取っていた。玄は久保さんのメモでは、春鹿酒造の後とあり、裏で続いていて隣のようなもの、当然玄でのお酒は「春鹿」のみ、純米吟醸生酒の「しぼりたて」を2合お願いした。実は春鹿酒造という醸造元はなく、正確には「今西清兵衛商店」という老舗の酒銘が「春鹿」、春は春日大社から、鹿は神の使いから、今も春日大社の御神酒を醸造しているという。お酒はギヤマン風の角瓶に入ってきた。値はしっかりと高いが、実に馥郁としていて美味しいお酒だ。
ややあって「せいろ」、2枚ずつ運ばれる。正方形の木枠に竹簾が敷かれ、鶯色のそばが薄盛りにされている。つなぎなしの十割の極細、初めての対面、毎日必要分だけを石臼挽きにするのだという。そばの量は多くない。これだけ細いと、茹で時間は瞬時だろう。これでコシもあり、喉越しも良いのだから、もしそばの香りを最も大事にするのだったら、つゆは水のみでもよいのではと思う。
次いで「田舎」、薄手のくすんだ陶製の浅い皿鉢の真ん中にこんもり鎮座した感じで出てきた。粗挽きで、色はそんなに黒くはない。これは石臼の加減だろう。「せいろ」より心持ち太いようだ。でも細い。ホシは細かい。そして香りはこちらの方がやや濃い感じだ。
最後に「そば団子」、これは前日にもう一度念のため電話した折に勧められたもので、4人前申し込んでおいた。これは予約分のみ当日の朝作るとか、木の盆に2個、練り上げた蕎麦粉の皮の上には黄粉がかかり、中には漉し餡が入っているとか。私は食するのをパスしたが、味の方は如何だったろうか。
これで此処での食は滞りなく終了した。帰りに店主のお見送りを受ける。門から出て狭い路地を歩いていると、やっと見つけたとガイドブックを手にした若いカップルに出会った。「玄」は奈良では最も古い店、とは言っても平成3年の創業、まだ17年、でも店主の島崎さんは関西そば界では、草分け的存在である。
・お品書(税別、単位百円):せいろ・いなか(10),山かけ・おろし・そばがき(12),そば団子(4),酒(春鹿)(15~25).
・住 所:奈良市福智院町 23-2, 電話:0742-27-6868.
・営業時間:(昼)11時半~1時半(入店1時迄),(夜)18時~21時(入店19時迄 蕎麦遊膳のみ).
・定休日:土(夜)と日・月曜日、乳幼児入店お断り.
● 稜(そば)(6月15日)
2日目のコース取りは寺田先生ならではのユニークなもの、宿を出て先ず信貴山朝護孫子寺へ、そして當痲寺と門前の仁王門「稜」へ。車にナビは付いてはいないものの、寺田先生の人間ナビの案内で「稜」へも開店前に到着できた。そして昨日と同じく、先に當痲寺を拝観した。その後開店の11時45分に「稜」へ入った。入ると、左手の小上がりに4人座れる座卓が3脚、右手には檜の自然木の大きなテーブル、店主の片岡さんからはお好きな場所へと言われ、全員一箇所にとテーブルに陣取ることに。我々が最初だった。ここでも蕎麦前を少々頂くことにして、奈良吉野の地酒「花巴」純米吟醸を2合、よく冷えたのが片口に入れられて出てきた。中々癖のない淡麗な酒だ。
程なくして、「せいろ」が伊万里の中皿の真ん中に置かれた円い曲げ物の中に入って出てきた。中細で端正なそばという感じ。手繰って食すると、コシも喉越しもそこそこだが、今少し物足りない。つなぎなしではない印象を受ける。つゆは濃い方だ。そばの量は若干多め。次いで「田舎」、四角な中皿に長方形の枡形が置かれ、そこにこれが田舎そばだという黒いそば切り、粗挽きを思わせる黒いホシが見えている。「せいろ」よりやや太め、やはりそばは綺麗に揃っていて中々端正だ。これは店主の人柄を表している。しかしこちらも強烈なインパクトが感じられない。ということは、自家製粉ではないのではと思ったりする。
量が多いからと、一人「田舎」を召し上がらない方が出た。予め頼み込んであった手前、どうしたものかと店主の片岡さんに相談すると、構いませんと言われた。それより金沢からわざわざお出でて、もしやまずかったのではと、そんな心配をして下さったのには、かえって恐縮した。開店して11年目ですと言われる。中々感じの好い店だった。
・お品書(税込.単位百円):せいろ・田舎・そばがき(10).山かけ・辛味大根(12),酒:花巴(10~20),越の鶴(10),稜特選(15).
