<?xml version='1.0' encoding='UTF-8'?><?xml-stylesheet href="http://www.blogger.com/styles/atom.css" type="text/css"?><feed xmlns='http://www.w3.org/2005/Atom' xmlns:openSearch='http://a9.com/-/spec/opensearchrss/1.0/' xmlns:georss='http://www.georss.org/georss' xmlns:gd='http://schemas.google.com/g/2005' xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'><id>tag:blogger.com,1999:blog-2657683463431170685</id><updated>2012-02-13T08:51:54.190+09:00</updated><category term='　'/><category term='、'/><title type='text'>晋亮の呟き</title><subtitle type='html'></subtitle><link rel='http://schemas.google.com/g/2005#feed' type='application/atom+xml' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/feeds/posts/default'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default?max-results=100'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/'/><link rel='hub' href='http://pubsubhubbub.appspot.com/'/><link rel='next' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default?start-index=101&amp;max-results=100'/><author><name>木村晋亮（Nobuaki Kimura）</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14545803047520422453</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><generator version='7.00' uri='http://www.blogger.com'>Blogger</generator><openSearch:totalResults>173</openSearch:totalResults><openSearch:startIndex>1</openSearch:startIndex><openSearch:itemsPerPage>100</openSearch:itemsPerPage><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2657683463431170685.post-5529088314803252742</id><published>2012-02-10T08:04:00.015+09:00</published><updated>2012-02-10T13:02:49.740+09:00</updated><title type='text'>「白山登山記　自8月15日ー至8月17日」（１）</title><content type='html'>中学1年生のとき(昭和24年)、私は叔父に誘われて初めて白山へ登った。そのときの印象を綴った標記の作文が出てきたので、ここに採録する。この作文には誤字脱字のミスがあるが、敢えてなるべくそのまま記した。原文は縦書き、数字は漢数字。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「出かけるまで」&lt;br /&gt;　僕に白山え一緒に登らないか、とおじさんが云われたのは八月十二日の晩の事だった。僕はすぐに「行く」と云う返事をしたが、「学校にさしつかえがなければいいが。」と思った。父も母も僕の意見にすぐに賛成してくれた。&lt;br /&gt;　それですぐに学校へ行ったが、先生は帰られておいでないので明日学校へ行ったら云おうと思ったが会う機会が無かった。残るは後一日である。それで十四日の朝僕は先生にその事を話すとすぐに承知して下さった。何故なら明日は一学期の終業式ででも学校を休まなければならなかったからだ。&lt;br /&gt;　明日の朝早く出かけると云うのでその晩は持物の用意をしたり地図を拡げて道程を測ったりした。その日は早く寝床についた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「八月十五日」&lt;br /&gt;　待ちに待った日が来たので朝早く起床した。僕は「どうらん」やリュックサックに物をつめ出かける準備をして出かけるのを待った。用意が出来たので僕は元気に「いって来ます」と云って家を出た。&lt;br /&gt;　五時だというのに外は大変明るかった。駅につき電車に乗ると電車の中は満員で魚を釣る人と登山者とで身動きも出来ない程だったが鶴来まで来るとだいぶん楽になり金名線に乗りかえる時は登山者が大部分であるのだった。&lt;br /&gt;　白山下から今度は白峰までのバスに乗ったがその時初めて僕達と一緒に行く金沢大学薬学部の先生方と会った。&lt;br /&gt;　バスは動き出したが道幅一間半の山道を行くのだから大変時間がかかった。白峰えつくと今度は市ノ瀬までのバスに又乗りかえなければならないがバスが小型なのでいちいち燃料を入れているのでその時間でさえも一回するのに五十分程づつはかかった。その間僕達はそのあたりを見ていたが一番笑ったのはフラスきん入りと云うのがはっきり知っているのかそれはどうなのかわからないがそれをフランスきん入れと書いて店の前にぶらさげてあった。フランスきんもあるのならドイツきんやアメリカきんもあるのかと大笑いした。&lt;br /&gt;　バスは動き出し美しい緑の山々を見ながら一時間半後には市ノ瀬えついた。朝五時に出てから四時間半経過した今、僕等は今から登ろうというので腹ごしらえをして市ノ瀬から徒歩についた。あやしいふらふらの釣橋を渡り急な坂を登った所に「室堂まで九〇〇〇米」と云う立札が立ててあった。平地の二里とちがって山道の二里だからつらいぞと家で云われたが僕は平気だと云って家を出た事を思い出した。急な坂を登ってからは、いたって楽なけいしゃのゆるい道に出たので僕は一人の先生に「白山登山はこんな楽なのですか」と知らないので聞くと「此は一番楽な所でこれからは大変急な所ばかりだよ」と云われた。&lt;br /&gt;　途中猿壁と云う断崖もあってそこからははるかに不動瀧が見えて大変景色もよかった。&lt;br /&gt;　道はいよいよぶなの森林の中え入って行った。すごく大きな樹木である。僕は色々木の名を聞いたが、一番目についたのは「ぶな」と「だけかんば」だった。直径六〇糎から一米近くもあるのが非常に沢山生えていて木の幹には自分の名前を記念にほったのかも知れないが、これも又非常に沢山ほってあった。&lt;br /&gt;　しばらく行くと営林署小屋があって沢山の人達が休んでいた。が僕達はその前にある植物見本林と云う自然のままの樹木が沢山色々の種類に分類されているところへ行き大変僕は参考になった。僕達はただ此森林をただ一時間も一時間半も歩いて行った。行っても行っても樹木であり落ち葉であるのだ。じめじめとしたうす暗い日陰をくぐって行く所もあった。たまたまからりと晴れた所があると思うと、そこはすぐ足もとから下が何百米もの山くずれとなった断崖の上を歩いているのだった。道は小石ばかりで出来ていて何度も足をふみ滑らしてその度に胸がどきっどきっとしたがそこも通りすぎたので落ち葉をかき集めて一休みをした。僕は大変沢山物をかついでいたので休んだ時は本当に背がかるくなった様に思われた。&lt;br /&gt;　そこをたってしばらく行くと観光新道と砂防新道との分かれる所に来た。僕等は左の観光新道の方におれた。そこから三十分程行くと「き市郎坂」という坂の入口に来たので此で一休みした。ちょうど下の方に手取川の上流柳谷川が流れ川むこうにには砂防新道があり少し遠い所には不動瀧が三段になって流れていた。休んでいる所に上の方から水が流れおちていて大変つごうがよかった。きれいにかわいた落ち葉が散りしいてきわめて静かな所であった。&lt;br /&gt;　「さあこれから坂だ」そう思って登り初めるとそこには「室堂まで四〇〇〇米」と云う立札があって私の心はだんだん近ずいていく事を大変うれしく思った。坂を登っている途中山の木の幹や小枝には「ハルゼミ」がやかましい程鳴いていて僕達の心を楽しませて来れた。少し行くと十町程先に休む小屋があるというので急ぎ足で歩いたがなかなかその小屋へつきそうもなくとほうにくれた。あたりは「だけかんば」の森林で木の根が道に沢山出ていて歩きにくく早く小屋へ行かないかと思って急ぐと木の根につまずいたりした。&lt;br /&gt;　市兵衛小屋につき一休みをしあたりを見まわすと今登ってきた山々がずっと遠くまで続いていて今登ろうとする山のほうは青空にくっきりとしていた。それから少し行くと山一面まっ白にくずれ落ちているところに出会った。ここを通るのはとても危険であった。上下何百米かに渡るざらざらとした崖を横切ってひもの様な道がついているが両足をそろえては立ち止る事も出来ない程のせまさである。僕はぴったりと体を崖にくっつけて片足づつ運ばせたが一足動くごとに足もとからは白色の土くれが落ちて行くのだ。ばらばらとくずれ落ちるはるか下の方には柳谷川がせまく深く流れている。&lt;br /&gt;　そこを通り過ぎると今度は樹木の一本も生えていない大きな岩石がぐわらぐわらにある石原え来た。そこで始めての写真を採って貰った。石原がつきる頃になるとかつ葉樹はあまり見あたらなかったが常緑樹の「つが」や「もみ」が見られた。やがて最も急な坂を登り切って又少し行くと市ノ瀬旧道と観光新道と出合う所え出た。そこには殿が池という池があり又道は二つにわかれているのだった。右の方に折れて坂を登ると真砂坂と云う坂があってそれを登ると残雪のある蛇塚に来た。手に雪を取って食べて見るとつかれている僕達には大変おいしく思われた。&lt;br /&gt;　小さい森を過ぎて高山植物もまばらに生えている五色ヶ浜を僕達は歩いた。歩いていると山の陰からは大きな石が二つあるのが見えた。するとどこからか「あ！！ミダガ原の入口が見えるぞっ」と云う様な声があちらからもこちらからも聞こえて来る。その時「ヤーホー」と砂防新道の方から声が聞えた。僕はその時すぐにあれはおじさんの声だという事がわかった。こちらからも「ヤーホー」と云った。山にこだまして山びこが聞えている。&lt;br /&gt;　とうとう「ミダガ原」についた。一面草原で高山植物の「クロユリ」や「ハクサンコザクラ」の群落が沢山見られた。又所々に石を沢山つんであり、そのかたわらには「海抜二五〇〇米」「室堂まで九〇〇米」と書かれた立札が二つ立っていた。&lt;br /&gt;　草原は大変気持ちがよくてまだまだ此にいたい様な気持がしたがそうはいかない。次に最後の坂五葉坂があった。坂の途中は雪渓のために道はうち消されていて歩く事は出来ないので仕方なく雪渓の上を歩き初めたが底がゴムのためなかなか通行は容易にできるものではなかった。此雪渓はすごく大きく又大変長いので土の上を歩き初めたが此も石が沢山あってどちらにしたらいいかわからなかった。しかし僕は「もう室堂だ」と思わず云った。その坂を横にまがる時二むね三むねの屋根の低い家が見えた。それが今夜僕達を休ませ眠らせてくれる白山室堂であったのだ。&lt;br /&gt;　やれやれと安心してふり返ると今通って来た雪渓の上にはものすごくこいガスがかかっているのが見えた。室堂についたのは五時頃だったと思う。僕はあちこちとそこあたりを見廻ったがその時には必ずスケッチブックを持って行くのは忘れなかった。御前峰の方はすごいガスで頂上はぜんぜん見えない位だ。&lt;br /&gt;　「明日の朝早く御前峰え登ろう」と云われたのでその日は暖かい火のある部屋え入って眠った。三時頃頂上の方を見るとはっきり見え三角のやぐらも見えた。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2657683463431170685-5529088314803252742?l=kimuranobuaki.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/feeds/5529088314803252742/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2012/02/815817.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/5529088314803252742'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/5529088314803252742'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2012/02/815817.html' title='「白山登山記　自8月15日ー至8月17日」（１）'/><author><name>木村晋亮（Nobuaki Kimura）</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14545803047520422453</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2657683463431170685.post-6109730835354043601</id><published>2012-02-07T10:39:00.010+09:00</published><updated>2012-02-07T15:01:09.461+09:00</updated><title type='text'>白山の開祖・泰澄大師と湯宿「法師」</title><content type='html'>平成24年(2012)1月24日(日)、金沢泉丘高校第7期同窓生有志の会の耳順会が粟津温泉の「法師」で開催された。法師は粟津温泉では最も古い旅館と聞いていたが、今回第46代当主の法師善五郎さん(有限会社「善吾楼」社長)からお話があり、「法師」の開湯は白山の開祖・泰澄大師によること、さらには高野山真言宗別格本山・那谷寺とも密接な関係があることを知った。以下にその内容を記す。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（１）泰澄大師と白山開山と湯宿「法師」&lt;br /&gt;　泰澄大師は天武天皇11年(682)に越前国麻生津(現福井市三十八社町泰澄寺)に豪族の三神安角(やすずみ)の次男として生まれた。神童と言われ、11歳(14歳とも)の時、夢のお告げから出家し、天台宗越知山大谷寺(おおたんじ)(現福井県丹生郡越前町大谷寺)に登り、法澄と号した。難行苦行の後に仏の教えを悟り、その名声は都まで届いたという。20歳の大宝2年(702)には文武天皇より鎮護国家法師に任じられた。地元では修験者の「越の大徳(たいとこ)」と呼ばれていた。35歳になった養老元年(717)には、雅亮法師(樵夫・笹切善五郎の次男）の案内で、弟子の臥(ふせ)の行者、浄定(きよさだ)行者とともに、加賀国(当時は越前国)白山の御前峰に登り、瞑想していた時、緑碧池から十一面観音の垂迹であるとされる九頭竜王が出現して、自らはイザナミノミコトの化身で白山明神・妙理大菩薩であると名乗って顕現したのが霊峰白山開山の由来と伝えられ、白山信仰の基となった。&lt;br /&gt;　養老2年(718)、泰澄大師の夢枕に白山大権現が立たれ、「この白山の麓から山川を越えて五、六里行ったところに粟津村があり、そこには薬師如来の慈悲による霊験あらたかな温泉があるが、地中深く隠れていて、まだ誰一人としてその霊泉のことを知らない。お前はご苦労だが山を下りて粟津村に行き、村人と力を合わせて温泉を掘り出し、末永く人々のために役立てるがよい」と。お告げにしたがって粟津村へ赴いた大師は、すぐさま村人の強力によって霊泉を掘り当て、試しに病人を入浴させたところ、忽ち病が治った。そこで大師はそれまで身近に使えていた雅亮法師に命じて、万人の病気治療のために一軒の湯治宿を建てさせ、その湯守を雅亮法師に任せた。そして粟津開湯に際しては大師より「法師」の名を頂いた。そして主は法師善五郎と名乗った。法師初代の誕生である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（２）泰澄大師のその後&lt;br /&gt;　養老3年(719)からは越前国を離れ、各地で仏教の布教を行なう。養老6年(722)、元正天皇のご病気を平癒したことにより、神融禅師の号を賜る。神亀2年(725)、僧行基が白山を訪ね、泰澄に本地垂迹の由来を問うたとされており、これにより泰澄は神仏習合説の祖とされている。行基(668－749)は諸国を巡り、寺院建立、道路開拓、橋梁架設、池堤設置などを行なっていて、後に聖武天皇の帰依を受けて大仏造営に与かり、大僧正の位を授けられている。天平2年(730)、一切経を写経し法隆寺に納めた（現存）。天平9年(737)、全国に痘瘡が流行し、勅命により祈願を行ない、疾病を終息させた。このことにより、聖武天皇から大和尚を授けられ、「泰澄」の尊称を賜った。&lt;br /&gt;　神護景雲3年(769)、大師は故郷越前国の越知山大谷寺に戻り、釈迦堂の山窟に座禅を組まれたまま86歳で遷化された。寺の境内に祀られる国指定文化財の九重の石塔が大師の墓と言われている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（３）泰澄大師と那谷寺&lt;br /&gt;　白山を開山した養老元年(717)、泰澄は霊夢に現れた千手観音のお姿を彫って、現那谷寺の岩窟内に安置し、ここを自生山岩屋寺と名付けた。寺は大師を慕う人々と白山修験者によって栄えたという。その後平安中期の寛和2年(986)に花山法皇(第65代天皇、17歳で即位されたが2年で退位、その後出家され、全国各地を巡礼された）が参詣された折、岩窟内に光り輝く観音三十三身を感じ取られ、この山には観音霊場33箇所が宿るとされ、西国三十三箇所の第1番那智山の「那」と、第33番谷汲山の「谷」をとって「那谷寺」と改め、中興の祖となられた。そしてその後も度々参詣され、その折には粟津温泉の法師にてご入浴なされたという。&lt;br /&gt;　しかし南北朝時代には、足利尊氏の軍勢が寺を城砦として新田義貞と戦ったが破れ、寺は灰燼に帰した。江戸時代になり、境内の荒廃を嘆いた第3代加賀藩主前田利常が、寛永17年(1640)に後水尾院の命を受け、名工山上善右衛門らに岩窟内本殿、拝殿、唐門、三重塔、護摩堂、鐘楼、書院などを造らせ、庭園は小堀遠州に指導に当たらせたという。これらは現在、国指定重要文化財及び国指定名勝となっている。高野山真言宗別格本山でもある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（４）歴代法師善五郎の心覚え&lt;br /&gt;・初代：雅亮法師として大師に仕え、養老2年(718)大師による粟津開湯に際し、湯治宿「法師」を開く。&lt;br /&gt;　　　　法師善五郎（初代）を名乗る。&lt;br /&gt;・10代：寛和2年(986)、花山法皇が岩屋寺に参詣され、寺名を「那谷寺」と改名される。法師へ来訪。&lt;br /&gt;・17代：源平の合戦が始まる。文治3年(1187)、源義経と武蔵坊弁慶が安宅関を通る。&lt;br /&gt;・27代：一向一揆が鎮められ、蓮如上人は探索の目を逃れ、法師で飯炊きをなされる。&lt;br /&gt;　　　　天正11年(1583)、前田利家が金沢城に入場、本格的な城造り始まる。&lt;br /&gt;・33代：小堀遠州、法師を訪れ、庭園造りを指導。この時那谷寺にも。古九谷誕生。&lt;br /&gt;　　　　寛永17年(1640)、黄門・前田利常が来訪を記念し、門前に黄門杉を植える（現存）。&lt;br /&gt;・35代：元禄2年(1689)、松尾芭蕉が北陸各地を行脚、那谷寺を訪れ、一句を残す。&lt;br /&gt;・39代：寛政11年(1799)、村役人による湯元心得21ヵ条ができ、法師での入浴にも適用。&lt;br /&gt;・41代：安政3年(1856)、粟津八景(越前の絵師・小川治郎右衛門による)を定める。&lt;br /&gt;・43代：桂太郎、法師に宿し、延命閣にて「善吾楼」を揮毫。法師の社名となっている。&lt;br /&gt;・46代：昭和62年(1987)、世界で200年以上の由緒ある企業のみで構成するエノキアン協会に加盟。&lt;br /&gt;　　　　加盟企業の中では最古の歴史を有している。&lt;br /&gt;　　　　「世界で最も歴史あるホテル」としてギネスに認定される。&lt;br /&gt;・注1：エノキアン協会は1981年にフランスで設立された経済団体で、家業暦200年以上の企業のみ加盟が許される老舗企業の国際組織。40社が加盟。日本では、法師(718)、虎屋(1530)、月桂冠(1637)、岡谷鋼機(1669）、赤福(1707)が加盟。協会では法師が最も古い。&lt;br /&gt;・注2：法師と同時期に創業した旅館として、慶雲館(山梨県西山温泉、705年)や千年の湯・古まん(兵庫県城崎温泉、717年)が知られている。法師は「ギネス・ワールド・レコーズ」に世界で最も歴史のある旅館として登録されたが、平成23年(2011)2月に、その座を慶雲2年(705）開湯の慶雲館に奪われた。&lt;br /&gt;・注3：「法師」の泉質は、ナトリウム・硫酸塩・塩化物泉、泉温は42.5℃、温泉使用量は毎分5.8ℓ。&lt;br /&gt;・注4：粟津温泉の入り口には、泰澄大師の像が立っている。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2657683463431170685-6109730835354043601?l=kimuranobuaki.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/feeds/6109730835354043601/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2012/02/blog-post_07.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/6109730835354043601'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/6109730835354043601'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2012/02/blog-post_07.html' title='白山の開祖・泰澄大師と湯宿「法師」'/><author><name>木村晋亮（Nobuaki Kimura）</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14545803047520422453</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2657683463431170685.post-5291189598327195812</id><published>2012-02-02T10:19:00.012+09:00</published><updated>2012-02-02T15:21:32.494+09:00</updated><title type='text'>藤助の湯　ふじや　（岐阜・平瀬）</title><content type='html'>毎年恒例になっている石川県庁のくろゆりスキーくらぶ主催の正月の志賀高原スキー行に、今年は体力の衰えを感じて参加しないことにした。それで代わりといっては何だが、家内とどこか温泉へ行こうかということになった。ところで私は土日は休みなのだが、彼女はかなり日程が混んでいて、やりくりが付かなかったが、日、月となるが、1月29日と30日ならどうやら工面できて出かけられることになった。ところでここ暫らくは日本の秘湯の宿巡りをしていることもあって、近在の湯宿を当たると、石川に４軒、福井に1軒、岐阜に1軒あったが、この時期は積雪があり、営業しているのは、石川の1軒と岐阜の1軒のみだった。石川の方は1月中は満室とかで、岐阜へ出かけることにする。&lt;br /&gt;　湯宿は岐阜県大野郡白川村平瀬にある「藤助の湯　ふじや」である。平瀬というと白山の東の登山口であって、私は50年来通った道でもある。以前はアプローチはもっぱら金沢と名古屋間を往復していたバスを利用して行ったものだが、今この便はない。当時は今のように五箇山トンネルは開通していなくて、1000ｍ近くある細尾峠を越えて五箇山へ入っていた。当時聞いた話では、村人は月に一度はこの峠を越えて富山へ出る必要があり、冬は難儀して歩いて越えたという。この道には人喰谷という難所もある。&lt;br /&gt;　さて当日は二日ばかり雪が降り続いた後の中休みのような天気、宿の方へ雪の状況を聞くと、車でのお出でには何ら差し支えはありませんとのこと、10時過ぎに出かける。山側環状道路を経由して北陸道へ、小矢部SAで早めの昼食を済ませ、東海北陸道を白川郷ICで下りる。でもここからは15分ばかりのはず、ちと早過ぎた。宿のチェックインは14：30、仕方なく一般道の平瀬バイパス(国道156号線)の道の駅：飛騨白川で時間を稼ごうと思って立ち寄ったが、12月から3月は冬季閉鎖、でも駐車場はきれいに除雪されていた。時間は午後1時、宿へ電話すると、じゃもう30分位したら用意できますから来てくださいとのこと、1時半に道の駅を出る。近くにある「しらみずの湯」の前を通って、街中を通っている旧道の白川街道を北へ向かって辿る。以前はこの道しかなかったので懐かしい。宿はすぐに見つかった。&lt;br /&gt;　宿の隣に駐車場があり、除雪されていて、そこに数台の車が停めてある。今日は気温が若干上っていて、途中の道路にも雪がほとんどなく、心配した雪道の走行はなかった。お天気は今日明日は比較的穏やかであるらしい。積雪140ｃｍとかで心配したが杞憂に終わった。記帳をして、大きな薪ストーブの側でお茶を頂く。おえの広間には繭玉をつけた柳の木が飾られている。この別館は、旧宮川村にあった飛騨造りの築後百余年の古民家を平成14年(2002)に移築したものだという。&lt;br /&gt;　部屋への案内は若い女性、荷物三つを全部担いでくれての案内、恐れ入る。同じ棟の左手の障子の間が食事の間とか、参の間とあった。上り気味の通路を行くと左手に浴室棟があり、入り口に下足箱が置いてあり、11室の部屋名が付けてある。私たちは「野葡萄」。さらに進むと右手に貸切の露天風呂が二つあり、下足がなければ入って頂けますとのことだった。ここからは緩やかな段差のある吹きさらしの通路、突き当りが宿泊棟、戸を開けて中に入る。左に折れ、二つ目の和室が「野葡萄の間」だった。&lt;br /&gt;　部屋は大きく、初めてお目にかかる鹿の子編みの畳敷きの部屋、炬燵が設えてある。続く広い板張りの縁には、炭火を熾せる囲炉裏風の大きな火鉢が置いてある。そしてお風呂グッズは小さな背負い籠の中に入れられている。お茶を飲んで、浴衣に着替える。中と小を用意してありますという。着ると浴衣は丁度だったが、その上は羽織でなく丹前、二枚重ねると少し重い。こんな経験は初めてだ。ところで家内の丹前は丈がすこぶる短く、そのまま着るとチンドンだ。でもフロントには言わず、いざというときは羽織ることに。&lt;br /&gt;　まだ時間も早く客も居ないので、貸切り露天風呂へ入る。岩風呂で外へも通じているが、脱衣場と岩風呂、岩風呂と外との間には厚手のビニール製のカーテンが掛かっている。外には屋根から落ちた雪のブロックが間近にまで転がっている。お湯はまずまずだが、雪塊がすぐ傍にあるので寒々しい。早々に此処を出ることに。そして婦人風呂と殿方風呂へ。こちらの方は広くて内湯は檜風呂、ゆっくり6人は入れよう。外湯の露天風呂は石組みで、10人は優に入れる大きさ、所々に半身浴ができるように石が配され、また寄りかかれるような身置き場所も設えてある。屋根には1ｍばかりの雪が積もっているが、下ろさなくても大丈夫なのだろうか、心配になる。お湯の温度は何度に調節されているのだろうか。どれだけでも浸かっておれる温度、湯口から落ちている湯の温度はやや熱いが、絶妙で実に気持ちが良い。近くに菅笠が置いてあり、雪や雨が降ったら被るのだろう。小雪が舞っている。&lt;br /&gt;　そこへ若者が、明日は流葉でスキーとか、冬の白川郷の里を見たくて寄った後、平瀬の湯でも「しらみずの湯」でなくて、鄙びた湯へ入りたくて探していたら此処が見つかったとか、すごく気に入ったと喜んでいた。もし聞き間違えでなければ、流葉スキー場は岐阜県北部の飛騨市、ここからはかなりの距離だ。&lt;br /&gt;　部屋へ戻るが食事までにまだかなり時間がある。テレビを見、酒を飲み、駄弁りながら時を過ごす。見るともなく宿の案内を見る。こちらの別館は和室8室和洋室2室で、それぞれに草や木の名前が付されていて興味がある。曰く、風車、笹百合、蕗のとう、花梨、金鳳花、山法師、野紺菊、南天萩、山葵、野葡萄。またこの温泉のお湯は、大白川の源泉(96℃)から15ｋｍ引いて65℃になったものを平瀬温泉として分配しており、ここへは毎分60ℓ引き込んでいるとか。その後井戸水で熱交換して平均50℃にした後、温水タンクに貯えてから各浴槽に供給されている由。従って加水、加温、循環はなく、源泉かけ流しである。泉質は含硫黄・ナトリウム・塩化物泉で、ｐＨは8.5の弱アルカリ性低張性高温泉である。&lt;br /&gt;　６時になり食事処へ行く。床の間付きの部屋、中央に炭火を2ヵ所で熾せる囲炉裏風の横長の大きな台が置かれていて、これがテーブル代わりとなる。そしてざっくり竹で編んだ笊には大きな朴葉が敷かれ、その上に山のいろいろな産物が所狭しと並んでいる。蕗、胡桃、銀杏、蓮根、山葵の葉、占地、芋、薇、こも豆腐など。ほかにも、山の草木の煮物、和え物、酢の物、漬物、天ぷら、茶碗蒸し、雑煮、それに鰊の大根寿しなどが。魚は天魚の塩焼き、そして逸品はきれいな霜降りの飛騨牛の陶板焼き、多彩である。食前酒はぶなの木の酵母で作ったとかいう濁り酒、爽やかで飲みやすい。食事には、野葡萄のワイン、生ビール、地酒を貰う。素朴な山の里の品々は心を癒す。粟ご飯を頂き、冷菓で終える。これほど徹底した地産地消は珍しい。都会の匂いが一切しない野趣溢れる山里料理だった。&lt;br /&gt;　翌朝早く露天風呂へ行く。雪が舞っている。菅笠を被って風呂に入る。時々風が吹いて木の枝に積もった雪が落ちて来る。何とも風情ある素晴らしい湯だ。そこへ大阪の方で毎年訪れるという方がご入来、雪下ろしをしなくてもよいのは、飛騨造りという屋根の構造にあるのだと教わる。また私がここの積雪が140ｃｍと聞いて来るのが心配だったと話すと、その心配は全くないと。それは大型トラックは高速道の東海北陸道の飛騨トンネル(11km)を通ることができないので、荘川ICと白川郷ICとを結ぶ国道156号線は完璧に除雪されるとか。私は心配で二度も宿へ電話したが、大丈夫ですと太鼓判を押されたのはそんな背景があったのだと納得した。&lt;br /&gt;　昨夜と同じ場所での朝食、朴葉味噌が出た。ご飯は真っ白な小粒、飛騨のコシヒカリとのことだったが、実に美味しく驚きだった。焼き魚は虹鱒、温泉卵も地卵、朝食には定番の焼海苔も出ず、根っからの素朴な徹底した山の里のもてなしだった。こんな宿があったとは。&lt;br /&gt;　辞して、世界文化遺産の白川郷の里、荻町合掌造り集落へ向かう。今朝は冷え込んだのか道路は白く凍結している。でもカーブの部分が凍結していないのは、消雪剤を散布してあるからだろう。車には雪や水が飛び跳ねた跡が白くなって残る。集落中央にある駐車場に車を停める。冬の白川郷はテレビや写真で見たことはあるが、実物を見たのは初めて、夜にはライトアップされるのだろうか。メインロードの土産物店にも入ってみる。外国人の団体ツアーも来ている。雪は珍しいだろう。&lt;br /&gt;　町外れ近くから西通りに入る。すると合掌造りのあの急な屋根の雪を下ろしているのに出くわした。急な勾配で雪は自然に落ちるのかと思っていたが、そうでもないらしい。聞くと下ろさねばならないと言われる。それにしてもあの勾配での雪下ろしは、何ともアクロバティックである。しかし屋根に雪が載っていてこそ風情があるのに、いくら保全とはいえ何とか調和できないものか。秋葉神社の鳥居をくぐり、であい橋へ、こうして庄川を渡ると、対岸に荻町集落をほぼ一望できる。&lt;br /&gt;　昼近く白川郷を後にする。道の駅白川郷へ寄った後、高速へ入ろうとICへ行くと、事故があったとかで金沢方面へは下道を利用して下さいとのこと、国道へ回る。途中道の駅五箇山にも寄った。事故は白川郷ICと五箇山ICの間であったらしく、五箇山ICからは順調に帰ることができた。車はまるで消雪剤まみれ、洗車を余儀なくされた。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2657683463431170685-5291189598327195812?l=kimuranobuaki.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/feeds/5291189598327195812/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2012/02/blog-post.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/5291189598327195812'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/5291189598327195812'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2012/02/blog-post.html' title='藤助の湯　ふじや　（岐阜・平瀬）'/><author><name>木村晋亮（Nobuaki Kimura）</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14545803047520422453</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2657683463431170685.post-2505180553997714074</id><published>2012-01-23T13:07:00.010+09:00</published><updated>2012-01-24T07:32:01.527+09:00</updated><title type='text'>「シンリョウのジュッカイ」　（７）</title><content type='html'>●　大怪我で九死に一生を得る&lt;br /&gt;　父の軍隊での土地返還の残務整理も終わり、私たちは金沢市十一屋町から野々市町へ帰ってきた。そして４月には野々市小学校へ転校して５年生に転入、弟は新入生として入学することになった。そして１町歩の農地を耕してお米を作る百姓の一歩を踏み出すことになった。巷の噂では、まったくの素人百姓が長続きする筈がない、いずれは早晩ギブアップするのは火を見るより明らかと言われていた。だから近所でノウハウを教えてくれる人は誰もなく、四面楚歌での米作りが始まった。でも捨てる神あれば拾う神ありで、田起こしは、父の軍隊の関係で、町で馬喰をしている方が協力してくれた。当時は田起こしは牛か馬に犂を引かせてしたものだ。荒起こし、代掻きの後、苗を植えるには田を均さねばならず、それには重い板を引っ張って均した。苗は苗代田で育て、均した田には枠を回して枠の跡を付け、苗を植え付ける。しかしこの枠回しは中々熟達した技が必要で、田圃一面に綺麗な枠跡を付けるのは、素人にとっては至難の技、しかもやり直しがきかず、しかも優劣の差が歴然とする。これには苦労した。&lt;br /&gt;　百姓をしていて集中して忙しいのは田植えと稲刈り、初年度は周りの人の協力もなく、馬喰の方の斡旋で、植え付けの時期が遅い羽咋の方から何人かに来て頂いて、どうやら田植えを乗り切った。&lt;br /&gt;　私が田圃に借り出されたのは、「田植え」と「らち打ち」と「稲刈り」だった。らち打ちは今では全く行なわれていないが、草取りと稲の根に活力を与えるために行なうもので、どこの家でも大概子供の分担だった。ところで百姓をして数年も経った後には、田植えは「結い」といって数軒が纏まってやるようになったので、始めた頃のような心配はなくなった。それから秋の仕事の稲刈りも一時(いっとき)仕事なので、初めての年はやはり応援を頼んだ。稲刈りは天気の良い日に刈ることにし、午前に刈った稲は、午後には何株かをまとめて結び、それを「きらば｣にして積む。その後、明日天気が良いようだと夕方まで刈り、刈り倒しにしておく。全部刈り上がって積んだら、順次「きらば」を崩して天日干しにし、乾かしてまた積み直し、大体３回位干すと乾燥するので、荷車に積んで納屋に運ぶ。その後納屋で脱穀する。納屋が小さくて入らない家は、天気の良い日に田圃で脱穀していた。その点私の家は大きな米倉と納屋があったので、稲束を全部収容できた。当時の脱穀は足踏み式の脱穀機でしていた。ただ籾摺りは小型の籾摺り機で対応していた。その後米選機で粒を揃え、４斗ずつ米俵に詰め、供出用のには新しい俵を、保有米のには前に使った古い俵を使った。供出に使う米俵と桟俵は、農閑期の冬の間に藁で編んだ。&lt;br /&gt;　さて、稲刈りが済んだ後のとある秋の昼下がり、私は弟と妹と三人で、近くにある学校の運動場にいた。何をしていたかは定かではないが、夕方近くになり家へ帰るのに競争して帰ろうということになった。お宮さんの境内を通って帰れば、ものの１分程で帰られる距離、私が一番に納屋に着いた。両親は納屋には居らず、納屋には足踏み式脱穀機が置いてあった。一度は使ってみたいと思ってはいたが、子供では稲藁が引っ張られて危ないとかで使わせてもらえなかった。弟たちはまだ帰ってこず、これは千載一遇のチャンスとばかり、足踏み板を踏んで機械を動かした。稲束を持って機械に当てたが、予想以上の引張りがあり、途中で稲束を放してしまった。それで機械を止めねばと思った。ブレーキは付いておらず、本来なら踏み板を足で踏んで抑えればよいのだが、私は噛み合っている歯車に左手の中指を入れて止めようとした。ところがアッと言う間に中指は歯車に巻き込まれてしまった。機械は止ったものの代償は大きかった。&lt;br /&gt;　歯車を戻し、指を抜き、手が油まみれなので、流しへ行って手押しポンプで水を汲み、水で左手を洗った。痺れていたせいか痛みはそんなになく、出血もさほどでもなかった。見ると、中指は完全に潰れていたし、人差し指は根元の所でくっついてはいるものの、ブランと下がっていた。黒い油は水だけではほとんど取れなかった。こんな私を最初に見つけてくれたのは、薬剤師で山崎太可堂へ婿入りすることになっていた叔父で、持ってきたマーキュロクロム液（通称赤チン）をぶっかけ、包帯で左手をぐるぐる巻きにしてくれた。当時の野々市町には二軒の医院があったが、いずれも内科医だった。両親に連絡し、ハイヤーで大学病院へ、熊埜御堂外科だったと思う。緊急に手術がなされた。結果として中指は切除、人差し指は挫滅していたがどうにか繋がっていたので、縫合された。でもこの縫合が後で火種となった。&lt;br /&gt;　一応表向きの傷は塞がって退院した。しかし何となく傷の場所に爆弾を抱えているような違和感があった。そんなある日の午後、布団に横たわって寝ていたとき、突然左手の傷の部分から大出血した。「かあちゃん、でたっ」と叫んだ。何か生ぬるいものが左手の包帯の中に充満した。そして記憶を失った。&lt;br /&gt;　私は夢を見ていた。始めは暗いトンネルを歩いていた。遠くに明かりが見えている。トンネルの出口なのだろうか。私はその明かりに向かって歩いている。衣装は纏っているのだろうけど、どんなかは記憶にない。しかし行けども行けども遠くの明かりは近づかない。でも突然暗闇だった視野が明るい野原に反転した。野原にはポピーのような丈の低い草が一面に生えていて、いろんな色の花を咲かせている。そんな中に一筋の道がついていて、私はそこを歩いている。行く手には靄がかかっている。明るい陽が射しているかどうかは分からない。ただ何処へ行くという当てがあるわけではないが、足が何かに魅かれるように動いて行く感じだ。やがて遠くに低いが山のような丘が見えてきた。どれ位時間が経ったのかは分からない。すると行く手に小川が見えてきた。少し左にカーブして、小川の辺に着いた。すると、向こう岸に男の人か女の人かは区別がつかない人がいて、此処は子供の来るところではないから帰りなさいと言われる。何の疑義も差し挟まないまま、黙って今辿ってきた道を戻ることに。すると程なく野の風景は突然なくなり、現実に。そして正気に返った。九死に一生を得た瞬間だった。&lt;br /&gt;　後で母に聞いた話では、母が戻ると出血して布団も血で濡れていて、私は気を失っていたとか。母は私を抱こうとしたらしいが、抱いてはいけないと叔父に言われ、取り敢えずかかりつけでもあった川畑さんという医師へ連絡し来てもらったという。これは輸血しないと命を落とすと言われ、父か母かどちらかは分からないが、緊急なので親の血を輸血することにしたという。私の腕の血管からは輸血ができず、窮余の一策で足のくるぶしのところから試みてやっと輸血できたという。そうしてやっと血の気が射してきたとかだった。大学病院へハイヤーで搬送され、緊急手術を受けた。人差し指の縫合部分が化膿していたのは、藁などの夾雑物を閉じ込めたまま縫合してしまったためとかだった。今度は念入りにきれいにして縫合し、その後はトラブルもなく退院できた。&lt;br /&gt;　その後暫らくは左手に添え木を当てて、包帯でぐるぐる巻きにして学校へ通った。当時学校にはナトコとかいう巡回映画が学校を回っていて、そのときに野口英世の伝記ものが上映された、彼は幼い時に、囲炉裏に掛かっていた鉄瓶のお湯で火傷して、指がくっついて開けなくなる大火傷を負った。それで「てんぼう」というあだ名が付けられたという。一方で私も左手をぐるぐる巻きにしていたものだから、早速「てんぼう」というあだ名を頂戴することになった。その時の印象では、似ていたから致し方はないものの、あまり有り難いあだ名ではなかった。傷がきちんと治ってからも、一時は手の先に針金の輪を付け、人差し指を真っ直ぐに引っ張っていたこともあったが、その効果はあったのだろうか。爪が伸びてくるので、指も伸びるのかと期待したが、医者からは骨が切れているのでそれはないと言われた。だから今でも左手の人差し指の長さは、小学５年の時のままである。&lt;br /&gt;　私の父親の末弟の四番目の叔父は、当時東大の学生だった。当時は医学部薬学科に在籍していた。終戦後は学費の仕送りもままならず、大変だったようだ。一時は小石川植物園の元クジャクがいた部屋で寝泊りしたという話を聞いたことがある。でもお盆とお正月には野々市の実家に帰ってきていた。私は博学だったこの叔父に傾倒し、草木、鳥、星、そして音楽の楽しみを教えてもらった。そして学校にあったタテ型のピアノで、運指をバイエルで教えてもらっていた。しかしそれも一夏だけで、秋には大怪我をして左手の第２指と第３指を廃絶してしまい、ピアノは中止せざるを得なかった。私が博物学や音楽に興味を持ったのも、大学へ進学するのに医学部ではなく、薬学部へ進んだのも、叔父の影響が極めて大であった。その叔父は今年卒寿を迎える。&lt;br /&gt;［異　聞］&lt;br /&gt;　高校から大学へ進学するに当たって、先生からも親戚からも金沢大学の医学部を受験するよう強く勧められた。今の泉丘高校と違って、一時は小学区制だったこともあるが、とにかく総合成績では３番を下ることはなかった。しかし左手の二指の廃絶は重くのしかかり、医学部へ入るとは医者になることと思い込んでいたから、こんな手で診療はできないと思うと、とても受験はできなかった。もしあの時、基礎研究もできると誰かから聞いていれば、そんなに抵抗はしなかったと思う。私の卒業した昭和30年(1955)当時は、金沢大学で最も偏差値が高かったのは薬学部で、医学部はその次だった。だから医学部へは当時の泉丘で20番位までだったらストレートで進学できた時節だった。この年の金沢大学のトップ合格者は、薬学部を受験した定時制高校出の人で、新聞には大々的に報道された。母子家庭の方で、私より5歳年長だった。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2657683463431170685-2505180553997714074?l=kimuranobuaki.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/feeds/2505180553997714074/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2012/01/blog-post_23.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/2505180553997714074'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/2505180553997714074'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2012/01/blog-post_23.html' title='「シンリョウのジュッカイ」　（７）'/><author><name>木村晋亮（Nobuaki Kimura）</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14545803047520422453</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2657683463431170685.post-5460105474307012176</id><published>2012-01-17T09:46:00.009+09:00</published><updated>2012-01-17T13:52:20.318+09:00</updated><title type='text'>山崎家の法事での話題</title><content type='html'>平成24年(2012）1月9日、山崎家の現当主の御母堂の満中陰の法要があり、その後での食事をしながらの懇談では、いろんな話が出て、興味が尽きなかった。その中からのいくつかを紹介してみようと思う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;(１）浄住禅寺の御住職の話&lt;br /&gt;　このお寺は金沢市長土塀三丁目にあり、山崎家の菩提寺で、現住職は50代目、開山したのは七百年前とか、御住職の話では門前の総持寺より古いとのことであった。七百年前というと鎌倉時代後期、開山時は山崎の庄にあったとされ、山崎家も同じく山崎の庄の出という。兼六園内には山崎山というのがあるが、これは山崎の庄に因んだものだと、山崎家の先代(木村の出で、私の叔父)が話してくれたことがある。山崎家と浄住寺との付き合いは七百年昔の頃からあったのだろうか。とにかく山崎家の先祖代々の墓は浄住寺の墓地にはある。宗派は曹洞宗で、浄住寺の開山時には、現在金沢市長坂にある「東香山大乗寺」は既に野市（現在の野々市市）にあったという。現住職の話では、明治になり武家の衰退で檀家が少なくなったこともあって、寺の維持が大変だという。でも御住職のお話では、現在金沢市での既存仏教の色分けは、浄土真宗が8割、次いで曹洞宗(禅宗)が15％、次いで日蓮宗、浄土宗だというから、満更でもないのではないか。そういう木村家は浄土宗なのだが、そういえば旧野々市町には木村家以外には浄土宗の家はなく、大部分は浄土真宗である。ひるがえって、往時野々市町の学校へ寄留していた金沢市の旧三馬村横川出の家はそのほとんどが禅宗である。&lt;br /&gt;　門前の総持寺はその前身は「諸嶽観音堂」という真言律宗の教院であって、大乗寺の二世の榮山禅師が時の住職の定賢から請われて入院し、1321年に寺号を「総持寺」、山号を旧名に因んで「諸嶽山」と改名し、禅院としたとのことだ。その後大本山としての総持寺は明治44年(1911)に石川県から神奈川県(横浜市鶴見区)へ移転し、以後門前にある総持寺は「総持寺祖院」と呼ばれているという。&lt;br /&gt;　山崎の叔父は金沢薬専を出た薬剤師であるが、その先々代も、未だ薬専が広坂の第四高等学校の校舎にあった時の卒業生であったという。ある時金沢で下痢を主徴とする病気（何か不明）が流行った時に、その先々代が患者に石炭酸を飲ませたところ（どういう処方か全く不明）本復し、患者はもとより、健康者も予防に飲んだことから、それで一財産を築き、旧英町一帯はほとんどが山崎太可堂(たいかどう)の地所だったという。しかしその後の相続に際して、そのほとんどを手放したとのことだった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;(２）山崎とみさんの話&lt;br /&gt;　彼女は三人兄妹弟（皆さん薬剤師）の真ん中、未だ独身、天衣無縫というか、行動も大胆で、時に常軌を逸することもあり、しかも神出鬼没、恐れを知らない胆力の持ち主である。女性であることに間違いはないが、女らしさは持ち合わせてはいなくて、またそれが武器となっているという女御である。父の死に際しては、デスマスクを二面採ったと話していた。&lt;br /&gt;●　納骨のこと&lt;br /&gt;　父の死の時もそうだったが、この度の母が亡くなったときも、とみさんの一存で、火葬後の骨はすべて彼女が持ち帰った。父の骨はどうしたのかと浄住寺の住職の方が聞くと、菩提寺の浄住寺の先祖代々の墓へ入れたほかに、父が生前わしは山崎の墓へ入らんと私に話していたので、木村の菩提寺の法船寺に新しく父の墓を作ってそこにも納めたと、それは私も案内を受けて知っている。後は本山の永平寺と榮山禅師の誕生寺へ納めたとか。それは皆さんと相談してそうしたのかとお寺さんが聞くと、私の一存でという返事、これには母も兄弟も関わっていないとのことだった。&lt;br /&gt;●　音楽との関わり&lt;br /&gt;　彼女は独身貴族である。よくある海外旅行の話は彼女から余り聞くことはないが、音楽会にはよく出かけているようだ。いつか持っているチケットを見せてもらったことがあるが、かなりの枚数を持っているのに驚いたことがある。私が聴くのは金沢でだけだが、彼女は東京や大阪、時にはウィーンやザルツブルグへも出かけるというから驚きで、その現地での証拠だといって写真を見せてくれたりする。金大名誉教授の岩先生も音楽に造詣が深く、外国特にオーストリアへ出かけられたりするが、彼女は先生とどこかでお会いしたことがあるとか、とかく行動範囲が広いのに驚く。&lt;br /&gt;　また本人は声楽はアマチュア・プロであると自称している。事実アンサンブル金沢とかの合唱団に所属していたこともあって、第九やメサイアにもアルトのパートで出たことがあり、下の弟もテノールのパートで出ていたという。私も二度ばかり聴かしてもらったことがある。一方ヴァイオリンも弾くようである。亡くなった母親の長姉(故人)は金沢で初の脳神経外科医院を開業した山本医師（他界）の許へ嫁いだが、その家から借りていたヴァイオリンをやっと返してくれたと、現当主の山本院長(彼女と従兄の間柄)が話していたが、彼女は代わりに30万円のヴァイオリンを買ったとか。それで何とかいうプロのピアニストとデュエットするとかで、相手の写真も見せてくれたが、独りよがりでなく、人にも聴かせられる程のものなのかどうか、話を聞いていて何とも不思議な気分になった。叔父で彼女の父の弟は四高時代からチェロや声楽をやっていたほか、ヴァイオリンやフルートや琴などにも堪能だったが、彼女にもそんな血が流れているのだろうか。&lt;br /&gt;　話がオーケストラアンサンブル金沢（ＯＥＫ）のことに及び、今年のニューイヤーコンサートの指揮をした山田和樹は私が提案して実現できたという。昨年の東日本大震災で日本への渡航を拒否した指揮者がいて、金沢では代わりに山田和樹が振ったが、その折とみさんが彼と馴れ馴れしく会話しているのを見て驚いたものだが、満更話に嘘でもないらしいところがある。ＯＥＫの専務理事(泉丘高・県庁の後輩)や音楽監督とも自由に話すとか、また正規ではないが自称応援団と称していて、主演・共演する奏者の提案も時折するとのことだが、当然のことながら決定権はないものの、大概は私の提案は通るとか言っていたが、これも驚きである。山田和樹は現在ＯＥＫのミュージック・パートナーに就任している。&lt;br /&gt;　例のカラヤンの件のことを聞いたら、大阪でのコンサートの折、コンサートホールとホテルとが地下通路でつながっていて、たまたまその通路をカラヤンが一人で歩いているのに出くわし、色紙にサインをお願いしたところ気軽に応じていただけ、握手もして頂いたとかで僥倖だったと言っていたが、これはまだあのヴァイオリンを借りていた時のことで、あのヴァイオリンには不思議な魔力が宿っていて、それにあやかったからだと述懐していた。&lt;br /&gt;●　叔父が山崎へ婿入りした経緯&lt;br /&gt;　叔父が薬専を卒業した後、地元の製薬会社に就職したものの、程なく召集され、内地勤務となった。当時私はよく叔父に手紙を書き、叔父からも絵葉書で便りをくれていた。終戦後は野々市の実家に帰ってきていたが、程なく縁談がまとまり、英町の山崎太可堂に婿入りすることになった。