・住 所:奈良県葛城市當痲 1256-2. 電話:0745-48-6810.
・営業時間:(昼)11:45~売り切れ迄,(夜)創作料理.
・定休日:火曜日.
本年前半の行事のうち、探蕎小旅行は奈良・京都方面ということだったが、参加予定者が10名と少なかった上、いつも企画・立案・案内される久保さんが不参加ということで、旅行の実施自体が危ぶまれた。事務局の前田さんでは、会の行事として決めたので、団体でなくても個人でいいから探蕎してきてほしいとのこと、全く自信がなかった。5月25日に湯涌みどりの里で会員そば打ちがあり、会員多数が参加し、6月の旅行に参加を予定している人も8名出席だった。それで当初は団体での旅行の中止を伝えようと臨んだのだが、和泉さんご夫妻から8名だったら私の方で車を用意しましょうとの申し出があり、そこで方向転換、実施することで話を進めることになった。久保さんからは奈良市のそば屋を4店紹介して頂いた。しかし宿はコースが未定なこともあり、参加の皆さんにはアウトラインが決まってからお知らせすることにして、取り合えず帰りに前田書店へ相談に寄った。私はいつもなら蕎麦前を頂くのだが、前日に大腸ポリープを切除して禁酒 を命じられていたこともあって、車の運転は可能だった。
宿は前田さんでは「奈良ホテル」を推奨、電話ではツイン4室ありとのことだったが、仮押さえせずにネット申込みしたものだから、いざ申込みの時点では「空室なし」になっていた。帰宅してネットでいろいろ調べるが、当たったホテルはすべて満室、ただ当初の奈良ホテルに空きがあるようなサインが出たので、今一度前田さんにお願いした。結果として奈良ホテルはノーだったが、程近い「さるさわ池よしだや」をゲットして頂けた。一方、旅行スケジュールについては一切を寺田先生にお願いすることにした。そば屋は初日は奈良では最も古い「玄(げん)」に、2日目は當麻寺門前の仁王門「稜(そば)」とし、そば屋の交渉以外は一切先生に一任ということで旅行はゴーとなった。そば屋2店には、翌日に「石川県の金沢から食べにお伺いするので、何とか便宜を図ってもらえませんか」とお願いしたところ、「玄」では「せいろ」と「田舎」8人分を余分にお打ちしましょうと言って下さったし、「稜」でも確保して置きましょうと言って頂けた。寺田先生のコース取りも決まり、5月31日に事務局の前田さんから参加者全員に「奈良方面旅行のご案内」としてメールが発信された。こうして、和泉さん、寺田先生、前田さんのご尽力で、どうやら旅行が成立することになった。
● 玄(げん) (6月14日)
予約は開店時間の11時30分、白山市番匠を午前6時少し前に出発、寺田先生の水先案内よろしく、奈良には4時間で着いてしまった。開店にはたっぷりの時間があり、先に国立奈良博物館を訪れた。「玄」からは、近くへ来たら電話下さいとのことで、博物館から出るときに電話をした。「県庁の駐車場からだったら、天理街道を南下して、奈良ホテルが見えたら、次の大きな交差点の次の福智院町の交差点を右に折れ、少し進むと右に駐車場がありますから、そこの島崎と書いてある5~7番に車を停めて下さい」とのこと、了解して駐車場を出た。ところが右折禁止で銚子が狂って方角を間違え、天理街道へ戻ってからも交差点を見落として1km以上もオーバーラン、通行人に訊き漸く件の交差点に着いた。でも今度は駐車場の場所が不明、また電話したら、極々近くだった。興善寺の門前の通路には参詣者用の駐車場はあるものの、ここは駄目らしい。寺の門前を左に折れ、狭い路地を直進すると、突き当たりにお目当ての「玄」の暖簾が見えた。予定の10分遅れで着けた。由緒有りげな門と建物と思ったら、隣にある重要文化財「今西家書院」の離れだという。小さな庭は手入れが行き届いている。
上がると3列に座机、既に2組が陣取っていた。玄は久保さんのメモでは、春鹿酒造の後とあり、裏で続いていて隣のようなもの、当然玄でのお酒は「春鹿」のみ、純米吟醸生酒の「しぼりたて」を2合お願いした。実は春鹿酒造という醸造元はなく、正確には「今西清兵衛商店」という老舗の酒銘が「春鹿」、春は春日大社から、鹿は神の使いから、今も春日大社の御神酒を醸造しているという。お酒はギヤマン風の角瓶に入ってきた。値はしっかりと高いが、実に馥郁としていて美味しいお酒だ。