この縁談がどうして纏まったのかを知りたくて話を出した。すると山本院長は、私の母は山崎の長女で、医者である父は軍医となって、叔父とは習志野で一緒になり、医師と薬剤師の関係だったという。当時山崎の長女と次女は既に嫁いでいて、その下に長男と次男がいたが二人とも他界してしまって山崎を継ぐ男性がいなくなり、急遽三女に婿をということになり、白羽の矢が立ったのが山本軍医のお眼鏡に適った叔父だったということだった。これは山本院長からばかりでなく、とみさんからも、また同席されたとみさんの叔母の次女の方からも聞かされた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;(３）山本院長の話&lt;br /&gt;　叔父は調剤薬局が導入されると、卸部門は止めて、漢方薬の勉強を始め、市販の漢方薬ではなく、自分でいろんな処方をしていた。その処方は叔父の方から医者に患者の様子を聞いて処方し、医師にその教えた処方を書いてもらうというやり方をしていた。山崎脳神経外科医院も親戚であり、漢方薬の勉強をするようにとテキストも頂き、それなりに知識を集積したとは院長の言だった。ところが、時に院長の私の意見と叔父の意見が一致しないことがあり、おかしいと言ったことがあるが、叔父はがんとして処方を改めることはなく、当惑したこともあったとか。同じ意見の不一致は、金沢大学薬学部生薬学教室に席を置き、学生らの漢方薬研究会の顧問をしていた２歳下の叔父との間でもあり、二人が会うとよく議論をしていた。私にも勉強するようにと漢文のテキストを頂いたが、深入りすることはなかった。漢方処方は現当主も踏襲はしていないようである。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2657683463431170685-5460105474307012176?l=kimuranobuaki.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/feeds/5460105474307012176/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2012/01/blog-post_17.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/5460105474307012176'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/5460105474307012176'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2012/01/blog-post_17.html' title='山崎家の法事での話題'/><author><name>木村晋亮（Nobuaki Kimura）</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14545803047520422453</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2657683463431170685.post-523207743008365717</id><published>2012-01-12T09:06:00.006+09:00</published><updated>2012-01-12T12:44:17.733+09:00</updated><title type='text'>孫との初スキー</title><content type='html'>次男から正月に一緒にスキーに行こうという誘いを受けた。正月のこのシーズン、例年なら私の古巣の石川県庁のくろゆりスキーくらぶの誘いで志賀高原へ繰り出すのだが、今年は体力の衰えを感じて、参加を見合わせた。通常は金曜の晩に出て、土曜・日曜の全日と休日である月曜の午後2時頃まで滑り、夜に金沢着というスケジュールで、実質2日半のスキー三昧というわけである。費用も昼食とリフト代は別だが、お酒、ワイン、ビール等々お酒類飲み放題で３万円のスキーツアー、毎年楽しみにしていた。ところが昨年は何か体力の衰えを感じ、滑った時間も前年よりも少なく、そろそろ退き時かなあと思ったものだ。事実ここ数年メンバーの中ではずっと私が最年長、それもあって、このシーズンもお誘いを受けたが、辞退することにした。&lt;br /&gt;　家内から私を誘って正月の休みにスキーに行こうと次男一家が楽しみにしているということを聞いて、どうしようかなあと案じたが、時間も空いていることだし、孫たちの付き合いならそんなに負担にもならないだろうと思い、付き合うことにした。家内はというと、スキーは全くの不得手で、足元が動くだけでも怖いというからどうしようもない。だからもし私と行くときは、彼女は読書、私はスキーという段取りで出かけねばならず、それに適した環境のスキー場はというと、八方尾根かアライということになる。さて今回の日取りは1月7日の土曜日、場所は瀬女高原スキー場ということになり、次男が私を午前8時に迎えに来るという。私にとってはこのシーズン初めてのスキーである。昨年は志賀高原の3日間と瀬女高原へ2回行ったきり、しまってあったウェアやスキー道具一式を前日に出した。&lt;br /&gt;　当日は小雪が舞う一日、スキーは短いカービングスキーにする。ウェアに昨年のチケットが残っていたので見ると半日券、昨年も１日持続して滑る体力は持ち合わせていなかったからなのだろう。で今年はというと、できるだけ長い時間滑っていたいとは孫の男の子の弁、小学６年生なのだが、男親に言わすと、少年野球チームに所属していて、しかもエースピッチャー、背はそんなに高くはないが身体は鍛え上げられていて、持久力は抜群だという。だとすると疲れ知らずで、しかもスキーを始めてまだ２年ばかりだとすると面白い盛り、やはり親の弁では瀬女高原のパノラマのロングコースもボーゲンで下まで下るとか、このコースには何ヵ所か30度の斜面があるのにである。往きの車の中での談義では、午後3時半位まで滑って、簡単な食事をして、温泉で汗を流して帰ろうということになった。&lt;br /&gt;　スキー場に着くと、駐車場は第二が7割の入り、６箇所ある駐車場が満車になった時期もあったのに、昨今は本当に少ない。もっとも利用する人にとってはリフト待ちもなく利用勝手がよいのだが、営業としてはどうなのだろうか。当初は小学１年生の孫娘と母親は下のファミリーゲレンデ（１日でも千円とか）で滑るということだったが、滑られるようになると単調なので、慣れたら上の林間コースでということになり、慣れるまで男親が面倒をみることにして、後で皆で合流しようということになった。&lt;br /&gt;　６年生の孫と母親と私が先に上へ上がる。初めに中央のルンルンコースに入る。１年ぶりの感触だ。この日は圧雪車が直前に入っておらず、若干の積雪がある。以前ならこのコースの下までの標高差400ｍを一気に滑り降りたものだが、今は50ｍダウンで休まないと足に負担がくる。滑って休んで、また滑るという繰り返し、我ながら情けなくなる。でも孫が下りてくるまで待てるのが救いだった。ところがその後ペアリフトのドキドキコースを終え、孫と二人で臨んだ3本目のルンルンになると、孫が休みなしに滑り降りるのに付いて行くのが精一杯、追いついても瞬時しか休めず、その次のルンルン挑戦では、私はここで待っているから一人で滑っておいでと言って大休止することに。そうこうするうちに皆が揃った。ルンルンコースではくろゆりスキーくらぶのメンバーの一人に出会った。彼は町内会の世話で志賀高原へは出かけられなかった由、この日も正午までとか、華麗な滑りで下っていった。&lt;br /&gt;　昼食後、１年生の長女と母親は林間コースへ、残り３人はドキドキへ、次男の滑りを見たが、上手になっているのに驚いた。またその格好も様になっていて、小さかった頃の滑りしか知らない私にとっては驚きだった。長男坊も疲れ知らず、太刀打ちできない。この後ルンルンとワクワクを滑ったが、もう付いて行くのが精一杯、それで私のみ外れて午後２時半に落ち合うことにして、私は最後のルンルンへ、疲れてしまった。その後落ち合って、パノラマコースを下まで下る。ここは700ｍの高度差、以前のようなノンストップでの下りは、今では夢のまた夢、考えられない。休みながらの下り、下り終わって皆一緒になる。此処からの出発は３時半、時間があるので長男坊と母親はもう一度パノラマに挑戦、母親はショートスキーでバランスはとりにくいはずなのに端整なきれいな滑り、今日は二度目、羨ましい限りだ。それに引き換え私は耄碌の滑り、75歳がのしかかる。&lt;br /&gt;　帰りに瀬戸野のラーメン屋に寄り簡単な食事をする。白山へ登った帰りには必ずといっていいほど寄った店だ。今は飲酒運転はご法度だが、その昔はここの名物のキンキンに冷えたビールを一本飲んで、すぐ近くの温泉で汗を流して帰宅したものだが、懐かしい思い出だ。でも飲んだら乗るなの規制になってからも、此処での下山時の飲酒なしでの食事は欠かしていない。でもこの日は運転なし、そのキンキンビールにありつけた。私の定番はここの八宝菜、皆さんは焼飯、中華麺、ギョーザ等々。ただ昨年は２回しか白山に来なかった上、二度とも岐阜県の石徹白へ下る予定でいたので、ここへは一度も寄っておらず、2年ぶりということになる。&lt;br /&gt;　次いで瀬波の奥にある白山里温泉へ、雪が積もっている。ここも白山からの下山時の定番の寄り場所、出来て9年になるという。泉質はナトリウム炭酸水素塩・硫酸塩泉、泉温は41.5℃、効能は神経痛、筋肉痛、五十肩、疲労回復などとか、少々ツルツルした感じの温泉である。湯船はそんなに広くはないが、きれいで気持ちがよい。浴場の大きな窓からは、大笠山が源の瀬波川や取り巻く自然林が見渡せ、この時間帯にはライトアップされていて、降り来る雪の片や木々を幻想的に映し出している。お湯も上々、飽きが来ない良い温泉だ。疲れがすうっーととれるような快適な湯だ。&lt;br /&gt;　こうして孫たちとの初スキー行は無事に終わった。帰宅してお酒を飲みながら、改めて今日１日を振り返った。手元にある記録を見ると、平成16年(2004)には15日間、17年(2005)には13日間、18年(2006)には18日間、19年(2007)には7日間、20年(2008)には12日間スキーに行っている。ところが21年(2009)以降は毎年5日間のみ、しかしこのうちの3日間は志賀高原へのスキーツアーだから、今年は2日となるかも知れない。&lt;br /&gt;　そこでもう一つ、今日出かけた瀬女高原スキー場で、過去に累積滑走高度差で１日に10,000ｍ以上滑ったことのある回数を見ると、2004年には2回、05年には1回、06年には3回、08年には1回あり、最もよく滑ったのは2004年3月4日の14,105ｍ、32本の滑りで、パノラマコースに換算してざっと20本ということになる。因みに今日の滑降回数は8本、累積高度差は3,585ｍだった。往年の4分の1である。衰えが著しいのが一目瞭然と、改めて実感した１日だった。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2657683463431170685-523207743008365717?l=kimuranobuaki.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/feeds/523207743008365717/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2012/01/blog-post.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/523207743008365717'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/523207743008365717'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2012/01/blog-post.html' title='孫との初スキー'/><author><name>木村晋亮（Nobuaki Kimura）</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14545803047520422453</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2657683463431170685.post-3927693161317731440</id><published>2012-01-06T13:07:00.008+09:00</published><updated>2012-01-06T16:32:51.209+09:00</updated><title type='text'>平成24年の正月は格安の温泉旅館で</title><content type='html'>私の父も私も長男なので、何というか所謂「お里」という感覚の場所がない。もっとも母方の里はあるのだが、所は北海道の札幌と旭川の間のやや旭川寄りの奈井江町、まだ母の父親が存命中に三度ばかり寄ったことはあるが、それはお盆とかお正月の時ではない。翻って私の父は長男で家を継いでいたので、叔父や叔母はよく来ていた。ところで私たちには三人の子がいて、皆男の子である。昔なら長子相続が当然というならわしがあったが、この頃はどこの家でも両親がサラリーマンの家庭では、次男三男はもとより、長男であっても両親と同居している例は極めて少なく、核家族化している。&lt;br /&gt;　私の長男はコンピューター関連の仕事に就いているが、就職した時は地元だったが、今では横浜での生活の方が長くなったのではと思ったりしている。次男は銀行マンで、地元での勤務もあるが、富山や大阪、東京での勤務もあり、旅烏稼業である。三男は地元にいて自宅も建て、こちらで腰を落ち着けることにしていた。三家族とも子供は二人ずつの四人家族である。そんなわけで、平生の私たち夫婦の生活は二人のみなこともあって、三家族が集まるお盆とお正月には一挙に大家族と化する。しかし私はともかく、家内はこの時を心待ちにしているし、何よりも孫たちは孫たち同士が集まるのを楽しみにしている。まるで合宿の様相である。&lt;br /&gt;　年暮れから正月にかけては、おせち料理を作って、年越しそばやお雑煮は作るものの、あとはその時々に料理を作ることはしないで、作り置きした料理を食べるのがこれまでのしきたりだった。私の母が元気だった頃は、沢山の種類のおせち料理をほとんど暮れの二日間で作っていた。今こそ便利で出来合いのものがあり、家で料理しなくても可だが、でもわが家では母がしていたように、家内が奮闘して作ってきた。来る人数が人数だけに、全部手前料理で済まそうとするとかなり大変である。ただここ数年は、お正月の飾り料理は付き合いや義理もあって買っていたが、やはりメインは家で作った手作り料理だった。&lt;br /&gt;　ところが今年は異変が起きた。次男から正月の元日に温泉へ皆で行かないかという話が持ち上がった。他の家族もＯＫだし、私も家内も賛成した。次男の思惑では、母の手料理の負担を少しでも軽減したいという気持ちが先立ってのことではなかったか。確かにそうすれば、これは家内にとっては大きな負担軽減につながろうというものだ。行き先は山代温泉の山下家とか、私は一度小中学校同窓生で還暦祝いの時に行ったことがある。家内からは、料金が安いこともあって、サービスはないようだけれど、不平は言わないようにと釘をさされた。それは家内がここを利用した人から、安かろう悪かろうとの情報を得たからだった。ともかく私にとってはこの手の格安温泉旅館は初めての経験である。&lt;br /&gt;　元日の朝、家の神仏、近所の氏神の白山神社、そして加賀一の宮の白山さんへ恒例の初参り、お神酒も頂き、帰宅して皆でお雑煮を祝う。元日は天気は荒れるとの予報だったが、まずまずの日和だ。温泉宿のチェックインは午後3時とかで、皆は2時頃に家を出た。私と家内は1時間遅れで向かった。途中でもう寛いでいるとの連絡が入る。&lt;br /&gt;　宿へ着くと大変な雑踏、温泉旅館でこんな混み様は初の経験だ。車も離れた駐車場へ回すように言われたが、結果としては回送してくれることになった。それにしてもこの時節どの旅館でも客足が遠のいているというのに、本当に仰天した。経営の改革というのは恐ろしいことだ。部屋番号は聞いていたので、順路に従い、身長に応じた浴衣を選んだ後、部屋へ向かう。ところが飛び乗ったエレベーターは目的の12階の部屋には行けず、聞けば別棟のエレベーターに乗らないと行けないとか、宿へ着いてから部屋に入るまで随分うろうろする破目に。&lt;br /&gt;　夕食まで1時間ばかり、バイキング形式だから混みそうだという。そういえば部屋へ来る途中、食堂の前にはもう待っている人たちがいた。急いで1階上の展望風呂へ。でもこの男風呂は脱衣場が狭く、入るときは人数が少なくて問題はなかったが、出るときは混んできて大変だった。部屋へ帰ってもお酒を飲む間もなく、ディナーバイキングに出かける。食堂はレストランの方は案の定満員、仕方なく離れた畳の間へ、そして13人が座れる長机に案内されたが、もう少し遅れていたら座れる場所がなくて、次回に回されるところだった。&lt;br /&gt;　バイキング料理はかなり豊富で、和洋いろいろあり、どれも美味しそうに作られている。思い思いのものをチョイスするが、バイキングの常としてどうしても余計に取ってしまう。別料理でずわい蟹を食べている人がいたが、1,500円でも身が詰まっていてお得だったとか、良心的だと言っていた。遠所の人なのだろう。お酒は別注文なのだが、人手が少ないせいか、届くのに随分と時間がかかった。そして見てると、夕食が終わっても、飲み物を飲んだり、駄弁ったりで、優に1時間は席が空かず、部屋に入れなかった人はその間待っていなければならず、大変だったろう。&lt;br /&gt;　午後8時から落語寄席があるというので見に行く。かなりのお歴々が高座に上ったということを示す顔写真や色紙が飾ってあるが、それは随分昔のことなのでは。この安い料金ではそんな高名な人をお呼びすることは叶うまい。寄席には百人位、半分の入り、前座があって、落語があって、歌もあり、9時までとか。落語が終わって小用に立ち戻ろうとしたら、皆さんお戻りとか、私も部屋へ帰ることに。&lt;br /&gt;　さて、これからが本番、というのはお年玉の交付と皆でのビンゴ、でも子供たちは先ずはお年玉が先だという。子供たちは6人、小学生から高校生まで、4家族と家内の姉からも頂いているから、一体各人いくらになるのか見当もつかないが、個々には皮算用をしているに違いない。ただ毎年のことだが、次男は皆に渡す前に今年の抱負を言わしていたが、皆しっかり答えていたのには感心した。&lt;br /&gt;　そして次はビンゴ、一番小さな次男の小１の長女が司会、今時の子たちはしっかりしている。景品は男衆には白ワイン、女衆には小物、子供衆には仮装用品を用意したとか。長男はゲットした子供たちには仮装の品をつけさせ撮影していた。被りものや着るものはともかく、圧巻は強く揉むと膨らむというボール、膨らむ前は2個でこぶし大だが、着衣の下の胸に装着して強く揉むと次第に膨れて直径10cmばかりのボールになり、大変なボインになるという代物、女の子がチョイスしたものの、さすがこれは着けさせるわけにはゆかず、男の子が実演したが、これにはたまげてしまった。よくぞ考えたものだ。原理はどうなっているんだろう。&lt;br /&gt;　その後飲んだり、トランプをしたり、オセロをしたり、駄弁ったり、夜の更けるのも忘れての楽しい時間、家ではこうは行かない。家内とも初めてオセロをしたが、彼女の2勝1敗、でもこれは先手必勝の気がする。皆が寝た後、今年高校へ入った次男の長男が、別室で勉強をするという。しっかりした心掛けだ。エライ。&lt;br /&gt;　翌朝、再び13階の展望風呂へ、今朝は昨晩とは男女入れ換えになっていて、今朝の方が昨晩のより脱衣場も浴槽もはるかに広く、こちらの方が断トツに快適だ。湯加減も上々、文句のつけようがない。上って朝食バイキングへ、今朝は早かったこともあって、レストランのテーブルでの食事となった。朝粥があるのも嬉しかった。食後寛いで、チェックアウトの11時少し前に宿を出た。料金はと聞いたら、大人一人6,700円とか、あれでペイできるのかと、他人事ならず心配になった。家内では、知人の印象ではよくなかったとか、どうなんだろうか。私たちは部屋も最上階で快適だった。&lt;br /&gt;　通常の日本旅館ならば部屋にはランクがあるはずなのに、利用した加賀の本陣・山代温泉山下家は、大江戸温泉物語グループになった現在では全室同一料金、しかも365日間同じだという。結構だが、信じられない経営形態だ。石川県では、片山津温泉の「ながやま」もそうだという。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2657683463431170685-3927693161317731440?l=kimuranobuaki.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/feeds/3927693161317731440/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2012/01/24.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/3927693161317731440'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/3927693161317731440'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2012/01/24.html' title='平成24年の正月は格安の温泉旅館で'/><author><name>木村晋亮（Nobuaki Kimura）</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14545803047520422453</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2657683463431170685.post-1431072977330184237</id><published>2011-12-28T08:11:00.012+09:00</published><updated>2011-12-28T13:27:24.541+09:00</updated><title type='text'>「シンリョウのジュッカイ」　（６）</title><content type='html'>●　旧野々市小中学校&lt;br /&gt;　私が入学した野々市町立国民学校は、終戦後には野々市小学校になったが、今は私たちが通った古い学校の面影は全くない。というのは、古い小学校・中学校は、町村合併によって、統合した小学校、中学校が新しく建てられて移転したからである。しかも旧校舎の敷地は、新たに開通した県道窪野々市線(193号線)によって東西に分断され、今は西側の敷地跡に建てられた野々市中央公民館の前にひっそりと立つ跡地碑によって、昔ここに野々市小中学校があったことが僅かに偲ばれるのみである。ほぼ正方形だった旧敷地は、東は白山神社、南は町道、西と北は住吉川に囲まれていて、一辺は150ｍ位あったろうか。旧校舎は南向きに建っていて、町道を挟んで右手には旧野々市町役場が、左手には旧公民館があった。校舎の裏にあたる北側には広い運動場があり、町の球技大会や盆踊りは此処で開催されるのが恒例だった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;●　小学生の頃の遊び（１）　樹上での鬼ごっこ&lt;br /&gt;　運動場の東に接してあった白山神社の境内はそんなに広くはないが、沢山の木々が植わっていて、それらが絡み合っていて、木から木へ容易に移ることができ、三抱えはあろうという銀杏のてっぺんまでも上ることができた。この大銀杏のほかに、欅や赤松とか杉や銀杏などが数本ずつ植わっていて、ここで樹上鬼ごっこをした。私は小さかったが木登りは得意で、木を伝いながら、大銀杏の頂までもよく上がった。身が軽かったこともあって、鬼に捕まったことはないし、逆に鬼になったら確実に狙った相手を捕まえることができた。一度鬼に負われて杉の枝を伝って逃げようとしてたら足元の枝が折れ、宙ぶらりんになったことがあった。ここでの遊びの空間の高さは、大銀杏を除けば5-10ｍほどだが、とにかく昼休みの時間などにはよくここへ来て遊んだものだ。もっともこれは男の子の遊びで、女の子が混じったことはない。高学年になってからは、松の横枝を絡ませ、藁縄を張り巡らせ、ターザン紛いの樹上遊びもした。でも先生や父兄から咎められたことは一度もない。もっともこれは好きな連中が集まってすることで、空が利かない子に強要したことはない。事故は一度もなく、唯一私の宙ぶらりんが、らしき出来事だった。&lt;br /&gt;　あるとき一計をめぐらし、高のきく3人を誘って、ＮＨＫ金沢放送局の野々市送信所の送信塔に上ることにした。塔は対になっていて、高さは30ｍ位だったろうか、もっと高かったかも知れない。今は送信塔は棒状だが、以前のは送電線の鉄塔のように鉄骨組みで、足場さえ確保できれば上られるはずで、最上部には船型の部分があった。今では鉄塔に簡単に上れないように、忍び返しなどが付けてあるが、当時はそんなものもなく、上っていけないとの表示もなく、難なく全員登頂に成功した。そして船の部分で横になっていたら、送信所の方に見つかって、お目玉を食った。でも学校への通報もなく、以後しませんで堪忍してもらった。今のご時世なら大変な一騒動になっていたに相違ない。&lt;br /&gt;●　小学生の頃の遊び（２）　パッチ遊び&lt;br /&gt;　パッチというのは、厚紙を直径二寸とか三寸に丸く切り抜かれたもので、通常、表には色々と彩色した絵が、裏には単色の簡単な模様などが描かれているものが多く、自作のはゲームには使用できず、通常市販のものが遊びに使われていた。これは一人でも遊べるが、大概は数人で遊ぶことが多かった。人数分のパッチを表を上にして置いておき、順が回ってきたら、自分のパッチで他の人のパッチに挑戦し、相手のパッチの下へ潜らせたり、相手のを引っ繰り返したりすれば、そのパッチをゲットすることができるというわけである。場所は屋内でも屋外でも、時には凹凸のある所や傾斜のある所、土の上、コンクリート、砂地など、場所を選ばずにやることができる。上手な子は片手では持てない位ゲットしたものだ。&lt;br /&gt;　パッチでのもう一つの遊び方は、「ダム」といわれたゲームで、数人でやるのが常で、例えば一人10枚位ずつ皆等分に出し合い、段差がある上の部分に集まったパッチを横長に固めて置き、それを大きなパッチ、もしくは二寸×三寸位の長方形の厚紙(ダマ)で、積まれているパッチに当てたり、あおったりして段下へ落とすもので、落とした分をゲットできる仕掛けになっている。うまくあおってバラして落とすのがコツだった。&lt;br /&gt;　またよく似た遊びで、名は忘れたが、同じように同数ずつ出したパッチを平たい所にバラ積みにし、同じように大きめのパッチやダマで当てたり、あおったりして、バラして一枚にするとゲットできるという遊びもした。この手の遊びにはコツがあって、とりわけ上手な名人がいた。オップというあだ名の私らの2級上の大将は、この遊びでは敵なしで、恐れられた存在だった。&lt;br /&gt;●　小学生の頃の遊び（３）　かくれんぼ、「ぼいやっこ」&lt;br /&gt;　前者はそんなに広くもない区域で、鬼になった子が他の子を見つける遊びだが、後者はかなり広い区域での遊びで、鬼も2,3人いて、他の子を見つけるだけでなく捕まえなければならないというかなりハードな走り回りもしなければならない遊びである。&lt;br /&gt;●　小学生の頃の遊び（４）　杉鉄砲、紙鉄砲、（付　パチンコ）&lt;br /&gt;　前者は杉の実、後者は丸めた湿った紙の球を竹の筒から打ち出すもので、前者は杉の実が丁度入る位の細い竹を選び、銃身には節のない部分を、打ち出す方は内径にぴったりの竹ひごを用い、これを銃身下部の竹の節のある部分に刺し、これで内圧を高めて杉の実を飛び出させるもので、竹ひごの長さは調節する必要があった。後者は銃身にはもっと太いヤダケなどを用い、丁度内径にぴったりの細身の竹を探して装着するもので、発射のスピードも威力も杉鉄砲より強く、当たると痛いし、当たり場所が悪いと怪我したりした。&lt;br /&gt;　パチンコも作った。これは二又の木のＹ字の先に幅広のゴムバンドを装着し、小石を挟む部分を革などで補強したもので、これは危険な遊具だった。鳥なんかをこれで狙った。&lt;br /&gt;●　小学生の頃の遊び（５）　独楽回し、凧上げ、剣玉&lt;br /&gt;　どこでも行なわれたお馴染みの遊びの数々である。凧は自製が多かった。&lt;br /&gt;●　小学生の頃の遊び（６）　「Ｓけん」「だっちょぶくろ」　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　前者は地面に大きなＳの字を描き、Ｓの字の中にいるときは両足で立っていてもよいが、一旦出口から外へ出ると、片足立ちして、ケンケンしなければならないのが決まりで、相手方と遭遇して揉み合い、先に両足が着いた方が負けになる。大概は5,6人が組になって、二組で戦う。&lt;br /&gt;　後者は、地面に大きな長方形を描き、その角に膨らんだ円を四つ描き、これがダッチョという部分になる。長方形の内側に、人が一人通れる幅の回遊できる通路を設け、その内側が陣地になる。これを等分に半分にして、通路に向け一カ所の出口を設ける。やはり5,6人が一組になり、二組で争う。遭遇して外枠からはみ出されると負けで、残り人数で比較したり、とことん決着つけたりする。　　　　　　　　　　　　　　　　　　●　小学生の頃の遊び（７）　腕相撲など&lt;br /&gt;　教室ではよく腕相撲をした。&lt;br /&gt;　また、握手をした状態で、右足を前に出して互いに向き合い、足の位置はそのままで、腕や身体を前後左右に振ったりして、相手をよろけさせたり、倒したりすると勝ちになる遊びで、駆け引きが面白い。何と言ったか思い出せない。&lt;br /&gt;　また手と手ではなく、両者間の媒体に縄や紐を使うもので、これは二人が相対峙して行なう。これは前者よりもっと駆け引きが必要で、やはり足の位置がずれた方が負けになるもので、面白かった。やはり遊びの名前は分からない。&lt;br /&gt;●　小学生の頃の遊び（８）　「ほっけうま」&lt;br /&gt;　一人が壁を背にして立ち、次の人は前に立った人の股に頭を突っ込んで「うま」になり、順次、次々と5,6人が同様に前の人の股に首を突っ込み、こうして連続した「うま」ができ上がる。そこへもう一組の者が、後ろから跳び箱を飛び越す要領で、相手方の「うま」に飛び乗り跨る。このとき「うま」の人は、故意に身体を動かして乗られないようにしたり、振り落としたりすることもできる。二組同数で、交互に「うま」になったり、飛び乗る側になったりして、最後に多く残って乗っていた組が勝ちとなる。しかし時に一人の「うま」に集中して乗られると、その重みで「うま」がつぶれることもしばしばで、そんなときには危険を伴った。&lt;br /&gt;●　小学生の頃の遊び（９）　陣取り&lt;br /&gt;　決められた範囲の地面に五寸釘を上手に突き刺して、刺せた点と点とを線で結んで陣地を作るもので、先ずは上手に釘を刺すことと、如何に効率的に場所取りをするかで勝負が決まる。これは地面が乾いていて固いと釘が刺さらず、勝負にならない。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2657683463431170685-1431072977330184237?l=kimuranobuaki.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/feeds/1431072977330184237/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/12/blog-post_28.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/1431072977330184237'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/1431072977330184237'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/12/blog-post_28.html' title='「シンリョウのジュッカイ」　（６）'/><author><name>木村晋亮（Nobuaki Kimura）</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14545803047520422453</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2657683463431170685.post-7306062398943007835</id><published>2011-12-22T08:38:00.010+09:00</published><updated>2011-12-27T16:51:22.114+09:00</updated><title type='text'>「シンリョウのジュッカイ」　（５）</title><content type='html'>● 年暮れの餅搗き（１)    戦前&lt;br /&gt;　年暮れになると、どこの家でも、正月に飾る大小の紅白の鏡餅や、雑煮に用いる紅白の延し餅を搗くのが習いだった。だからこの季節になると、近所からはペッタンペッタンという音が伝わってきたものだ。私が生まれたのは昭和12年、だから私の戦前の餅搗きの記憶というと、あの皇紀二千六百年の祝いがあった昭和15年から終戦前年の昭和19年にかけてということになる。もっとも近くには造り菓子屋があって餅菓子も造っていたが、自家消費する餅を商売屋に頼む家はなく、わが家で食べる餅は皆自前で餅搗きしていた。&lt;br /&gt;　戦前の木村家は大地主だったので、祖父や父が餅搗きに加わることはなく、僅かに祖母(当時60歳前後)や母(当時30歳前後)が手伝う程度で、前日に行なう洗米から当日の蒸し、搗き、鏡餅造り、延し餅造りは、近くに住む大口の小作人のうち、いつも決まった顔ぶれの男手二人と女手二人が手伝いに来てくれていた。その皆さん方は当時40歳前後だったのではと思う。しかし手伝いとは言っても、四人の技量はまるで職人並みで、手際の良さには目を見張るものがあった。また搗く糯米の量は半端でなく、多いときは4斗(40升)、重さで言うと16貫、60kg にもなった。お米は精白するとかち減りするが、一晩水に浸けるとふやけて体積は元に戻る。通常は二升一臼なので、単純には20臼ということになる。&lt;br /&gt;　当時は道具蔵と米倉・納屋と母屋に囲まれた空間が、高い吹き抜けの広い土間になっていて、その場所は蔵や倉と同じ高さの瓦屋根で覆われていた。その片隅に直径二尺はあろうという鉄製の大きな竈を置き、それに架ける大きな釜、その上を覆う真ん中に穴の開いた厚い大きな鉄板を置き、その上に厚手のやはり真ん中に穴の開いた布を敷き、その上へ蒸篭を四段に積んで載せた。蒸篭と蒸篭の間にも穴の開いた厚い布が挟まれ、蒸気が漏れないようにしていた。&lt;br /&gt;　水に浸けてある米を笊に上げ、蒸篭に簾を敷き、その上に荒く編んだ目の布を敷き、そこへ上げた米を移す。溢れないようにほぼ一杯にすると、水量りで二升入る。真ん中に拳で窪みを作り、その蒸篭を積み重ねる。大体四段で餅搗きを支障なく回転させることができる。竈には薪を使う。納屋には沢山の割った薪が積まれていて、どんどん焚かれる。火力が衰えないように竈前は大事な仕事である。そして一番上、下から四段目の蒸篭から勢いよく蒸気が出てきたら、一番下段の蒸篭が蒸せた目安になるので、その最初の蒸篭を取り出し、お湯で温められた欅の大きな臼に、蒸篭の中の蒸し米を移す。よく蒸せていると布からの蒸し米の離れはよいが、そうでないと布に蒸し米がくっついて往生する。この最初の取り出し時に、蒸篭と鉄板を外し、釜にお湯を補充する。釜の空焚きは厳禁である。その後前と同じ順で蒸篭を積み重ねる。新しい蒸篭が最上段になるようにする。&lt;br /&gt;　餅搗きは最初の捏ねが大事で、この段階でほぼ餅の塊になる。この後搗きと返しを交互に繰り返す。このときは搗く人と返す人との呼吸が合っていなければならず、間合いが大事である。また返す人は、適宜餅に水を補給し、餅を返し、突いて凹みを付け、万遍なく均一な餅となるようにする。でも慣れた人は、阿吽の呼吸で、凡そ80回近く搗くと餅が搗き上がり、その後20回位軽く搗いて仕上げる。出来上がった餅は、大きさに応じて、そのまま、半分、適宜の大きさに臼の中で手で切り分け、盤台に米粉を篩った処に餅を置き、周囲から餅を摘まみ上げ、包むように結んで球にし、引っ繰り返して回転させながら風を送って冷やす。そうしないとだれて平べったい鏡餅になる。ずっと後には枠に入れてだれないようにしたものだが、当時はなく、またその必要もなかった。この出来が餅の形を左右する。さすが当時来てくれていた人達は皆ベテランだった。終戦後、全くの自前でやるようになったが、この時の経験が糧になった。鏡餅は下が白、上が赤、赤は若干小さく造った。延し餅は米粉を篩って、張り板に直接長方形になるように斗棒で延した。&lt;br /&gt;　餅搗きの合間に、餅に餡や黄粉を付けて食べたり、餡を餅でくるんで大福餅にしたり、また水餅にして大根下ろしで和えて食べたりした。2日後位になると延し餅は堅くなるので、両方に握りの付いた包丁で二寸角の大きさに切り分けた。こうして正月準備が整う。餅搗きにおいでてた女の方達は、正月料理の手伝いにもおいでてた。餅は向かいにあった分家にも届けていたようだった。&lt;br /&gt;　こんな餅搗きは、寒に入っては「かき餅」造りになった。10臼ばかり、中にはいろんなものが入った。色では、そのままの白、色粉の入った赤や黄、ほかには黒豆、切り昆布、胡麻などの入った餅が搗かれた。餅は細長い箱に入れられ、固まったら莚の上に置き、2日後位に一分程の厚さに切り、藁で十枚ほどずつ編み上げ、蔵の前に三段に簾状に吊るしたが、実に壮観だった。乾いてくると割れて落ちてくることがあるので、それを拾って食べるのも楽しみの一つだった。餅搗きは春秋のお祭りや御十夜(報恩講)にもされた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;● 年暮れの餅搗き（２） 　戦後&lt;br /&gt;　終戦後、農地改革が進み、木村家は漸く一町歩の田を確保できた。ところが父は師団の戦後処理のうち、旧野村錬兵場の広い土地を元の持ち主に返還する事業の責任者として現地駐在ということになり、私達一家は金沢市十一屋町へ移った。ここには終戦翌々年の3月まで居た。この間、暮れの餅搗きはどうしていたのか、全く分からない。前に来てくれてた方々が義理立てして手伝いに来てくれていたかも知れないし、そうでなかったかも知れない。ただ三番目の叔父が除隊して帰ってきていたから、叔父が中心になってやっていたかも知れない。でも父が野々市に帰ってからは、自前でしか餅搗きはしていない。&lt;br /&gt;　道具はそのまま残っていたので、同じように餅搗きをすることが出来た。幸い祖母も母も元気でしかも器用だったので、心配するようなことはなかった。ただ三番目の叔父が養子に出てからは、餅搗きは父一人で請け負った。私は小学校でも中学校でも背が低く、順ではずっと前から5番目で、とても大きな杵を持つなど思いもよらなかった。その頃は竈前と団扇扇ぎが関の山だった。背が伸び出したのは高校へ入ってからで、三年生になってやっと杵が持てるようになった。でも父はまだ50代後半、まだ主役だった。百姓になってからは、農家が皆そうしていたように、田圃一枚は糯米作りに当てていた。この頃はとても以前のように４斗は搗いていないが、でも２斗は搗いていた。そして四番叔父が所帯を持ってからは、そこへ正月のお餅を届けに行った。一番大変だったのは三八豪雪のときだった。前年の暮れ、吹雪と降雪で電車は動かず、リュックにお餅を詰めて、徒歩で横安江町近くの叔父の家までお餅を届けた。その折、やはり降雪と着雪で北陸線の架線が切れ、帰省客を乗せた列車が途中で動かなくなり、乗客は雪道の国道8号線を歩いて帰る破目に。長靴を履いている人はほとんどなく、中には靴下だけで歩いている人も見受けられた。大変な光景だった。&lt;br /&gt;　こうした餅搗きは、私が昭和40年に結婚した後も続けられ、石川県職員を退職する平成8年まで続いた。もっともその頃には田圃は全面委託していたし、餅搗きといっても１斗ほど、自家用のみとなっていた。そしてその後、米倉も納屋も旧宅も壊して新宅にしてからというもの、餅搗きをすることは全くなくなり、必要な分は菓子屋にお願いするというふうになった。もうあれから15年にもなる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;● 餅搗き外聞&lt;br /&gt;（１）大釜の空焚き：私の後輩である金沢大学山岳部員が、冬山合宿に餅を持って行きたいが、市販の餅ではなく、自分たちで搗いた餅を持って行きたいという。誰に相談したのか、その話が私のところに回ってきた。糯米の量は５kgとのことなので２臼程度、いつも使っている大釜を用意した。餅搗きも無事終わり、餅はすべて丸餅にした。でもうっかり油断してしまって、大釜が空焚きになってしまい、ひびが入って大釜はお釈迦になってしまった。このトラブルで翌年からは新しく大きめの釜を使用することにし、それに合う竈を新設しなければならないことになった。昭和40年頃のことである。&lt;br /&gt;（２）中村先生ご家族の餅搗き体験：金沢大学医学部微生物学教室の同門会でお会いした中村先生(現金大学長)から、子供たちに一度餅搗きを体験させてやりたいのでお願いできないかと相談を受けた。餅搗きの当日には奥さんもおいでて、２臼ばかり搗いた。先生も杵を持たれて搗いたし、奥さんや子供さんも餅を丸められたり、搗きたてを食べられたり、ご満悦のご様子で感謝された。昭和60年頃のことだったろうか。&lt;br /&gt;（３）予防医学協会へ出張餅搗き：日本寄生虫予防会が主催した寄生虫病診断講習会には発展途上国数カ国から十数人の医師や検査技師が参加し、その一行が私が勤務する石川県予防医学協会にも寄られることになった。そのアトラクションに餅搗きをしようということになり、私に相談があった。臼と杵を提供し、屋根のある大きな駐車場で餅搗きをした。まあお祭りなので、搗く人も入れ代わり立ち代りで、外人の方は特に盛り上がっていた。平成10年頃だったろうか。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2657683463431170685-7306062398943007835?l=kimuranobuaki.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/feeds/7306062398943007835/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/12/blog-post_22.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/7306062398943007835'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/7306062398943007835'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/12/blog-post_22.html' title='「シンリョウのジュッカイ」　（５）'/><author><name>木村晋亮（Nobuaki Kimura）</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14545803047520422453</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2657683463431170685.post-1802339931403953601</id><published>2011-12-12T13:38:00.005+09:00</published><updated>2011-12-21T16:45:07.196+09:00</updated><title type='text'>名無草と金沢大学校歌</title><content type='html'>こう二つを並べて挙げると、何だろうと訝られそうだ。この二つに共通しているのは、両方とも歌であるということである。後者は校歌とあるから歌であることに間違いはない。でも前者の方は、先ず関係者の間でしか歌われていないから、先ず無関係の方には無縁の歌といえる。もう一つの共通点は、作詞が郷土の詩人室生犀星(1889－1962)によっているということである。ところで「名無草」とは何かというと、旧金沢薬専(金沢医科大学付属薬学専門部)の学生歌に類する歌といえばよいだろうか。&lt;br /&gt;　この名無草が作られたのは昭和4年(1929)で、現存する楽譜の原本には趣意書が付けられていて、その経緯を知ることができる。昭和3年(1927)、金沢薬専が広坂通りの第四高等学校(四高)の校舎から、小立野の金沢医科大学の敷地に移転したのを機会に、学園の面目を一新せんとし、当時の二年生らがそれに相応しい歌をという発案をし、彼等が卒業する翌年にそれを具体化すべく、一,二年生と相はかり、郷土の詩人室生犀星の門をたたき、ここに「名無草」なる一草を得たという。そして弘田龍太郎(1892ー1952)が曲を付け、この歌が完成した。こうして学生の熱意で作られたこの歌は、薬専生のみならず新制大学の薬学生にも受け継がれ愛唱されてきた。私も薬学部の学生になってこの歌の洗礼を受けた。同窓会でもコンパでも、薬学生の集いには、必ず自然発生的に歌いだ出される歌である。以下に歌詞を記す。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　　　　　　　　名　無　草&lt;br /&gt;　　　　　　　　　　　　　　　　室生犀星　作詞&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　　　深雪(みゆき)のしたの　名無草(ななしぐさ)&lt;br /&gt;　　　けふは匂はむ　はるは来ぬ&lt;br /&gt;　　　くろがねいろの　とびらさえ&lt;br /&gt;　　　打ちくだかれむ　汝(なれ)が日に&lt;br /&gt;　　　汝(なれ)が日に　はるのとびらよひらかれむ&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　さて、金沢大学校歌であるが、依頼されて出来上がった室生犀星の詞に、信時潔(1887－1965)が曲を付けて出来上がった。出来たのは恐らく新制大学ができた昭和24年(1949)前後じゃなかろうか。私が金沢大学へ入学したのは昭和30年(1955)であるが、入学の時にこの校歌を聴いたかどうかは定かではない。しかしこの歌を私が諳んじているということは、どこかで最初に接したはずなのだが、その覚えが全くない。かといって、何か大学の行事で歌ったという記憶もない。ところで今はどうなのだろうか。折角こんなに素晴らしい歌があるのに、学生がもっと誇りをもって歌えるように、大学は努力すべきじゃなかろうか。在学生、卒業生の皆さん、ぜひこの格調の高い校歌を歌いませんか。以下に歌詞を記す。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　　　　　　　　金沢大学校歌&lt;br /&gt;　　　　　　　　　　　　　　　　室生犀星　作詞&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　　　天(あま)うつなみ　けぶらひ&lt;br /&gt;　　　天(あま)そそる　白ねの&lt;br /&gt;　　　北方(ほくほう)のみやこに学府のありて&lt;br /&gt;　　　燦然(さん)たる燈(ともしび)をかかげたり。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　　　人は人をつくるため&lt;br /&gt;　　　のろしをあげ&lt;br /&gt;　　　慧智(えいち)の時間(とき)を磨く&lt;br /&gt;　　　光栄(はえ)ある人間(ひと)をつくらむと&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　　　新風文化の扉(と)は　開かれ&lt;br /&gt;　　　あたらしの人　世代にあふれ&lt;br /&gt;　　　手はつながれ　才能(さい)は結ばれ&lt;br /&gt;　　　こぞりてわが学府につどへり。&lt;br /&gt;　　　こぞりてわが学府につどへり。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2657683463431170685-1802339931403953601?l=kimuranobuaki.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/feeds/1802339931403953601/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/12/blog-post_12.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/1802339931403953601'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/1802339931403953601'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/12/blog-post_12.html' title='名無草と金沢大学校歌'/><author><name>木村晋亮（Nobuaki Kimura）</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14545803047520422453</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2657683463431170685.post-6464559372475745670</id><published>2011-12-08T08:11:00.005+09:00</published><updated>2011-12-08T12:00:21.147+09:00</updated><title type='text'>「シンリョウのジュッカイ」　（４）</title><content type='html'>●　学生時代に愛唱した歌&lt;br /&gt;　私が入った大学は地元の金沢大学である。大学へ入ってしまえばこちらのものという風潮があり、まだ未成年なのによく友達と酒を飲んだ。その頃は未成年だから酒を飲んではならぬと誰も言わず、飲めば歌を歌った。私はどちらかというと硬い方だったので、歌うのは旧制高校の寮歌が主だった。これを覚えたのは新制高校の時で、何故か類をもって集まったという連中と、酒を飲んでは寮歌をガナった。金沢には旧制の第四高等学校があったが、やはりそれに対する一種の憧れがあったからだろう。よく歌ったのは四高の寮歌や応援歌、追悼歌が主だが、一高、三高、五高、北大予科の寮歌などもよく歌った。大学へ入ってもこの傾向は変わらず、当時学内で台頭していた歌声運動には一顧だにしなかった。入学後、私は山岳部(当時は「山の会」といった）に入ったが、ここでは山の歌も一緒に歌ったが、私は寮歌にこだわりを持っていたから、それも披瀝した。また高校の同期で金大に入った連中の集まりでは、寮歌で蛮声をあげたものだ。&lt;br /&gt;　寮歌がメインだったが、そのうちデカンショ節が入ってきた。もっともこの歌、学生の間ではかなり敷衍していて歌われていたらしいが、それが次第に我々の持ち歌になった。元歌はもとより替え歌も面白く、出来るだけ蒐集した。今私の手元に当時のメモがあり、それを披瀝してみたいと思う。もっとも歌ったことがある方はご存知だろうし、即興もありだろうが、でもとにかく私たちが高吟した唄の文句を紹介することにする。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「デカンショ節」&lt;br /&gt;[元　唄]&lt;br /&gt;・デカンショデカンショで半年ァ暮らす（アヨイヨイ）&lt;br /&gt;　後の半年ァ寝て暮らす（ヨーオイ　ヨーオイ　デッカンショ）&lt;br /&gt;・丹波篠山 山家(やまが)の猿が　　花のお江戸で 芝居する&lt;br /&gt;・酒は飲め飲め 茶釜で湧かせ　　お神酒(みき)上らぬ 神はない&lt;br /&gt;・丹波篠山 山奥なれど　　霧の降る時ァ 海の底&lt;br /&gt;・丹波篠山 鳳鳴(ほうめい)の熟で　　文武鍛えし 美少年&lt;br /&gt;・私ァ丹波の搗栗(かちぐり)育ち　　中に甘味も渋もある&lt;br /&gt;・明日は雪降り 積もらぬ先に　　連れてお立ちよ 薄雪(うすゆき)に&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　掛け声の「デカンショ」については諸説があり、私たちがよく聞かされ知っているのは、デカルト(フランスの哲学者)、カント(ドイツの哲学者)、ショーペンハウエル(ドイツの哲学者)の略であるという説である。この根拠は、藩校の鳳鳴義塾での優秀な者は東京へ遊学したが、夏には千葉の八幡の浜で合宿し、その折に歌っていたのを一高生が聞き、共鳴して愛唱するようになり、学生歌として広まったというものである。