ややあって「せいろ」、2枚ずつ運ばれる。正方形の木枠に竹簾が敷かれ、鶯色のそばが薄盛りにされている。つなぎなしの十割の極細、初めての対面、毎日必要分だけを石臼挽きにするのだという。そばの量は多くない。これだけ細いと、茹で時間は瞬時だろう。これでコシもあり、喉越しも良いのだから、もしそばの香りを最も大事にするのだったら、つゆは水のみでもよいのではと思う。
次いで「田舎」、薄手のくすんだ陶製の浅い皿鉢の真ん中にこんもり鎮座した感じで出てきた。粗挽きで、色はそんなに黒くはない。これは石臼の加減だろう。「せいろ」より心持ち太いようだ。でも細い。ホシは細かい。そして香りはこちらの方がやや濃い感じだ。
最後に「そば団子」、これは前日にもう一度念のため電話した折に勧められたもので、4人前申し込んでおいた。これは予約分のみ当日の朝作るとか、木の盆に2個、練り上げた蕎麦粉の皮の上には黄粉がかかり、中には漉し餡が入っているとか。私は食するのをパスしたが、味の方は如何だったろうか。
これで此処での食は滞りなく終了した。帰りに店主のお見送りを受ける。門から出て狭い路地を歩いていると、やっと見つけたとガイドブックを手にした若いカップルに出会った。「玄」は奈良では最も古い店、とは言っても平成3年の創業、まだ17年、でも店主の島崎さんは関西そば界では、草分け的存在である。
・お品書(税別、単位百円):せいろ・いなか(10),山かけ・おろし・そばがき(12),そば団子(4),酒(春鹿)(15~25).
・住 所:奈良市福智院町 23-2, 電話:0742-27-6868.
・営業時間:(昼)11時半~1時半(入店1時迄),(夜)18時~21時(入店19時迄 蕎麦遊膳のみ).
・定休日:土(夜)と日・月曜日、乳幼児入店お断り.
● 稜(そば)(6月15日)
2日目のコース取りは寺田先生ならではのユニークなもの、宿を出て先ず信貴山朝護孫子寺へ、そして當痲寺と門前の仁王門「稜」へ。車にナビは付いてはいないものの、寺田先生の人間ナビの案内で「稜」へも開店前に到着できた。そして昨日と同じく、先に當痲寺を拝観した。その後開店の11時45分に「稜」へ入った。入ると、左手の小上がりに4人座れる座卓が3脚、右手には檜の自然木の大きなテーブル、店主の片岡さんからはお好きな場所へと言われ、全員一箇所にとテーブルに陣取ることに。我々が最初だった。ここでも蕎麦前を少々頂くことにして、奈良吉野の地酒「花巴」純米吟醸を2合、よく冷えたのが片口に入れられて出てきた。中々癖のない淡麗な酒だ。
程なくして、「せいろ」が伊万里の中皿の真ん中に置かれた円い曲げ物の中に入って出てきた。中細で端正なそばという感じ。手繰って食すると、コシも喉越しもそこそこだが、今少し物足りない。つなぎなしではない印象を受ける。つゆは濃い方だ。そばの量は若干多め。次いで「田舎」、四角な中皿に長方形の枡形が置かれ、そこにこれが田舎そばだという黒いそば切り、粗挽きを思わせる黒いホシが見えている。「せいろ」よりやや太め、やはりそばは綺麗に揃っていて中々端正だ。これは店主の人柄を表している。しかしこちらも強烈なインパクトが感じられない。ということは、自家製粉ではないのではと思ったりする。
量が多いからと、一人「田舎」を召し上がらない方が出た。予め頼み込んであった手前、どうしたものかと店主の片岡さんに相談すると、構いませんと言われた。それより金沢からわざわざお出でて、もしやまずかったのではと、そんな心配をして下さったのには、かえって恐縮した。開店して11年目ですと言われる。中々感じの好い店だった。
・お品書(税込.単位百円):せいろ・田舎・そばがき(10).山かけ・辛味大根(12),酒:花巴(10~20),越の鶴(10),稜特選(15).
・住 所:奈良県葛城市當痲 1256-2. 電話:0745-48-6810.
・営業時間:(昼)11:45~売り切れ迄,(夜)創作料理.
・定休日:火曜日.
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