折しも丹波篠山では、学生歌として高唱されていたデカンショ節が逆輸入されることになる。もっとも由来については、「デコンショ」という盆踊り唄からきたとか、「ドッコイショ」の転訛だとか、篠山方言の「デゴザンショ」や、或いは丹波杜氏の「出稼ぎしょ」の意味をもつとかの説もある。また旧味間村に古くから歌われている農婦の哀歌(糸紡ぎ唄)の「テコンショ」を鳳鳴義塾の学生が聞き、歌い出したとの説もある。でも、いずれにしても定説はない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;[替え歌]　順不同&lt;br /&gt;・論語孟子を読んではみたが　　酒を飲むなと書いてない&lt;br /&gt;・酒を飲むなと書いてはないが　　酒を飲めとも書いてない&lt;br /&gt;・勉強する奴ァ頭が悪い　　勉強せぬ奴ァ尚悪い&lt;br /&gt;・昔ァ神童と言われたけれど　　今じゃドイツ語で目を廻す&lt;br /&gt;・ほんにドイツ語は夫婦の喧嘩　　デルのダスのと喧しい&lt;br /&gt;・飯は食いたし朝寝はしたし　　飯と朝寝の板挟み&lt;br /&gt;・仮病使って電報打てば　　金の代わりに親父来る&lt;br /&gt;・説教聞く時ァ頭が下がる　　説教頭の上かする&lt;br /&gt;・どうせやるならデカイことなされ　　奈良の大仏 屁で飛ばせ&lt;br /&gt;・どうせやるなら小チャイことなされ　　蚤のキンタマ串で刺せ&lt;br /&gt;・デカンショ踊ればポリ公が怒る　　怒るポリ公の子が踊る&lt;br /&gt;・デカンショデカンショで死ぬまで踊れ　　俺が死んだら息子踊る&lt;br /&gt;・デカンショデカンショで死ぬまで踊れ　　息子死んだら孫踊る&lt;br /&gt;・理科の奴等の頭を叩きァ　　サインコサインの音がする&lt;br /&gt;・理科の奴等の夜見る夢は　　四角三角円(まる)五角&lt;br /&gt;・理科よ理科よと威張るな理科よ　　末は土方か藪医者か&lt;br /&gt;・文科文科と威張るな文科　　末は心中か駆け落ちか&lt;br /&gt;・文科の奴等の頭を叩きァ　　文明開化の音がする&lt;br /&gt;・教師教師と威張るな教師　　教師生徒の成れの果て&lt;br /&gt;・生徒生徒と威張るな生徒　　生徒教師の一滴(ひとしずく）&lt;br /&gt;・親爺親爺と威張るな親爺　　親爺息子のひねたもの&lt;br /&gt;・息子息子と威張るな息子　　息子親爺の一滴&lt;br /&gt;・息子頭にコウコを載せて　　親父これみよ親孝行&lt;br /&gt;・息子頭にコウコを載せて　　これがホントの親孝行&lt;br /&gt;・俺が死んだら三途の川で　　鬼を集めてデカンショ踊る&lt;br /&gt;・ホンに美味いもんだよ親爺のスネは　　齧(かじ)りゃ齧るほど味が出る&lt;br /&gt;・親爺のスネを分析すれば　　シネマ　メッチェン　トリンケン&lt;br /&gt;・ホームシックと馬鹿にするな　　之(これ)が拡がりゃ愛国心&lt;br /&gt;・大井川なら俺でも越すが　　越すに越されぬ学期末&lt;br /&gt;・地球抱えて太陽呑んで　　星の世界で俺は寝る&lt;br /&gt;・出来ることなら一年中を　　夜と日曜にしてみたい&lt;br /&gt;・俺のリーベは世界に二人　　クレオパトラと楊貴姫&lt;br /&gt;・頭禿げでも浮気は止めぬ　　止めぬ筈だよ先がない&lt;br /&gt;・電車の窓から小便(ションベン)すれば　　これが本当(ホント)の電車チン&lt;br /&gt;・橋の上から小便すれば　　下じゃドジョウの滝のぼり&lt;br /&gt;・橋の上から大便すれば　　下じゃドジョウの玉子とじ&lt;br /&gt;・富士の山から小便すれば　　流れながれて太平洋&lt;br /&gt;・万里の長城から小便すれば　　ゴビの砂漠に虹がたつ&lt;br /&gt;・エッフェル塔から小便すれば　　パリの空には虹がたつ&lt;br /&gt;・朝の目覚まし一度は止めて　　腹の時計で跳ね起きる&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　さまざまな歌詞が創作されて伝わっているが、要は都々逸と同じく、七・七・七・五の語呂にさえなれば、ＯＫということになる。私が大学を卒業してから既に半世紀が過ぎた。今は時代も変わり、もう旧制高校の寮歌やデカンショ節を歌う学生はいまい。もっとも私だって歌う機会は滅多にない。そこでメモとして記載した。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2657683463431170685-6464559372475745670?l=kimuranobuaki.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/feeds/6464559372475745670/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/12/blog-post_08.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/6464559372475745670'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/6464559372475745670'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/12/blog-post_08.html' title='「シンリョウのジュッカイ」　（４）'/><author><name>木村晋亮（Nobuaki Kimura）</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14545803047520422453</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2657683463431170685.post-6663741827161872929</id><published>2011-12-06T13:32:00.004+09:00</published><updated>2011-12-06T15:16:11.267+09:00</updated><title type='text'>「シンリョウのジュッカイ」　（３）</title><content type='html'>●「坂の上の雲」を見て頭に去来した唄など&lt;br /&gt;　ＮＨＫのテレビドラマ「坂の上の雲」の第三部が始まった。これまでと同じように師走の日曜日の午後７時半から９時まで、ドラマは４回にわたって放送される。第一部と第二部の総集編も11月最後の土曜日と12月最初の土曜日に放映された。予告でも知らされていたが、第三部は日露戦争のハイライトである旅順攻略と日本海海戦がメインになるのだろう。すると主役は乃木希典と東郷平八郎、それに秋山好古と秋山真之ということになろうか。12月4日の日曜日はその第1回、この日の夕方には木村家の御十夜(浄土真宗でいう内報恩講)があり、次男と三男の家族が揃ったので、久しぶりの会食、飲みながら食べながら1時間半のドラマを見た。丁度この日は亡くなった三男の誕生日でもあった。この日のクライマックスは旅順要塞の奪取に非常に大きな犠牲を払った場面、真っ当な正面からの攻撃が全く通じないという悲壮感がリアル感をもって映し出されていた。だが同じ手法での作戦の繰り返しで、6万人もの死傷者を出したことに対し、司馬遼太郎は「名将」乃木を「愚将」として扱っている。でもそれはともかく、何よりもドラマに出てきた人たちや地名にすごく懐かしさを覚えた。人では、大山巌　満州軍総司令官、児玉源太郎　満州軍総参謀長、乃木希典　第三軍司令官、アレクセイ・クロパトキン　ロシア軍総司令官、土地では、旅順、二〇三高地、遼陽などである。&lt;br /&gt;　クロパトキンと乃木の名を聞いて思い出したのが、次の尻取り唄である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「ジャーマノシゴトハナンジャッタ　タカシャッポ　ポンヤーリ　リクグンノ　ノギサンガ　ガイセンス　スズメ　メジロ　ロシヤ　ヤバンコク　クロパトキン　キンノタマ　マケテニゲルハチャンチャンボウ　ボウデタタクハインコロシ　シンデモカマワンニッポンヘイ　ヘイタイナランデトットコト　トヤマノサンジュウゴーレンタイ　タイホウイッパツドン　ドンガナッタラヒルメシジャ」。　これを繰り返すのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　これを区切りを入れないで唄う唄い方もある。この唄、こちらの方言も入っているし、富山の第35連隊も出てくるから、金沢辺りが起原の尻取り唄なのではなかろうか。当時は皆誰でも唄えるほど敷衍していた。&lt;br /&gt;　もう一つことのほか懐かしく思ったのは「遼陽」の地名である。この地名が出てきたのは児玉満州軍総参謀長が遼陽から第三軍の司令部へ寄った場面だった。乃木第三軍司令官が旅順要塞を攻めあぐね、徒に死傷者が続出しているのを見かねての出馬、作戦変更により4日間で二〇三高地を奪取し、ロシア軍は降伏した。私が諳んじていた懐かしい歌は「橘中佐」という歌で、旅順攻略の前年の遼陽会戦でのことで、テレビドラマにその場面があったかどうかは定かではない。ドラマを見ていたとき、遼陽という地名を聞くや、突如としてこの歌が、頭の中で繰り返し繰り返し鳴り響いた。そして口ずさんだのが次の歌詞の歌である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　一、　遼陽城頭(じょうとう)夜はたけて　　有明月(ありあけつき)の影すごく&lt;br /&gt;　　　　霧立ちこむる高梁(こうりょう)の　　中なる塹壕(ざんごう)声絶えて&lt;br /&gt;　　　　目ざめちがちなる敵兵の　　胆(きも)驚かす秋の風&lt;br /&gt;　二、　我が精鋭の三軍を　　邀撃(ようげき)せんと健気(けなげ)にも&lt;br /&gt;　　　　思い定めて敵将が　　集めし兵は二十万&lt;br /&gt;　　　　防禦(ぼうぎょ)至らぬ隈(くま)もなく　　決戦すとぞ聞こえたる&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　この闘いで橘少佐は戦死するが、その勇猛果敢ぶりが全軍を鼓舞し、この戦いを勝利に導いたとされている。陸軍では橘中佐、海軍では広瀬中佐が軍神として崇められた。この歌は全部で19節あり、橘大隊長が戦死するまでを物語風に綴っている。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2657683463431170685-6663741827161872929?l=kimuranobuaki.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/feeds/6663741827161872929/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/12/blog-post_06.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/6663741827161872929'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/6663741827161872929'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/12/blog-post_06.html' title='「シンリョウのジュッカイ」　（３）'/><author><name>木村晋亮（Nobuaki Kimura）</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14545803047520422453</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2657683463431170685.post-564744646192168220</id><published>2011-12-02T13:11:00.005+09:00</published><updated>2011-12-02T15:34:26.159+09:00</updated><title type='text'>「シンリョウノジュッカイ」 （２）</title><content type='html'>● 母のこと(１）　奈井江から野々市へ嫁に&lt;br /&gt;　私の母好子は明治45年に北海道空知郡奈井江で、父細野生二・母しずの四女としてこの世に生を受けた。上に姉が三人、下に弟が一人と妹が四人、長女と八女とは歳に大きな隔たりがあり、一番末の妹は私の母がよく面倒を見たものだから、大きくなってからも、私の母が実の母だと思っていたと述懐していたのを聞いたことがある。当時細野生二は奈井江原野に開拓された広大な高島農場の管理人をしていた。生二は金沢の生まれで、若くして易に興味を持ち、横浜の高島嘉右衛門の内弟子になっていた。兄弟子は高島易断を継いだ高島呑象である。生二は嘉右衛門が奈井江に高島農場を開いた折に、そこの管理人として出向いた。私も小さい時に二、三度母と母の実家に寄ったことがあるが、町から遠くに見える山の際までが農場だと聞かされ、驚いたものだ。屋敷も広く、門から家まで百米もあったろうか、家は平屋だったが広くて、優に小作人が全員入れる広さがあった。&lt;br /&gt;　さて、私の父仁吉は大学を卒業した後、第九師団に主計少尉として任官していた。結婚適齢期になり、隣村の地主の長女を嫁に貰った。ところが気立ては好かったが身体が弱く、しかも肺病らしいということもあって、また相手の石高が小さかったこともあって、離縁となった。父は好いていたと私に話したことがあるが、病には勝てなかったようだ。そのうちどういう風の吹き回しか、仁吉の母の玉は、北海道にいる兄の生二には女の子が沢山いるから、そのうちの一人を嫁に貰ったらということになり、父と祖母は一度奈井江へ出かけたようだ。生二は生まれ故郷に娘を嫁にやるのも悪くはないと、話を進めることにしたという。ところが、厳しそうな姑とお坊ちゃん然とした婿さんに皆が尻込みし、しかも北海道を離れたくないと突っ張ったという。困った生二は、妹の世話をよくみた四女の好子に懇願することになる。母が話していたが、姉妹の中では一番色も黒く、他の姉や妹では、野々市ではとてもやって行けないと思ったようで、それで白羽の矢が私に来たのだろうと話していた。そして母はしぶしぶ承諾してしまうことに。その頃の木村家は素封家、輿入れの用意は全て野々市でするから、身体一つで来て貰えばよいとのこと、生二は妹玉のこの言葉を信じた。　&lt;br /&gt;　昭和11年(1936)春、好子は父生二と二人きりで野々市に来た。途中鎌倉にいた兄の申三(号燕台)のところへ寄っている。母は初めてで終いの二人旅だったと話していた。母が北海道から持ってきたのは柳行李一つのみだったこと、結婚は父が二度目だったこと、北海道は敷居が高くないと値踏みされたこともあって、家での結婚式は簡素だった。仲人もおらず、もちろん結納もなく、身内の従兄妹添いとあって、母の方はオンブにダッコの筈だったが、これがまた苦労の初めとなる。&lt;br /&gt;● 母のこと（２）　私の出生と父の出征、&lt;br /&gt;　私の父は長男で、妹が一人と弟が三人いた。妹は既に小立野の片岡家へ嫁いでいたが、片岡の姑も中々の人で、まあ苦労はされたらしい。しかしその反動もあって、野々市へ帰って来ると、お里ということもあって、存分に小姑ぶりを発揮したようだが、姑の玉は知らん振り、母に言わせると、父が居ないともう姐や扱いだったという。お金は一切持たせてもらえず、葉書を出すにも一々頭を下げて頼んだとか。父も内緒で少しは融通したのだろうけど、バレたら怖かったという。甘いものが食べたかったと話していた。母は妊娠して私を身籠ったが、朝から晩まで働きづめ、私が生まれる数日前までそうだったという。&lt;br /&gt;　丁度時を同じくして小姑の片岡繁も妊娠し、しょっちゅう実家へ来ていたという。そして小姑は産婆でなく、金沢一の内田病院に通っていた。臨月になり、小姑は内田病院に入院した。その頃病院で出産するなど、余程の素封家か産婆の手に負えないようでないと利用しないものなのだが。そして出産、時に昭和12年(1937)2月10日のことである。逆子で女の子だった。そしてその翌日の2月11日の朝、母も産気づき、近所の産婆さんに来てもらい取り上げてもらった。この日は紀元節で、しかも旧正月の元旦、そして男の子の誕生とあって、父も祖父も大喜びで祝盃を挙げていたというが、姑は実に機嫌が悪かったという。祖父は私に吾助という名前を付けたかったらしいが、さすがに母もこれだけは願い下げてもらったという。&lt;br /&gt;　しかしこの年の7月7日、盧溝橋事件を発端として支那事変が勃発、父は出征することになる。そして母は孤立無援に、私が唯一の心の砦だったという。母は寝る前には必ず私の成長を日記につけ、一週間分をまとめて戦地の父に手紙として送っていたという。この手紙は父の生前に私に託され、今私の手元にある。まだ一度も開いたことはないが、いつかは開かねばならないだろう。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2657683463431170685-564744646192168220?l=kimuranobuaki.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/feeds/564744646192168220/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/12/blog-post.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/564744646192168220'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/564744646192168220'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/12/blog-post.html' title='「シンリョウノジュッカイ」 （２）'/><author><name>木村晋亮（Nobuaki Kimura）</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14545803047520422453</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2657683463431170685.post-5404076399035301490</id><published>2011-11-30T13:40:00.011+09:00</published><updated>2011-12-01T10:33:45.771+09:00</updated><title type='text'>「シンリョウのジュッカイ」（１）</title><content type='html'>永坂鉃夫先生の随筆集の「ドンキホーテシリーズ」の第四集である「ドンキホーテの述懐」を読んで、その読後感を書く予定にしていて、それには以前上梓された折に書いた感想文を参考にして「晋亮の呟き」に乗せようと思っていた。ところが以前書いたものを読んでみると、とても読後感とは言えず、挫折してしまった。ただその時、先生が回想なさっている部分を私に置き換えて書き残してはとフッと思いついた。ですから少し書き進んだところで、もう一度改めて読後感に取り掛かりたいと思っている。とは言っても、書く文章のレベルにはかなりの格差があり、人様に読んで頂く代物ではなく、私のメモのつもりでいる。でもそのタイトルは先生にあやかって「シンリョウのジュッカイ」とした。そしてそのテーマ選びやスタイルは、厚かましくも先生の「ドンキホーテの述懐」の項目にヒントを得たいと思っています。勝手な思い上がりですがお許し下さい。&lt;br /&gt;　ところで、私の述懐といっても、そのテーマは思い付きで、先生のように整然とはゆかず、全くアットランダムになりそうです。　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;● 木村家は野々市では旧家ではない&lt;br /&gt;　私、木村晋亮は初代から数えて五代目、元祖は五右衛門という。江戸時代には姓はなく、屋号は木屋で、読みはキイヤゴヨムサ、略して木五と言った。五右衛門の名からも判るようにうちは分家で、本家の五左衛門の方は吉田の姓を名乗っていて、どうも前田の殿様に伴って加賀へ来たらしい。吉田の墓が野々市にあることから、野々市に住んでいたらしく、町には吉田の姓がかなりあり、みな親戚まついである。ところで五右衛門は39歳で他界している。亡くなったのは安政5年(1858)10月2日、これは過去帳に記されている。とすると生まれたのは文政2年(1819)である。また五右衛門の妻は文政9年(1826)の生まれ、明治44年12月22日に亡くなった。享年85だった。丁度100年前にあたる。&lt;br /&gt;　木村の姓は屋号から来ていると思われるが、戦前四百戸といわれた野々市町で、木村という家は二軒あり、もう一軒は分家である。初代の墓は今の木村の墓地にあることから、亡くなった時は野々市に住んでいたようだ。野々市はその昔弘法大師様に水をお上げしたので、松任や三馬(旧野々市新といい、野々市の出村だったが、一町一村の制度で、野々市村が野々市町になった時に切り離され、三馬村の字になった）と違い水は豊富で、手取川の伏流水が地表数メートル下に流れていて、一軒ごとに井戸があったものだ。でも昨今は水位が下がってしまった。現在敷地は五百坪あるが、敷地内に井戸が三本あったことから、三軒分の屋敷を三代の仁太郎(祖父)の時に取得したと思われる。&lt;br /&gt;　仁太郎は田圃に使う消石灰を扱う肥料商をやっていて、菰包みの石灰を金石港から川舟で伏見川を遡って道番(現在の伏見橋辺り)まで運んで陸揚げし、後は荷車で遠くは鶴来まで運んだという。これで財をなしたが、農協組織ができると、この商売は成り立たなくなった。しかしこの財で近隣の土地を買い上げ、石川県では初めてと言われる区画整理をして、整然とした一区画250坪の田に整備した。また当時の火消しは手押しポンプであったが、祖父は石川県で第1号の消防車を野々市町に寄贈したという。また祖父は多額納税者で貴族院議員の選挙権があったと聞いた。&lt;br /&gt;　しかし終戦を境にして状況は一変する。農地改革が断行され、富奥村粟田・藤平田、野々市町にあった四百町歩、分家の二百町歩の田圃は小作人にただ同然でで払い下げられ、第九師団の主計大尉で在郷軍人会長だった父仁吉はレッドパージで公職につけず、一町歩百姓になった。金庫にごっそりあった戦時国債も紙屑に、母は百姓の傍ら、学生を下宿させ、昼は織物工場の検反に精を出した。でもこれが定年後厚生年金の受給で潤うことになる。一方父の方は、軍人恩給の受給資格年限が3ヶ月足りないばかりに支給されず、母は父が支那事変に出征し、除州作戦で迫撃砲の破片で大怪我をしたのに(「麦と兵隊」のモデル)傷痍軍人になることを潔しとせず辞退し、結局全く恩給は何も貰えず仕舞いなので、ずいぶんボヤいていた。百姓は終戦百姓で全くの素人、町に親戚はなく、マッカーサー様様の旧小作人からは意地悪され、ずいぶん苦労した。またその頃の肥料は糞尿、近くに貰える家はなく、浅野川の天神橋を渡った御徒町まで貰いに行った。私もよく手伝った。当時弟は小さくて虚弱、妹も小さくてしかも鼠けいヘルニア、それで田圃の手伝いはもっぱら私に回ってきた。今から思うと本当に隔世の感がある。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2657683463431170685-5404076399035301490?l=kimuranobuaki.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/feeds/5404076399035301490/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/11/blog-post_1026.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/5404076399035301490'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/5404076399035301490'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/11/blog-post_1026.html' title='「シンリョウのジュッカイ」（１）'/><author><name>木村晋亮（Nobuaki Kimura）</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14545803047520422453</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2657683463431170685.post-5127243831484236898</id><published>2011-11-15T09:35:00.009+09:00</published><updated>2011-11-16T10:20:08.038+09:00</updated><title type='text'>宗祖法然上人８００年大遠忌法要への参加（２）</title><content type='html'>３．知恩院&lt;br /&gt;　前夜の宿は、京都市東山区三条大橋東入ルにある団体専用の宿舎「日昇館尚心亭」で、修学旅行の宿舎よりはゆったりした感じがした。男性5人の相部屋で、話は弾んだ。中に羽咋の方がいたが、実は昔近所にいた方で、私の3歳年上、50年ぶりの再会だった。宿を8時40分に出て知恩院に向かう。&lt;br /&gt;　程なく三門前の駐車場に着き、グループごとにまとまって、女人坂経由で御影堂前の広場に向かう。足が不自由な人はシャトルバスで行く。広場では随行される僧から説明を受ける。私たちを担当された僧は大変博識で、実に丁寧な説明をされた。&lt;br /&gt;　［境内］：上段、中段、下段があり、上段には勢至堂や法然上人廟がある域で、開創当時の寺域である。中段には御影(みえい)堂（本堂)などの中心伽藍がある域、下段は三門や塔頭寺院がある域で、この中段と下段は、浄土宗門徒でもあった徳川家康によって慶長13年(1608)以降に寺域が拡大され、諸堂の造営が行なわれ、造営は二代将軍徳川秀忠に継がれて、元和7年(1621)には知恩院の伽藍の大部分が出来上がった。しかし寛永10年(1633)に火災があり、三門、経蔵、勢至堂を残してほぼ全焼したが、その後三代将軍徳川家光の下で再建が進められ、寛永18年(1641)までにはほぼ旧に復した。&lt;br /&gt;　｛三門｝：この三門は二階建てになっていて、高さ24ｍ、間口50ｍ，奥行12ｍあり、現存する日本の寺院の三門の中では最大で、国宝に指定されている。私たちは御影堂前広場から阿弥陀堂の脇を通り、三門二階へ直接入られるように特設された桟道を通って行く。ここは通常は非公開の場所である。上層内部は仏堂になっていて、釈迦如来像と脇侍像3駆(いずれも重文)と十六羅漢像(重文)が安置されている。また天井には狩野派による絢爛豪華な龍や天女が描かれている。&lt;br /&gt;　［集会(しゅうえ)堂〕：御影堂での念仏会日中法要のため、一旦集会堂に参集する。この建物は御影堂の北側にあり、南北15間の鶯張りの渡り廊下で御影堂と結ばれている。現在半解体修理が施されている。間口43ｍ、奥行23ｍ、高さ17ｍの入母屋造り本瓦葺きである。その後私たちは渡り廊下の両側に3列に並んで座り、法要に出席する夥しい数の僧侶を念仏を唱えて迎えることになる。この日の導師は石川教区の高野上人、脇導師は4人である。僧列が切れるまでかなりの時間を要した。その後歩廊を迂回して御影堂に入った。&lt;br /&gt;　[御影堂(本堂)]：寛永16年(1639)に徳川家光によって再建され、国宝に指定されている。南に向いて建てられていて、「大殿」とも呼ばれ、宗祖法然上人の木像が安置されていることから、「御影堂」と呼ばれる。入母屋造りの本瓦葺きで、間口45ｍ、奥行35ｍで、周囲には幅3ｍの大外縁(歩廊)が巡らされている。堂内には木造阿弥陀如来立像(重文)と木像善導大師立像(重文)も安置されている。この建物は大遠忌の法要を終えると平成の大修理に入り、解体修理される。完成は平成31年(2019)の予定である。御堂に入ると、参加者と同じ数の木魚が置かれていて、順次座る。法要は既に始まっている。導師が表白を延べられている。その後開経され、唱経があり、元祖大師の御遷座と献香・献茶・献菓があり、念仏一会に入る。同唱で、堂内にいる人全員が一緒になって念仏のナヌアミダブを唱える。終りに近くなり中座して、歩廊で知恩院の七不思議の一つの「忘れ傘」の説明を受ける。左甚五郎ゆかりとか、白狐の化身の濡髪童子ゆかりとか、この後の解体では下へ下ろされることから、何か判るかも知れないとも。御影堂を出て坂を上り、大鐘楼へ行く。&lt;br /&gt;　[大鐘楼]：重要文化財で、延宝6年(1678)の建立である。ここにある梵鐘(重文)は寛永13年(1636)の鋳造で、梵鐘の重さは70ｔ、この重い釣鐘を吊り下げるため、鐘楼には特別な工夫が施されているという。この鐘の音は年末の除夜の鐘では定番である。坂を下り、御影堂の東方に建つ経蔵(重文)の脇を通り、境内東側の長い坂を上って小高い場所にある唐門(重文)に至り、勢至堂に行く。&lt;br /&gt;　[勢至堂(本地堂)]：寺内の建物では最も古く、室町時代の享録4年(1530)の建立、当初は本堂/知恩教院として使われていて、知恩院発祥の地でもある。間口21ｍ、奥行20ｍの入母屋造り本瓦葺きの建物で、重要文化財である。ご本尊はもとは法然上人のご尊像(御影)だったが、現在の御影堂が建立された折に移されたため、それ以降は勢至菩薩像(重文)がご本尊として安置されている。浄土宗では、法然を勢至菩薩の生まれ変わりとしているが、これは法然の幼名が勢至丸ということに因んでいるのだろう。&lt;br /&gt;　[千姫の墓]：二代将軍徳川秀忠の長女、幼少7歳で豊臣秀頼に嫁ぎ、大阪落城後、姫路城主本多忠政の子息忠刻と再婚、忠刻病没後、落飾して天樹院と称した。享年70．分骨した大きな墓が、勢至堂の北側に広がる墓地にある。&lt;br /&gt;　[濡髪大明神｣：千姫の墓の奥に祠があり、知恩院を火災から守る濡髪童子が祀られている。濡髪童子に貸した傘が有名な御影堂の忘れ傘とも伝えられている。&lt;br /&gt;　[御廟｣：境内の最上段にあり、法然上人のご遺骨が安置されている。御廟にお参りするときは、手前に建つ拝殿から参拝する。御廟、拝殿、唐門(重文)は大遠忌に当たって修理・修復された。&lt;br /&gt;　この後、遠影堂前広場に戻り、北門から出て、黒門から退出した。その後団体参加者専用の特設会場で遅い昼食をとり、午後3時に帰沢の途についた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;４．法然上人八百年大遠忌石川教区法要&lt;br /&gt;　知恩院での法然上人大遠忌に参加して3週後の11月6日の日曜日、浄土門主で総本山知恩院の第88世門跡の伊藤唯眞大僧正を迎えての石川地区での大遠忌法要が催されることになった。石川教区に浄土門主がおいでるのは極めて稀と聞き及んだものだから、ぜひ参加したいと思った。会場は金沢市文化ホール、時間は午後2時から4時半まで、どんなことをするのかという好奇心もあって参加した。沢山の人が集まるだろうと思い、受付が1時半からなので、15分位前に着くようにして出かけた。場所は大ホールと思いきや、大ホールの向かいにある建物の2階にある大集会室(400人収容)であった。まだ来場者は100人ばかり、最前列に座る。中央に基壇が設けられ、中央正面には真新しい木彫りの阿弥陀如来立像が安置されている。その前に三具足が供えられる。&lt;br /&gt;　何かお寺で行なわれる法要とは様子が異なる雰囲気を感ずる。10分ほどしてそれが現実となる。浄土宗の法要でご詠歌なるものを聞いたことがないこともあって、ご詠歌が八十八番もあると聞いたときは、異次元の世界に来たような気分になった。今まで一度でも経験していれば、慌てることもなかったろうに、しかもその中にある宗歌を法要の冒頭に皆で歌うので、これから歌えるようになるまで練習しますと言われたのにはたまげた。&lt;br /&gt;　浄土宗歌が「月かげのいたらぬ里はなけれども　ながむる人のこころにぞすむ」という法然上人が詠まれた歌であるであることは知っているが、これに節を付けて歌うのは初めての経験だった。大正琴を弾いて合唱隊を指揮するのは、どこかのお寺の奥さんだろうか。もっとも20回も練習すれば、何とか付いて歌えるようにはなるが、違和感が残った。そういえば、読売ジャイアンツに元木という選手がいたが、彼は大阪の上宮高校の出身で、この高校の校歌がこの浄土宗歌であった。歌った節回しがその校歌と一緒かどうかは分からない。&lt;br /&gt;　法要が始まる時間が近づき、200人分用意された椅子は足りなくなり、さらに100人分増やしたようだった。時間になり、初めに法然上人御影の御分身が運び込まれ、次いで僧侶と伊藤御門跡が入場される。この間会場の信者は念仏のナムアミダブを木魚に合わせて唱える。導師が正面に、左右に脇導師が6人座られる。浄土宗歌が全員で詠唱奉納されて法要が始まる。導師によるお身拭いの後、開経げに続いて唱経が行なわれる。終わって導師が退出され、御分身のお身拭い式が出席者全員で順次行なわれる。きれいな布で、御分身の墨染めの衣を数回軽く拭う儀式だ。全員なのでかなり時間がかかる。この間僧侶による念仏が延々と続く。漸くお身拭いが終わって、御分身が遷座される。&lt;br /&gt;　再び伊藤御門跡が入場され、御親教(法話)があった。この地方教区における法要では、法然上人八百年大遠忌に当たり、法然上人が建暦2年(1212)正月25日に入寂された後、弟子の勢観房源智上人が法然上人への報恩に報いるために、わずか1年足らずの間に5万数千人もの結縁交名を成し遂げられた知恩報恩の心に習い、法然上人御影の御分身の巡錫と八百万人念仏結縁のために行なわれるもので、総本山知恩院の「おてつぎ運動」の一環でもあるとのことだった。法話では、法然上人が亡くなる2日前の正月23日に勢観房源智上人に請われてしたためられた「一枚起請文」の説く専修念仏と念仏結縁について説かれた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　私にとっては、法然上人八百年大遠忌出座も御門跡からの直々の法話聴聞も初めての経験だった。このような貴重な経験はもう私の生前には無かろう。合掌。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2657683463431170685-5127243831484236898?l=kimuranobuaki.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/feeds/5127243831484236898/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/11/blog-post.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/5127243831484236898'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/5127243831484236898'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/11/blog-post.html' title='宗祖法然上人８００年大遠忌法要への参加（２）'/><author><name>木村晋亮（Nobuaki Kimura）</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14545803047520422453</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2657683463431170685.post-4011746175748990393</id><published>2011-11-11T12:56:00.009+09:00</published><updated>2011-11-16T10:40:01.716+09:00</updated><title type='text'>宗祖法然上人800年大遠忌法要への参加　（１）</title><content type='html'>浄土宗宗祖の法然上人が建暦2年(1212)に80歳で入寂されてから800年、今年平成23年(2011)がその法然上人800年大遠忌に当たる。この遠忌は50回忌以降50年おきに行なわれているもので、大きな転換点となったのは、資料によると、後柏原天皇の御世の大永4年(1524)に、天皇による「大永の御忌鳳詔」が出され、知恩院での法然上人の御忌を7日間にわたって勤めるように定められ、以降、毎年1月18日から25日までの7日間忌日法要が行われるようになった。その後ご入滅から486年を経た元禄10年(1697)になり、当時の東山天皇から「円光大師」の大師号を下賜された。そしてその14年後の宝永8年(1711)の500年遠忌には、時の中御門天皇より「東漸」の大師号が加賜され、それ以後、中日22日の法要をするとした50年周期の遠忌法要の法式が確立された。以後50年の遠忌ごとに、宮中からは大師号が加賜されてきた。なお、明治10年(1877)からは、それまで1月に行なわれてきた遠忌法要は4月に行なわれることになった。以後800年大遠忌まで、50年ごとに加賜された大師号は次のようである。&lt;br /&gt;　宝暦11年(1761)　550年遠忌　桃園天皇より「慧成大師」の号を賜る。&lt;br /&gt;　文化８年(1811)　600年遠忌　光格天皇より「弘覚大師」の号を賜る。&lt;br /&gt;　万延２年(1861） 650年遠忌　孝明天皇より「慈教大師」の号を賜る。&lt;br /&gt;　明治44年(1911)　700年大遠忌　明治天皇より「明照大師」の号を賜る。&lt;br /&gt;　昭和36年(1961)　750年御遠忌　昭和天皇より「和順大師」の号を賜る。&lt;br /&gt;　平成23年(2011)　800年大遠忌　今上天皇より「法爾大師」の号を賜る。&lt;br /&gt;　当初、知恩院での800年大法要は、第Ⅰ期の古式法要が3月27日から4月3日までの8日間、第Ⅱ期の記念法要が4月4日から17日までの14日間行なわれることになっていて、石川教区は第Ⅱ期の3日目(4月9日)の念仏会日中法要に組まれていた。ところがあの未曾有の東日本大震災により、法要は秋に延期になった。折しも浄土真宗でも、親鸞上人750年遠忌が今年執り行われることになっていて、東本願寺では予定通り、西本願寺では秋に延期となった。知恩院では、古式法要は10月２～9日の8日間、記念法要は9月28日と10月12～22日と24～25日の14日間、加えて10月11日に東日本大震災物故者追悼法要が行なわれることになった。石川教区の念仏会法要は10月15日の午前である。&lt;br /&gt;　今回の法要参加の旅は、法要の前日に奈良の興福寺と唐招提寺を拝観し、当日は午前の念仏会法要に参列し、帰沢するという予定で、主催は浄土宗石川教区・同壇信徒会である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１．興福寺&lt;br /&gt;　10月14日の天気は雨とのことだったが、金沢では晴れていて、旅行日和の感があった。朝8時に金沢駅西口に集合、バスは1号車、全部で5台である。バスの座席は菩提寺ごとに仕分けされていて、私達夫婦は前の方だった。福井を過ぎる頃から雨模様になる。途中2回のトイレ休憩があり、車中昼食で午後1時には奈良市登大路の興福寺に着いた。小雨が間断なく降っている。興福寺は昨年が創建1300年、国宝館開館50周年とかである。&lt;br /&gt;　興福寺は南都六宗の一つ法相宗の大本山、創建は和銅3年(710)で、奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられ、春日社の実権を手中にし、大和国を領するほどになり、鎌倉・室町時代には幕府は大和国に守護は置かず、興福寺がその任に当たったという。また江戸時代には、21,000余石の朱印を与えられ保護されていたが、明治元年(1868)に出された神仏分離令・廃仏毀釈、明治4年(1871)の社寺上地令によって、子院はすべて廃止、寺領は没収、僧は春日社の神職となり、境内の塀は取り払われ、奈良公園の一部となり、寺は廃寺同然となったが、その後復興した。現在でも寺には塀がなく、公園の中に寺がある状態となっている。&lt;br /&gt;　興福寺は創建以来、7回もの焼失・再建を繰り返してきた。中金堂は文政2年(1219)に仮再建されたが、老朽化したため平成12年(2000)に解体された。現在境内整備が行なわれていて、第1期は中金堂及びその周辺の整備で、平成10年(1998)から平成35年(2023)の26年間が当てられている。これまで中金堂基壇、中門、回廊、前庭の発掘調査が終わり、平成22年(2010)の創建1300年には中金堂の立柱式が行なわれ、平成30年(2018)には復元される予定である。これには約60億円の費用が見込まれる。この伽藍復興に向けて、私も平瓦に記名し寄進した。中金堂の規模は、東西36.6ｍ、南北20ｍ、高さ21.2ｍだったという。&lt;br /&gt;　団体で国宝館に入った。今日は金曜日、中学生や高校生の団体も大勢来ていて、皆さん資料を持って学習していて、館内は芋の子を洗う状態。これだけ拝観者が多いと、ゆっくり鑑賞するというのは困難で、人の波に体を委ねての移動となる。まるでところてん式に押し出されて外へ。ここでの滞在時間は1時間、残りの時間、境内を散策する。東金堂、五重塔、北円堂、三重塔は国宝。南円堂、大湯屋は重要文化財。中金堂は再建中。西金堂、回廊、中門、南大門、鐘楼、経蔵は跡のみ。全体の再建はまだまだのようだ。現在拝観できるのは、国宝館と東金堂のみである。現在興福寺に収蔵されている仏像等の国宝は54点、重要文化財は44点と多く、奈良県指定文化財も3点ある。本尊の釈迦如来像、薬王・薬上菩薩像(重文)、四天王像(重文)は、現在仮金堂に移安置されている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２．唐招提寺&lt;br /&gt;　興福寺を出て、奈良市五条町の唐招提寺に移動する。&lt;br /&gt;　唐招提寺は南都六宗の一つ、律宗の総本山、開基は鑑真和上、本尊は慮舎那仏である。宗祖の鑑真和上は中国揚州の生まれ、21歳で授戒を受けた後、揚州大明寺で広く戒律を講義し、長安・洛陽には並ぶ者がない律匠と称えられていた。54歳の折に日本からの熱心な招きに応じて渡日を決意されたが、遣唐使船での５回の渡海の試みのうち、3回は事前の密告で出国できず、2回は暴風雨で失敗、そして失明された。しかし渡日の意志は強く、六度目にして漸く琉球を経て天平勝宝5年(753)12月に薩摩に上陸、翌年4月に奈良へ着いた。66歳だった。この年和上は東大寺大仏殿の前に戒壇を築き、聖武天皇、光明皇后はじめ四百余人に授戒された。その後東大寺で5年を過ごされ、天平宝字2年(758)には大和上の称号を賜り、併せて新田部親王の旧宅地を下賜され、翌3年(759)には戒律を学ぶ人達のために修行の道場を開き、「唐律招提」と称した。鑑真和上の私寺として発足した当初は、講堂と新田部親王の旧宅を改造した経蔵や宝蔵があるだけで、金堂が完成したのは弟子の如宝の尽力による。鑑真和上は日本で10年過ごされ、天平宝字7年(763)5月にその生涯を閉じられた。76歳だった。&lt;br /&gt;　寺の建造物では、金堂、講堂、鼓楼、経蔵、宝蔵が国宝、御影堂、礼堂・東室が重要文化財となっている。ほかには仏像6点と舎利容器1点が国宝、絵画4点、仏像30点、工芸品19点、古文書等12点が重要文化財である。金堂は平成12年(2000)から10年かけて大修理され、平成21年11月に落慶法要された。この平成大修理の際、江戸時代と明治時代にも大修理が行なわれていたことが判明した。&lt;br /&gt;　唐招提寺の前には広い駐車場があり、グループごとに境内へ入る。南大門から入り、参道の玉砂利を踏んで進むと、見慣れた金堂が正面に対峙することに、でも実物を見るのは初めてである。正面に並ぶ8本の円柱の吹き放ちは、正に天平様式、ギリシャの神殿建築様式が伝わってくるような印象を受ける。その簡素な美しさの中にも厳かさを感じる。内陣には慮舎那仏坐像(国宝)を中央に、左手東方には現世の苦悩を救済する薬師如来立像(国宝)が、右手西方には理想の未来へ導く十一面観世音菩薩立像(国宝)が見えている。本尊の脇には梵天・帝釈天の立像(国宝)、須弥壇の四隅には四天王像(国宝)が立つ。ここ独特の雰囲気、魅了される。&lt;br /&gt;　次いで鼓楼の脇を通り、講堂へ回る。ここでは中へ入る。この建物は平城宮唯一の宮殿建築の遺構で、中には、本来は菩薩像であるのだが、ここでは本尊弥勒如来坐像(重文)として表現され、金堂の三尊と合わせて顕教四仏となる古式で配列されている。ほかに持国・増長の二天(重文)も共に配されている。出て、境内の礼堂・東室を横に見て、地蔵堂に上がり、迂回して日本最古の校倉といわれる宝蔵・経蔵の前を通り、南大門に戻った。今回は鑑真和上座像(国宝)が納められている御影堂は、屋根しか見えなかったが、ここには東山魁夷画伯による障壁画が奉献されている。ここが公開されるのは、毎年6月6日の開山忌舎利会の際の前後3日間のみである。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2657683463431170685-4011746175748990393?l=kimuranobuaki.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/feeds/4011746175748990393/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/11/800.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/4011746175748990393'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/4011746175748990393'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/11/800.html' title='宗祖法然上人800年大遠忌法要への参加　（１）'/><author><name>木村晋亮（Nobuaki Kimura）</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14545803047520422453</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2657683463431170685.post-1634153374216461271</id><published>2011-10-26T09:12:00.006+09:00</published><updated>2011-10-31T12:43:37.064+09:00</updated><title type='text'>信州探蕎　「かじか亭」と「職人館」　（２）</title><content type='html'>● 二日目の探蕎は望月の「職人館」　　（佐久市望月春日 3250-3）　電話0267-52-2010&lt;br /&gt;　初日の宿の満山荘からの出しなに、草庵風の入り口で、宿の主人がカメラマンになってくれて、集合写真を撮ってもらう。また来ますと言って別れ、予定通り9時に出発する。取り敢えずは山を下りて、先ずは土産のリンゴを買うべくＪＡ須高(須坂市と高山村合同のＪＡ)管理の高山共選所へ寄る。地元高山産のいろんな品種のリンゴが格安の値で手に入る。私はリンゴワイン(発泡酒)を求めた。さて次は久保さんの所望で、昨晩の地酒「やまと」を求めて須坂市内を巡る。しかし地元のコンビニには置いてなく、それで蔵元へ、でもここには商品はなく、漸く探しあぐねて遠藤酒造直営の商店に辿り着けた。松川さんは以前来たことがあるとか。久保さん御執心の「やまと」という酒は、遠藤酒造の渓流純米吟醸の一商品、ラベルにはあの達磨大師が書いた？〇が書かれている。私も一本求め、更に今が旬の渓流ひやおろし純米酒も求めた。&lt;br /&gt;　これで土産は一段落、後は第二の探蕎の地、佐久望月の里へ一直線。もう10時半は過ぎていた。須坂長野東ICから上信越道に上がり、佐久ICへと急ぐ。佐久ICで下りて、久保さんはナビに従って走行されたとか、松川さんはひたすら久保車の後を追う。どこをどう通ったかは全く不明、何か中仙道の望月の近くで正午近くだった。その後どうやら山に近い田中の道を走るようになり、どうもお目当ての蕎麦屋が近いと肌で感じられるようになった。そして間もなく手打ちそば家という「職人館」に到着した。もっと遅れると思いきや、僅か四半刻ばかりの延であった。&lt;br /&gt;　この山近くの田園に囲まれて建つ古民家は、店主の北沢正和さんの祖父が暮らしていたという家屋、落ち着いた佇まいの建物である。入り口右手の梁には「職人館」の掲額、パンフレットによると、題字は信濃デッサン館の窪島誠一郎氏によるとあるが、この方が命名者でもある。あの戦没画学生慰霊美術館の「無言館」の館長でもある氏に、開店に際して店の名を依頼したところ、この名を頂いたとのこと、一風変わった癖のある店名という印象を受けていたが、これで納得がいく。&lt;br /&gt;　入り口は障子戸、上には注連飾りがあり、真ん中には「笑門」の札が。中へ入る。既に何組かの客が来ている。右手の板の間に置かれた細長い分厚い一枚板の座机に案内される。10人は座れよう。注文はランチサービスの『そばと何かほしい膳』ということに。メニューの名前からしてオリジナル、遊び心が伝わってくるが、はたしてどんな料理が登場するのだろうか。暫らく間があって、先ずお通しに「村の豆」が出た。これには白色で粗い塩の「味の決め手塩」という名のフィりピン・ソハモセリナ産の塩と、茶色でやや粗い「銀葉藻と塩」という名で、塩は新潟・村上産というのが付いてきた。銀葉藻(ぎんばそう)というのは、褐藻類ホンダワラ科の海藻で、和名をアカモクといい、佐渡などでは刻んで湯通しして食べるようで、モズクに似ている。また乾燥したものは商品化されていて、出ている塩は粉末にした銀葉藻を塩と混ぜたものだろう。&lt;br /&gt;　初めに「村のとうふ」が出る。地元御牧(みまき)村特産の丸大豆100％の豆腐、木綿豆腐位の堅さ、でもしっかりとした甘味と香りがする一品だ。次いで「季節の一品」、色鮮やかなサラダ、取り分けて食べる。トマト、キャベツ、パブリカ、リンゴ、レタス、ダイコン、ネギが、自家製の「天来醤油」で味付けされており、それにコスモスのピンクの花びらを散らしてあり、見た目には極彩色、実に楽しい盛り付けで面白い。花弁はもちろん食することができる。次に登場したのは「そばの実のリゾット」、丸抜きのそば粒の粥に、丸大豆、トマト、インゲン、カキが散らされている一品、これも取り分けて食べる。そろそろ「そば」かと思ったら、もう一皿「季節の野菜盛り」が出てきた。完熟した真っ赤なトマト、一人に丸ごと一個、包丁は入っている。それに食用ホオズキ、何とも言えない淡い甘さ、種はない。そして紫色の食用菊の花びら、それに香草のバジル、この皿はコース外のような気がする。そして次にお目当ての「十割そば」。丸皿に丸い竹簾を敷き、細打ちのそばがこんもりと盛られて出てきた。そばは近くの高原で昔から栽培されてきた村内産の玄そばを、石臼挽きした地粉100％の手打ちそばである。香りがあり、コシがあり、かつ喉越しが良い。正に絶品である。つゆは辛め、地元産の丸大豆を使った職人館オリジナルの「天来醤油」を用い、鰹節にもこだわり、化学調味料は一切使っていないという。そして最後には蕎麦湯が、大きな片口になみなみと、そばの茹で汁で、割ってもそのままでも美味しい。&lt;br /&gt;　ここで出される食材は、すべて無農薬・有機栽培で栽培された旬のものばかり、しかもこの地域で採れたものを頂くという地産地消にこだわり、その日の料理も材料を見てから考えるという。扱う食材は、自然が既に料理してくれているから、そのまま皿に盛るだけで充分なのだが、少し手を加えると更に美味しくなるとも。彼の料理に対する考え方は、健康は良い食べ物を食することによって作り出されるという「食養」という信念に基づいているからだという。&lt;br /&gt;　少し彼の言を引用しよう。「食養」のための食材は、(1)『身土不二』、(2)『一物全体食』、(3)『不飽常食』の三つに集約されるという。(1)．人間も含めて地球上の生物は、土から育った植物を食べて生きているから、人間も動物も間接的には土を食べて生きていることになり、食養のためには、良い土壌に育った食材が必要である。野菜なら昔からの農法、無農薬・有機肥料で育てられた野菜本来の味を持つ食材、山菜のように自然に野山に自生している食材がそうである。（2)．一つの生命がまるごと入っているもの、その全体を食べるのが健康のためには良い。穀物や蕎麦のように、土の中に種を蒔けば生命となるものが良い。牛などのように、まるごと食べられないものは除外される。（3)．米などのように、毎日食べても飽きない食材をいう。&lt;br /&gt;　次にお品書きを一部紹介するが、何ともユニークでオリジナリティーの高い、遊び心が伝わってくるメニューである。(　　)内の数字は税抜きの価格である。&lt;br /&gt;『山里の季節膳』：「炭にきけ膳｣(4000)、「棟上げ膳｣(5000)、「野にきけ膳｣(6000)、「山にきけ膳｣(7000)、「山里の恵み膳」(8000)。&lt;br /&gt;『ランチサービス』：「そばと何かほしい膳｣(2500)、「館主の野遊び膳｣(3000)、「山里の彩り膳｣(4000)。&lt;br /&gt;『職人館の創作そば』：「そばの実と放し飼卵のリゾット風｣(1500)、「山ぶどうドレッシングのそばサラダ｣(1500)、「みまき豆腐の葛あんかけそば｣(1500)、ほかに「岩魚そば」「どんぐりそば」。&lt;br /&gt;『そば』：「職人そば」「みぞれそば」(850)、「十割石臼挽きそば」「山菜温そば」(1300)、「季節のかわりそば：更科かダッタン」(1500)。&lt;br /&gt;『ちょっと一品』：「村の豆とうふ」(350)、「野菜・きのこのそば味噌炊き｣(850)、「山野のお任せ盛り」(1500)。&lt;br /&gt;『調味料・酒はオリジナル』：「味の決め手塩」「銀葉藻と塩」「天来味噌」「天来醤油」「職人館酒」「そば焼酎」ほか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　「季節の野菜盛り」は盛り沢山で食べられないので持ち帰りたいと言ったところ、お持ち帰りはできませんとのこと、諦めていたところ、帰り際に清算をしているとき、新しい野菜をお持ち帰り下さいと頂戴した。何とも嬉しい心遣いだった。玄関で集合写真を撮るのに、館主にシャッターを切ってもらった。その後しばらく話していたら、ここで開業する前の6年間、金沢と鶴来で修行したとのこと、驚いた。此処へ来てもう二十余年というから、かれこれ30年位前のことになる。帰りに注連飾りの下でポーズしてもらった。&lt;br /&gt;　遠いが、また訪れてみたい蕎麦の館である。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2657683463431170685-1634153374216461271?l=kimuranobuaki.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/feeds/1634153374216461271/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/10/blog-post_26.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/1634153374216461271'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/1634153374216461271'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/10/blog-post_26.html' title='信州探蕎　「かじか亭」と「職人館」　（２）'/><author><name>木村晋亮（Nobuaki Kimura）</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14545803047520422453</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2657683463431170685.post-3143489789072535327</id><published>2011-10-25T13:08:00.008+09:00</published><updated>2011-10-25T17:25:33.287+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='　'/><title type='text'>信州探蕎　「かじか亭」と「職人館」　（１）</title><content type='html'>　探蕎会の平成23年後期の探蕎第二弾は既に信州方面と決まっていて、宿も奥山田温泉の満山荘なのだが、肝心の探蕎の方は、副会長で信州には造詣の深い久保さんに一任ということになっていた。ところで何処になるかは興味深々だったが、出発当日、久保さんから、初日は富倉の「かじか亭」、二日目は望月の「職人館」と発表があった。私にとっては、いずれの蕎麦店も初めてだと思っていたら、職人館は一度伺っていた。記録を見ると、探蕎会が設立された平成11年(1999)の10月23～24日に、戸隠・別所温泉の旅として、戸隠の「大久保西茶屋」、更埴市の「つる忠」、それに望月町の「職人館」へ行ったという記録があり、そういえば別所温泉の柏屋別荘も戸隠も更埴も思い出したものの、望月へ行ったという記憶がどうも定かではない。何故かは不明である。それはともかく、今年の信州探蕎は10月10日(月曜で体育の日で休日)と翌11日の火曜日、総勢７名での出発となった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;● 初日の探蕎は富倉の「かじか亭」　（飯山市富倉1769）　電話0269-67―2500&lt;br /&gt;　午前7時50分に予防医学協会の駐車場を予定を20分遅れて出発する。車は2台、久保車に4名、松川車に3名、近くの金沢西ICから北陸道に上がり、上越ICで下りて、国道18号線(北國街道)を南下し、新井市で左折して国道292号線(飯山街道)に入る。新潟と長野の県境の富倉峠を越え、飯山市富倉に至り、富倉中谷(ﾅｶﾔ)にある富倉ふるさとセンターの「かじか亭」に着いた。かじか亭は街道に面していて、前には広い駐車場がある。訊けば此処は小学校の跡地で、地元住民の共同出資でこのセンターをオープンしたとか、どうりで広いわけだ。車なら100台は停められよう。&lt;br /&gt;　ここの開店は10時と早く、着いた時にはもう先客がいた。三和土(ﾀﾀｷ)にはテーブルが、小上がりには座机が、50人は入れよう。宿泊も可能とかである。小上がりに上がり、富倉名物のオヤマボクチをつなぎに使った地粉100％の富倉そばとこれも富倉名物の笹寿しがセットになっている「手打ちそば定食」を注文する。このセットは、この富倉出身で中野市で開業している「郷土(ｺﾞｳﾄﾞ)食堂」でも味わうことができる。この店の主人は、幻の富倉そばをこの富倉の地で30年前に始めて営業レベルにまで発展させ、その後平成2年(1990)に中野へ移っている。現在富倉の地には他に3軒が富倉そばを提供している。またオヤマボクチをつなぎにしたそばは、木曽福島のあの「時香忘(ｼﾞｺﾎﾞｳ)」ほか数軒でも出している。&lt;br /&gt;　蕎麦前にお酒を所望する。銘柄は不明だが地酒だろう。燗酒で小徳利で320円とか、何とも安い。ややあって注文のそば定食が届く。ざるそばは平打ちの十割、やや細切りで、コシは強いが喉越しは良い。おそらくこれはオヤマボクチのなせる業なのだろう。そして名物の笹寿しが2枚、鮮やかな緑色の笹の葉に酢めしが、その上に錦糸玉子、紅生姜、ゼンマイ、茸、クルミ、大根の味噌漬けが載っている。その昔、川中島の合戦に向かう上杉謙信勢に富倉の人達が提供した野戦食と伝えられていて、別名「謙信寿し」とも言われている。&lt;br /&gt;　［蕎麦屋情報］営業：10～18時．11～3月は10～17時．席：50．定休日：火曜．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;● 初日の宿は奥山田温泉の「満山荘」　（上高井郡高山村奥山田温泉）　電話026-242―2527&lt;br /&gt;　富倉から飯山へ下り、中野を経由して小布施へ。この日は観光客でごった返す町を素通りして、松川渓谷沿いの道を上流へ、この渓谷には山田温泉、五色温泉、七味温泉があり、お湯が川に自噴しているとかで、魚は棲めないそうだ。七味温泉の分岐から山へ上る。奥山田温泉は山田牧場の一画、標高は1,500ｍを超え、更に進めば志賀高原に通じている。時に午後2時、一旦山田牧場まで行き、Ｕターンして満山荘へ、うっかり狭い砂利道へ誘導して松川さんに苦労をかけた。しかし牧場から来るとここが入り口のように見えて、後続の久保車も入り込んだとか、ほかにも数名、何か表示がほしいものだ。&lt;br /&gt;　案内を乞うと、どうぞと言われロビーへ、寛いで主人が入れてくれた蕎麦茶を頂く。部屋は観山(ﾐﾔﾏ)館2階の続きの3室、「鹿島槍」「五竜」「唐松」、いずれも後立山の山々の名前だ。既に布団が敷かれていて、私達3人は「唐松」に入る。この部屋は囲炉裏付きの和室である。&lt;br /&gt;　お天気がよくて空気が澄んでいれば、窓から西に西穂高岳から小蓮華岳まで南北80kmに及ぶ北アルプスが一望できるはずなのだが、あいにくモヤっていて何も見えない。ただ近景の樹海は色づき始めていて、紅葉・黄葉が緑の針葉樹に混ざって彩を添えている。お神酒を入れて寛ぎ、解禁の午後3時になって風呂へ下りる。この時間帯、男性が入れるのは、宿の初代館主が作った岩風呂と露天風呂、内湯は熱いが外湯はまずまずの熱さ、これで展望がきけば最高なのだが。源泉の泉質は単純硫黄泉、源泉温度は96℃、全量かけ流しである。　このお湯は五色温泉と七味温泉の中間地点に300ｍボーリングして、それをここまで1650ｍ押し上げているとか、窓の外には大きな茶色のタンクが見えている。パイプは厚さ30mmのビニール製とか、話すのは初代館主の堀江文四郎さん(84)である。これだけの高さを一気にポンプアップしているのは世界でも例を見ないと自慢されていた。温泉につぎ込んだ費用は延べ7億5千万円とも。談話室には自身で撮影された北アルプスの大パノラマ写真、実に見事である。氏は旧海軍士官だったとか、エピソードも多く、また話もバラエティーに富んでいる。数日前には転んで肋骨が折れているというのに、自分で車を運転して長野市にある日赤病院に通院しているとか。とかく話題の多い人だ。&lt;br /&gt;　夕食は午後6時から Food 風土という食事処で、地元の山菜や野菜、所謂旬の食材をふんだんに使った創作料理が10種以上も提供される。何とも楽しい。この食事もリピーターになる一因とか、さもあろう。アルコールは秘湯ビールと地酒を3銘柄、大町の白馬錦、須坂のやまと、飯山の水尾一味を頂いた。至福の時を過ごした。食後はそれぞれに寛ぐ。私はテレビで「日本人イヌイット北極圏に生きる」という番組があり、釘付けになった。彼らは狩をするが、それが食の糧であり、そして毛皮は彼らに経済的価値を生み出してきた。猟の期間や捕獲頭数はともかく、以前は年間通じて氷原だった北極圏の海が、近年は温暖化で夏季には氷が解けて海になり、アザラシ猟も夏には舟でという始末。また自然保護団体の圧力もあって、毛皮の売買もままならなくなり、経済的にも大きな岐路に立たされている。日本人家族がいるアッパリアスの部落も、彼が移住してきた頃には94人いたのに今は51人とか、でも彼は猟の技術を息子にも覚えさせるのに懸命で、今でも永住を決意している。独り神の河を飲みながら、このドキュメント番組を観た。&lt;br /&gt;　翌朝の朝食は午前8時、昨夜午後10時から朝食時までは入湯場所が男女逆になる。夜に風呂に入った人の言では、十五夜の月が煌々と輝いていて実に素晴らしかったとか。朝4時には起きていたのに、これはうっかりしていた。6時近くに昨日は女性用となっていた風呂に入る。一昨年4千万円をかけて改修したという風呂は実に素晴らしい。脱衣場も洗い場も贅が尽くされているという感じ、内湯は檜風呂、ゆったりとして大きい。また露天風呂は切り石で囲った長方形、湯温が適温で、これならいくらでも浸かっていられる。そして周りには回廊、石畳にはチェアも置いてあって、申し分のない風呂環境、正に秘湯である。これで遠望がきいて、パノラマ写真のような北アルプスを望見できれば、正に桃源郷だ。&lt;br /&gt;　朝食は昨晩の食事処の同じ席で、食事はバイキング方式、でも個々の品がこの宿に相応しい品々、こうなるとあれもこれもと、どうしても余計に取ってしまう。久保さんからは職人館へは11時半に入りたいので、宿を午前9時に出立するということに。&lt;br /&gt;　[温泉情報]　色：淡乳白色．泉質：単純硫黄泉．源泉温度：96℃．湧出量：40ℓ/分．ｐＨ7.8．&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2657683463431170685-3143489789072535327?l=kimuranobuaki.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/feeds/3143489789072535327/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/10/blog-post_25.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/3143489789072535327'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/3143489789072535327'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/10/blog-post_25.html' title='信州探蕎　「かじか亭」と「職人館」　（１）'/><author><name>木村晋亮（Nobuaki Kimura）</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14545803047520422453</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2657683463431170685.post-6593786279395891363</id><published>2011-10-13T08:31:00.011+09:00</published><updated>2011-10-13T16:53:14.249+09:00</updated><title type='text'>『ドンキホーテの誤解』を読んで</title><content type='html'>　『随想　ドンキホーテの誤解』　　永坂鉃夫著　　前田書店　　1,500円　　(2004)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　以前ご恵送いただいた『随想　ドンキホーテの誤解』の当時の読後感が手元に残っていて、読み返しますと、そこには、「大変面白く、先生の薫りが随所に匂う、素晴らしいエッセイ・主張・解説の数々、一気に読ませていただきました」とあります。この度もう一度通読させていただき、勝手な今なりの私のおもいも追記させていただきました。&lt;br /&gt;１．「ドンキホーテの誤解」&lt;br /&gt;　どなたかがドン・キホーテではないかとの御託宣は正しいに違いないことです。でも先生は敢えて中点のないドンキホーテとして本物と区別する事にしたとは、何という開き直り、正に返し技一本です。大変小気味よい仕業です。ところで先生は「あえて自著ではドン・キホテとせず」とありますが、そこはドンキホテとせず日本語通読のドンキホーテとされたところが先生らしいですね。おそらく大方の日本人は書きなさいと言うと、中点など付けずに書くのではないでしょうか。&lt;br /&gt;　外国の人名・地名をカナ表記するのは大変です。中国のようにこう書くと決めて示せば別ですが、統一した表記は至難でしょう。&lt;br /&gt;　マニフェストのこと、私も語源は英語で manifest とばかり思っていたのですが、実は英語でも語尾に o が付くとは驚きました。確かにマニフェストなどと言って国民を煙に巻いている感がします。　&lt;br /&gt;　箸の握りでは、機能的な握りであれば、どんな握りでも原則ＯＫなんでしょうね。&lt;br /&gt;　さて、ダッタンソバの花の色のことですが、五弁花の花びらを比較しますと、ソバは大きくふっくらとしていて白色で、基部のみが淡緑色ですが、ダッタンのは小さくて細く、白色なのですが、基部からほぼ中央に沿って、ほぼ真ん中辺りまで淡緑色の部分があり、全体では淡緑白色に見えます。また花の付き方も、ソバは花が塊状に付き白色が強調されるのに対し、ダッタンは穂状に付くのと花が小さいのとで、花盛りでも淡緑白色はほとんど強調されません。それに早川先生の指摘にもありましたように、「ほう」のような小葉は淡緑色から花期には淡緑黄色になるので、眺めた場合はむしろこちらが強調されます。とは言っても、ダッタン蕎麦畑の花盛りの写真を見ると、葉の緑が最も強く、先端に点々と淡緑黄色と淡緑白色が伺えるという程度です。また葯の色はどちらも紅色なのですが、ダッタンの「おしべ」はソバよりも小さくて短く、紅色が目に入ることはありません。因みにソバは２倍体で虫媒か風媒、一方ダッタンは４倍体で自家受粉です。またダッタンの実には稜がなく小麦状です。&lt;br /&gt;２．「粗忽者ドンキホーテ」&lt;br /&gt;　大杯の酒、先生の場合は、仲人で飲み干してはいけない酒を自発的に飲み干されてしまって周りを驚かせてしまったようですが、小生の場合は、家での結婚式の最後に、大杯になみなみと注がれた酒を飲むように催促され、飲むには飲んだのですが、新婚初夜は大変でした。後で聞けば、宿へのハイヤーは途中でパンクしたけれど、縁起もあって交換もできずそのまま走り、宿には４時間遅れの到着、早速用意しますのでと言われたことまでは覚えているのですが、そのまま夕食も食べずに朝までソファーでぐっすりという始末、縁がなくてもそれまででした。&lt;br /&gt;　また春山での遺体収容で、クレゾール石鹸液をコーヒーと間違えて飲んだ御仁もいました。&lt;br /&gt;３．「わたくしの書評」&lt;br /&gt;　シャンソン「リラの花咲く頃」の元歌か原詩がドイツ語とは全く知りませんでした。シャンソンでは冒頭の小節で lilas blanc となっていますが、それはそれでよいのですが、これがブタクサとなると、日本ではあの花粉症の元凶ですから、どうでしょうか。&lt;br /&gt;　因みにライラック(リラ)には沢山の種類(種・亜種・変種・品種)がありますが、代表的な薄紫色の花を付けるのは、和名ではムラサキハシドイといい、北大の植物園には多くの株が収集されています。&lt;br /&gt;　豚の饅頭、どなたの命名か知りませんが、現物を観察するとなるほどと納得です。&lt;br /&gt;　仁木先生の「遊んで学べば一体どうなる」の言、実践するとどうなるんでしょうね。&lt;br /&gt;４．「続・体温十二講」&lt;br /&gt;　今回も「そうですか」「そうでしたか」に終始しましたが、お終いの体温調節に関する３講には興味がそそられました。中でも冬眠についての項で、高僧や修行を積んだ雲水やヨガの練達者が座禅や瞑想を行っている時には心拍数や呼吸数、代謝が落ちて、冬眠に似たような状態が具現されているとか。ときに真剣に訓練しなくても、機器を使うもよし、薬物を使うもよし、催眠術のような術を使うもよし、望むときに冬眠できるようになれば素晴らしいですね。先生が仰るように、この方面の研究も進展してほしいものです。&lt;br /&gt;５．「Ｍy Ｄear　王木会」&lt;br /&gt;　先生自身、この会の影響がすこぶる多大であったと述べておられますが、そうだと思います。毎年開くことだけでも大変でしょうに、会務報告あり、特別口演あり、分科会あり、出品あり、ツアーあり、すごい会ですね。でもそれには会をリードし、企画し、お世話する中核となる人がいないと持続させるのは至難でしょう。しかし読んでいて実に素晴らしい会、本当に羨ましい限りです。&lt;br /&gt;６．「学会(界)の周辺」&lt;br /&gt;　話す時間のこと、正にその通りですね。約束ごとを無視し、人の迷惑も顧みずに延々と話す御仁に出くわすと、無性に腹が立ちます。　&lt;br /&gt;　イグノーベル賞のこと、日本人でも受賞されている方ありますね。それはそうと、賢いカラスは正に好適なターゲットだと思います。以前酸性雨の被害状況調査で、合金別にいろんな条件で年余にわたる調査を行なったのですが、なぜかカラスの糞害に悩まされました。その時は、ビニール被覆線を40cm位に切り乱立させることで解決できました。それはカラスが羽を広げた時に、針金が羽に当たることを極端に嫌うというヒントからでした。　　またゴミ袋の場合、ずっと以前の真っ黒な袋では被害がなかったわけで、中が見えないと敵は素通りのようです。しかし、人間様も見えないわけで、中に何がということで透明な袋に変わった経緯があります。ところで磁石はそれなりに有効なのでしょうが、そこそこ強力でないと駄目なのではないでしょうか。いつか朝日新聞に、ヒトとカラスでは視覚に差があることと、中身が分からない限りつつかないというカラスの習性に目をつけ、黄色を強調する顔料を塗った半透明のゴミ袋を試作したそうです。この色の濃さと光の透過率を調整すると、カラスには見えないがヒトは見えるというゴミ袋ができ、それだと全く荒らされなかったとのことでした。&lt;br /&gt;７．「性懲りもなくまたドンキホーテの八つ当たり」&lt;br /&gt;　正に先生の言われる通りです。　　その後「名古屋高速」は改善されたでしょうか。　&lt;br /&gt;　ジパング倶楽部のこと、私は煩雑で辞めましたが、年寄りは「のぞみ」に乗るなとは、親切心なのでしょうかね。ただ代行については、ジパング倶楽部会員でないからか、全く支障がありません。　&lt;br /&gt;　行田市教育委員会もとんでもない企画をしたものですね。悪い冗談だということ分からないのでしょうか。その後の消息知りたいものです。　&lt;br /&gt;　会費制の謝恩会など、謝恩会じゃないでしょう。別名にすべきです。　&lt;br /&gt;　減塩食の是非、沖縄では最長寿で摂取食塩量も多いとか、ただ天然塩でカリウムがふんだんに含まれているからＯＫなのでしょうか。最近得た知識では、食塩量を余り下げるとかえって腎機能によくないとか、どうなんでしょうか。&lt;br /&gt;８．「手作りの本」&lt;br /&gt;　小冊子ならいざ知らず、少なくとも本となると、相当な技術と何か道具が要るのではないでしょうか。あるいはちょっと技術見習いに弟子入りするとか。でも先生は独学とか。手作り本(Ⅳ)表紙と本にありますから、少なくとも４冊は作成されたようですね。本当に驚きました。所謂「凝り性」なのですね。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　いろいろと勉強させて頂き、有り難うございました。またいろいろ御教示下さい。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2657683463431170685-6593786279395891363?l=kimuranobuaki.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/feeds/6593786279395891363/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/10/blog-post_13.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/6593786279395891363'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/6593786279395891363'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/10/blog-post_13.html' title='『ドンキホーテの誤解』を読んで'/><author><name>木村晋亮（Nobuaki Kimura）</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14545803047520422453</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2657683463431170685.post-2768992235962456682</id><published>2011-10-04T10:11:00.009+09:00</published><updated>2011-10-04T14:49:56.392+09:00</updated><title type='text'>白山のコマクサ除去の受難ー掃討作戦開始ー</title><content type='html'>　平成23年(2011)9月28日付けの朝日新聞石川版に、「白山のコマクサ除去へ、『高山植物の女王』を外来種と断定」という見出しで、生田大介記者による記事が登載された。&lt;br /&gt;　記事は次のようである。記事内容は「　　」で示した。&lt;br /&gt;　「ピンク色の可憐な花をつけ、『高山植物の女王』と呼ばれるコマクサを、白山から除去する作業が27日、環境省や県によって始まった。他の地域では盗掘が問題になる人気植物だが、白山にはもともと存在しない外来種で、生態系への影響が懸念されるためだ。」&lt;br /&gt;　私がコマクサが除去されるかも知れないと初めて耳にしたのは、今年の8月21日の日曜日、南竜山荘の関係者からである。白山でのコマクサの生育地で、私が確認しているのは１箇所だけだが、それは見たところ明らかに植栽されたもので、私が知ってから10年位経過している。場所はコマクサにとっては好い？環境の礫地とは思うが、10年前と比較してもそんなに繁殖はしていない。ただ実生が幾株か見られるので、将来増えるのかなあとは思うものの、その速度は遅々としている。&lt;br /&gt;　「白山国立公園では、1992年に山頂付近で初めてコマクサが確認され、当初から人為的に持ち込まれた可能性が指摘されていた。」&lt;br /&gt;　私が白山にコマクサが生育していると知ったのは、平成12年(2000)7月19日付けの北國新聞の『北陸の自然発見』というシリーズで、宮誠而氏が前年の平成11年(1999)に撮影した『白山のコマクサと能登半島』という写真と、『人知れず咲いたコマクサ　魅惑のピンク　がれ場に植えられ』というタイトルの一文である。そこには10株位の花を付けた株と、実生と思われる株も8株位写っている。撮影した日は台風一過で大気が澄み渡っていて、能登半島も遠望できたという。氏は順調に育っているコマクサを見た時、複雑な気持ちでしたと述懐している。そしてこれに関わった人は、コマクサの生育に精通していて、その場所がコマクサの生育に適した場所であることを見抜き植栽したのだろうと。そしてその場所は花壇でも造成するように石で囲ってあったと記している。私はその場所に遭遇したくて御前峰の西側で能登半島が見える場所にこだわり探したが、その場所は特定していない。しかし今年9月11日に、白山室堂に23年間勤務されていた鴛谷さんから直に伺った話だと、御前峰の東側だという。改めて宮誠而氏撮影の写真を見て、東面で能登半島が見えそうな場所となると特定できそうだ。でもそれは登山路からは入り込んだ場所だろう。ところで写真では慎ましく、高々20株程度が写っているに過ぎないが、朝日新聞の記事はこう続く。&lt;br /&gt;　「その後、個体数は増え続け、2009～2010年度の調査では約5900株にも及んだ。」と。&lt;br /&gt;　宮誠而氏の写真でも私が知っている場所でも、10年経過していたとしても、そんなに爆発的な増殖はしていないし、成長が旺盛な植物ではなく、根も地中深くに達することから、もしそんなに増えているとすれば、実生が育っているから、種子の散布による結果だろうか。しかしこのようにべらぼうな数の植栽は考えられず、この記事を見たとき、その数の多さに仰天した。早速今は石徹白に在住されている鴛谷さんに電話して伺ったところ、いやそれ位の株数はあるでしょうとのこと、どうしてそんなに増えたのですかと訊くと、種を蒔いたのでしょうと。ケシ科の植物の種子は細かく、卑近な例では芥子粒を思い浮かべて頂ければよい。鴛谷さんはその場所をご存知で、植栽は一部で、大部分は種子由来だろうと仰った。また種子散布があったのは、およそ20年位前のことだとも。&lt;br /&gt;　「これを受け、環境省は学識者らによる対策検討会を設置、1973年頃に乗鞍岳のコマクサを持ち込み移植したという登山愛好家の証言が正しいことを確認した。DNA解析の結果、実際に白山と乗鞍岳などのコマクサの遺伝子も一致。一方、1822年以降の主要文献を調べた結果、自生していた記録はなかったことから、外来種と断定した。」&lt;br /&gt;　1973年というと昭和48年、38年前、何方かは知らないが、植栽されたと自供されたのだろうか。私が知っている方は、もし存命ならば75か76歳、その方が20年位前に種子散布されたのだろうと鴛谷さんは話されていた。そしてその種子の採取場所は乗鞍岳だったとも。それにしても文献調査の最古が1822年というと江戸時代の文政5年、当時は何と称していたのだろうか。恐らく駒草と称してはいなかったのではないか。また当時の記載には草花の記載は極めて少なかったのではと思う。それにしても現行の国立公園法では、国立公園内での植物の採取は禁じているが、植栽してはいけないとの条文はなく、採取は法律に反しているのではと思うがどうなのだろう。また鴛谷さんでは、岐阜県内に成育しているものを石川県の職員が勝手に除去できるのかとも指摘されていた。この点について石川県自然保護センターへ問い合わせたところ、この事業(白山国立公園コマクサ対策事業)は環境省中部地方環境事務所の事業であって、事業遂行の最大の隘路は、地権者との調整だけで、県はこの決定の段階では関与していないとのことであった。この決定の発表は、中部地方環境事務所で9月26日に行なわれた。そこのHPには「白山では本来分布していなかったコマクサの種が持ち込まれ、一部が生育しているが、この外来種を除去するための白山国立公園コマクサ対策事業が実施されている。」とあった。&lt;br /&gt;　「白山のコマクサの生育地点には他に8種類の在来植物が生えており、生育場所や養分などの面で悪影響を受けている可能性があるため、環境省が今後も影響を調査するという。」&lt;br /&gt;　コマクサは礫地を好む、といっても礫地に直根を深く穿って生育する。だから他に8種類というのは何かは知らないが、それらの大部分は比較的根が浅く、コマクサと競合するとは考えにくい。しかも悪影響というのはどんなことを意味するのか。もっとも外来の植物の植栽を奨励するわけではないが、コマクサが可憐であり、かつ生育環境も厳しく、また生育場所が一般登山者の目に触れることが少ない場所ならば、現行法律に則って対処されるべきではないか。朝日新聞の記事に付載されている「白山国立公園に生育するコマクサ＝環境省」の写真を見ると、宮誠而氏提供の過保護状態とは違って、のびのびと生育しているし、また1株に付いている花数も多く、逞しさが感じられる。掃討作戦が開始されたのが9月27日、恐らくその時期にはコマクサの種子は結実し、既に散布されてしまっているだろうから、根こそぎ絶やすためには、数年を要することになろう。白山自然保護センターの係員の話では、ここ10年ばかりで急に個体数が増え、それは種子散布もあるだろうが、それよりも株の分けつにより増えているとのことだった。&lt;br /&gt;　「コマクサはケシ科の多年草で、国内では北海道と東北、中部などに分布している。」&lt;br /&gt;　駒草は以前には腹痛に効く薬草として重宝され、乗鞍岳、御嶽山、燕岳、木曽駒ヶ岳ではほとんど採り尽くされてしまったという。でも木曽駒ヶ岳のほかは群生地として復活しているという。木曽駒ヶ岳では1960年以降、植栽による復旧に努めているという。&lt;br /&gt;　現在の日本でのコマクサの群生地は、北海道では、知床半島、雌阿寒岳、大雪山系、東北では、岩手山、秋田駒ヶ岳、蔵王連峰、北アルプスでは、白馬岳、蓮華岳、燕岳、乗鞍岳、ほかには、草津白根山、八ヶ岳、御嶽山、このうち私が見ているのは北アルプスの4山で、白馬岳ではその北に位置する雪倉岳が圧巻である。&lt;br /&gt;　古くは薬草として撮り尽くされた例もあることから、執念をもってすれば、絶滅させることは出来ようが、広い国立公園内のほんの狭い一画に生えるコマクサを除去するというのは、何ともしっくりこない。それよりオオバコこそ除去してほしいものだ。また外来種といえば他にもあるのに、そちらの対策はどうするのか、問題は残る。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　［平成23年(2011)9月27日付け北國新聞での記事]　を以下に記す。&lt;br /&gt;　『コマクサ除去開始　5900個体確認　白山の生態系回復　きょうから環境省』&lt;br /&gt;　環境省中部地方環境事務所は27日から、白山国立公園の高山帯で生育範囲を広げているコマクサの除去作業に乗り出す。生態系の維持回復に向けて、効果的な除去手法の確立に向けた調査も行い、将来的にコマクサがない状態を目指す。&lt;br /&gt;　コマクサはケシ科の多年草で、本州では岩手山や北アルプスなどに分布している。白山では1992年に生育が確認され、2009年度と昨年度の調査では、山頂部付近に約5900個体が確認された。人為的に持ち込まれたことがDNA解析で分かり、個体数も増加していることから、有識者を交えた検討会で、早急な対策が必要と判断された。&lt;br /&gt;　地表から10～20cm下にある成長点の上部のみ除去することで枯死させ、土壌への影響を最小限にする。個体数が多い地点では開花が予想される大きな個体を取り除くなど継続的に作業を進める。　コマクサの持ち帰りは自然公園法で禁じられているが、除去は生態系維持回復事業として行われる。&lt;br /&gt;　写真「白山国立公園に生育するコマクサ」は、環境省白山自然保護官事務所の提供。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2657683463431170685-2768992235962456682?l=kimuranobuaki.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/feeds/2768992235962456682/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/10/blog-post.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/2768992235962456682'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/2768992235962456682'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/10/blog-post.html' title='白山のコマクサ除去の受難ー掃討作戦開始ー'/><author><name>木村晋亮（Nobuaki Kimura）</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14545803047520422453</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2657683463431170685.post-2389295054998803622</id><published>2011-09-28T15:38:00.009+09:00</published><updated>2011-10-01T14:49:41.204+09:00</updated><title type='text'>ふたたび下呂市の蕎麦料理「仲佐」へ</title><content type='html'>　探蕎会の平成23年(2011)後期行事のトップは「仲佐」、探蕎会では結成２年目の平成11年(1999)11月に「飛騨そば探訪」として「仲佐」を訪れている。私はこのときは参加できず、噂では大変好評だったとか、特に蕎麦掻きが秀逸だったと聞いた。私はこれまで一度も訪ねたことはなく、その一因は何故か遠いという印象からだった。しかし家内に話すとぜひ行きたいとのこと、それではと今年の４月29日の祝日に長躯下呂温泉の「仲佐」へ出かけた。私は「蕎麦三昧」、家内は「天ざる」、二人で「蕎麦掻き」も食した。噂に違わず、全てに感動して帰ってきた。そしてこの度は、会でも二度目、私も二回目の訪問となった。&lt;br /&gt;　訪れたのは９月26日(月)、事務局では超有名店なので土日を外したとの配慮だった。高山まで高速道と専用自動車道で約１時間半、そこから下呂温泉まで国道41号線を１時間ばかり、開店は11時半、それまでには着いて下さいとのことだった。参加者は10名、和泉さんと前田さんの車に分乗して、金沢を午前８時半に出発した。天気は曇り、途中高速道の飛騨河合PAで休憩し、下呂へ向かう。途中41号線で長い片側交互通行があり、やきもきしたが、どうやら定刻５分位前に着くことができた。既に駐車場には３台の車がいた。&lt;br /&gt;　もう店の戸は開いていて、12名の畳の部屋は既に埋まっていた。私たちは小上がりの４人定員の座机２卓に５人ずつ座ることに。事務局に予約してもらって助かった。お客さんが次から次へと、今日は月曜なのにこの有様、待っている人を見ると若い女性の方が多い。この前来たときは、奥さんとほかに女性が二人だったが、今日は一人、てんてこ舞いである。&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/-eaVNr8SKX_I/ToapaIOpZMI/AAAAAAAAAt0/WeG2Gso1IB8/s1600/IMG_1812.JPG"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 400px; height: 300px;" src="http://2.bp.blogspot.com/-eaVNr8SKX_I/ToapaIOpZMI/AAAAAAAAAt0/WeG2Gso1IB8/s400/IMG_1812.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5658396248188216514" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/-xaQs4O3CggE/ToaoZvlw2bI/AAAAAAAAAts/sM4_2H96yLg/s1600/IMG_1815.JPG"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 400px; height: 300px;" src="http://3.bp.blogspot.com/-xaQs4O3CggE/ToaoZvlw2bI/AAAAAAAAAts/sM4_2H96yLg/s400/IMG_1815.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5658395142062660018" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　私達５人は「蕎麦三昧」を予定していたが、生憎付箋がしてあり、ではと「天ざる」を、それに10食限定の「蕎麦掻き」を二人に一つ、お酒は取り合えず天恩古酒を３本、それと酒のツマに「茸四種盛り」をお願いした。銚子とぐい飲みは黒の釉薬がかかった手捻りのセット、好い感じだ。付き出しには茄子の一夜漬け、中々酒に合う。そして茸盛り、訊ねると、カラスタケ、ムラサキアンズタケ、チチタケ、ショウゲンジ、聞いたことのない茸、でも飛騨ではよく見られる茸らしい。皆炊いて和え物に、若干味付けしてある。中でも烏茸は歯ごたえがあり、ヒジキやするめを噛んでいるようだった。時節もので珍しかった。次いで「蕎麦掻き」、二人で取り分けて食べる。粗挽きでホシが点々、香りも強く、温かいうちに召し上がって下さいとのこと。初めはそのまま、後は軽く醤油を付けて食べる。蕎麦の原点ともいうべき食べ方、堪能する。そして「天ざる」、天ぷらは車海老二尾にムラサキササゲに茄子、紫ささげの紫色は、お湯にくぐらしたり、油で揚げると鮮やかな緑色になることから、湯上り美人ともいうと教えられる。塩で頂く。「ざる」は二段になった鼓型の渋い濃い茶色の細い竹の編み笊、それに濃いホシのある透明感のある粗挽きの細打ちのそばがこんもりと、白い粒が見えているのは挽き割りか、こんな「そば」には中々お目にかかれないのでは。手繰ると蕎麦の香りと個性ある食感、そばつゆは辛いのでほんの少し浸して食する。こんな粗挽きで細打ちなのは、つなぎの威力なのだろう。店主は切れ切れのは「そば」じゃないと仰る御仁、だからこんな「そば」は此処以外ではお目にかかれないだろう。ここで扱っている蕎麦は、旧稲核(いねこき)村在来の「こそば」で、手刈り、天日干しにこだわり、自前目立ての大きな石臼での手挽き自家製粉、これ以上の「そば」は望めない。蕎麦湯は茹で汁、この方がナチュラルでよい。十分に堪能した。&lt;br /&gt;&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/-L7-J2bPRt5Y/ToanwgDiwdI/AAAAAAAAAtk/gxC9LCr5oHU/s1600/IMG_1817.JPG"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 400px; height: 300px;" src="http://1.bp.blogspot.com/-L7-J2bPRt5Y/ToanwgDiwdI/AAAAAAAAAtk/gxC9LCr5oHU/s400/IMG_1817.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5658394433517961682" /&gt;&lt;/a&gt;　どなたかの発案で、下呂市萩原上村の鮎の里にある観光ヤナへ向かう。国道41号線沿いで、下呂温泉から車で10分ばかり、帰り道にあたる。着いて観光ヤナに案内してもらう。飛騨川左岸寄りに設けられているが、設備は鉄製でしっかりしたものだが、先の台風12号と15号のダブルパンチの増水でヤナは水没、今は水は引いてはいるものの、ヤナには草や木の枝やゴミがかかったままになっていて、もちろん魚影はない。通常なら10月中旬まで行なうようだが、落ち鮎も予想を超える濁流で流され、ヤナ漁は見込めないとかだった。戻ると大場鰯大の鮎が串に、これから焼きに、頼んでからヤナへ行くのが正解だった。遠火で焼くので30～40分はかかるという。お酒と鮎の刺身をつなぎにして待つ。両面が焼けて塩焼きが完成、鮎は養殖だろうが、熱々は美味しい。&lt;br /&gt;　いつもの探蕎行だと、小矢部SAで総括を行なうのだが、今回は次に寄った高山市久々野町渚の道の駅「飛騨街道なぎさ」で流れ解散となった。帰着は午後５時だった。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2657683463431170685-2389295054998803622?l=kimuranobuaki.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/feeds/2389295054998803622/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/09/blog-post_28.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/2389295054998803622'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/2389295054998803622'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/09/blog-post_28.html' title='ふたたび下呂市の蕎麦料理「仲佐」へ'/><author><name>木村晋亮（Nobuaki Kimura）</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14545803047520422453</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://2.bp.blogspot.com/-eaVNr8SKX_I/ToapaIOpZMI/AAAAAAAAAt0/WeG2Gso1IB8/s72-c/IMG_1812.JPG' height='72' width='72'/><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2657683463431170685.post-8385527923243446800</id><published>2011-09-22T11:10:00.010+09:00</published><updated>2011-09-22T17:45:17.652+09:00</updated><title type='text'>『ドンキホーテの後悔』を読んで</title><content type='html'>　『随想　ドンキホーテの後悔』　　永坂鉃夫著　　前田書店　　1,500円　　(2003)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　この本を手にしたときの感想には、先生のタフさに感心し、一方で何と好奇心旺盛な物好きな方なのだろうと、また寝ずに書いたわけでもないだろうに、よくぞそんな暇がおありになったものだと、またボリュームも半端じゃありませんし、これはとても常人ではできる業ではないと記しました。頂いた当日は、家内は会議で遅れるという連絡があり、そこで『ドンキホーテの後悔』を格好のツマにして、チビリチビリと酒を飲みながら、読み出した次第です。読み出すと、実に愉快で、気分爽快。とはいっても、1/4を占める「体温十二講」は一寸アカデミック過ぎて、消化できない部分もあったようです。また1/5を割いたワインの話、これは薀蓄のある１章でした。読んで、この随想は、お酒に例えれば大吟醸、しかも清涼味のある美味しい淡麗辛口の逸品でした。以下は雑感です。&lt;br /&gt;　とまあ、これが当時の印象なのですが、今一度読み返して、当時の雑感に加えるべきは加えて、読後感としたいと思います。初の書き起こしは平成15年(2003)5月22日です。&lt;br /&gt;１．さらなる羊歯への思い&lt;br /&gt;　小生も羊歯に興味があった一時期があったこと前に書きましたが、先生は羊歯の分類に維管束を取り上げられたとは、やはり半端じゃありません。段が違います。それにしてもブルターニュには人の背丈もあるワラビが生い茂っているとのこと、日本にはありますかね。蕨餅、ひょっとして食べたことがあるかも知れませんが、本当の蕨由来かどうかは疑問です。こちらのワラビは根茎が貧弱ですから、本気でやるなら、フランスからそのお化けワラビの根茎を輸入するのも一つの手ですね。蕨粉や葛粉は当田舎で作っているのを見たことはありません。石川では唯一「宝達葛」が復活しているのみです。&lt;br /&gt;２．世界の蕎麦その後&lt;br /&gt;　今でこそ日本国はソバブームで作付け面積も増え、それでも足りず、中国、カナダ、オーストラリアからの輸入量も莫大ですが、これもブームだからで、もしブームが去れば、もっと実入りの良いよい作物の方に移行するでしょう。とは言っても、いくら味の良いそばでも、三度々々食べるには抵抗があるのではないでしょうか。それにしても、仏蘭西で蕎麦のあの白い花の波に遭遇されたあの記述、先生のクシャクシャ顔とダブって、小生まで感激してしまいました。食べ方もいろいろですが、やはり大和魂が宿っているせいか、日本国でのそばの食し方が最高と言わざるを得ません。オー・スザンナはニアミスでしたね。&lt;br /&gt;３．凡人の名前&lt;br /&gt;　先生の名前は「鉃夫」であって「鉄夫」でないのは当然です。断じて「鉄夫」であってはならないのです。現在の戸籍簿を見ると、現在は全く許容されていない字体でも、彼等が持っているアンチョコにはチャンと網羅されています。したがって、先生の名前が「鉄夫」となっていたら、間違いなので訂正させるべきです。今となっては親御さんの意図は不明ですが、とにかく戸籍での名は重大な不都合がなければ大事にすべきです。もし「鉃」の字が勝手に作られた字とすると、戸籍に登録されません。一方読み方はどう読もうと勝手であって、「テツ」と読もうが「マル」と読もうが、戸籍簿にはカナは振りません。ですから、もしテツオだったら鉄が妥当という御仁がいたら、下司の勘繰りもいいとこです。&lt;br /&gt;　話は跳びますが、私の恩師の波田野先生、金沢へ来られてからもずっと「波多野」の姓を名乗っておいででした。永平寺を訪れた折に、永平寺の執事が先生の先祖とかで、その名は代々「波田野」とか、そして先生の戸籍も「波田野」とか、何が悲しくて「波多野」とされているのですかと。その後、先生は事の重大さに気付かれてか、以降は「波田野」の鞘に戻られた経緯があります。&lt;br /&gt;４．WINE OF THE PEOPLE, BY THE PEOPLE, FOR THE PEOPLE&lt;br /&gt;　先生のワインに対する思い入れには凄い年季が入っているのにはびっくりしました。これは大関と褌担ぎ位の差に相当します。完全に参りました。御説ごもっとも、そうなんですか、そうだったんですか、一言半句口出しできません。この章だけでも、ワインの手引きとなる小冊子になります。項目を挙げておこう。項目の後の(　）書きは、私の注書きである。・ワイン小史．・ブドウと酵母(ブドウの種類とワインの熟成期間)．・ワインの醸造(ブレンドとブレンディング)．・エチケットを読む(ラベル)．・コルクと伝統．・お楽しみのはじまり(開栓)．・お楽しみの最中(ワイングラス)．・色香と味．・次のお楽しみのために(飲み残しの保存、グラスの管理)．・ワインのマナー．の以上10項。これを読んだだけでマスターできるわけではありませんが、でも疑問だった一部の謎が解明でき、清々しい感じでした。感謝々々。&lt;br /&gt;　ところで小生も高松のブドウでブドウ酒なるものを、研究室でも自宅ででもよく造りました。とくに叔父貴のいた生薬学教室が場内の旅団司令部跡に引っ越していた頃は、よく大量に仕込んで、望楼でよく月見としゃれこんだものです。醗酵は試薬アルコールで止めてましたが、度数はかなりで、口当たりは良いのですが、余計飲むと必ず悪酔いしました。女性軍には格好でした。コツはブドウの野生酵母を落とさないように水洗いのみ、砂糖は10％以内に添加し、醗酵が進んで糖分が足りなくなれば足す、もうテンパイであれば純アルを加え、暫らく寝かす。これで出来上がりです。養命酒も造りましたが、極めて濃厚、薄めても薄めても濃いという代物、あれは儲かりますなぁ。&lt;br /&gt;５．体温十二講&lt;br /&gt;　素晴らしい講義でした。一度も先生の御講義に接したことはないのですが、直接お聴きしているような錯覚で読ませて頂きました。私たちが遭遇する様々な現象に、何の不思議も感じないで過ごしているのが我々凡人ですが、実はその裏にはこんなことが起きているのだと、全部を咀嚼して消化することは全く無理ですが、あの学術的解説には、目から鱗でした。金玉のくだりなど、下世話もいいとこでした。話は替わって竹林のM、それかあらぬか良くなってきたように思います。&lt;br /&gt;　以下にこの章の項目を挙げる。：以下は私のメモである。&lt;br /&gt; (１）体温：熱中症とは、暑熱障害のうち、高体温、発汗停止、意識障害から死に至ることの多い重篤なものをいう。（２）体温計：近代の体温計の原理はガリレオの体温計に基づいているが、ダビンチの体温計の豆球なるものが物質の特性(温度の変化で色が変わる等)を利用したものであったとすれば、初の考案者はダビンチということになる。（３）体温調節ー行動性と自立性ー：理解できました。メダカの実験は以外でした。でも悪寒はこの範疇外なのでしょうね。（４）頭部の汗：これは、これから脳が働かなくてはならないだろう場面を先取りして、機能を発動させるという合目的的な反応なのでは。（５）変わった汗ー半側発汗ー：片側の皮膚部位の圧迫により、反射的に同側の発汗の抑制が起きる。（６）動物の体温：測定方法の吟味が必要だ。（７）選択的脳冷却：体温と脳温に乖離ができるのは、体温が高くても脳温だけを低く保つメカニズムが働くからである。（８）対向流熱交換：流れの方向は反対だが並行して走る動静脈の間でおきる熱交換で、四肢や鰭ばかりでなく、ヒトや多くの哺乳動物の睾丸などにもその機能がある。（９）発熱と高体温：発熱は発熱物質が脳内の温度感受性ニューロンに働いてその特性を変え、体温のセットポイントが上昇したために起きる(調節された)高体温である。一方高温多湿の環境で熱放散が著しく阻害されたりしておきる体温の高い状態を高体温(鬱熱)といい、このうち最も重篤なのが熱中症で、高温のため脳機能が破壊され死に至る。解熱剤は全く無効である。（10）低体温と冬眠：低体温には、単に熱の産生と放散のバランスが崩れておきる受動的な低体温と、発熱の逆で何か低体温を惹き起こす物質などが中枢のセットポイントを変えておきる調節された低体温(アナパイレキシア）の２種類がある。冬眠は季節の気候変動や栄養状態の変化に対する種としての適応だといわれるが、その実態はいまだ明確ではない。（11）温泉と風呂：まだ日本では足湯なるものが普及していないときに、先生がデモまがいのことをされたのには驚きましたが、外国ではむしろこちらの方が普及していたのですね。近頃は日本でもそこここに普及していますが、確かに宣伝用でしょうね。先生のぬる湯好きはお聞きしていましたが、私は42℃にセットして入ります。この間テレビで40℃以上は身体によくないとのことで、家内がうるさく言います。（12）温度感覚：正常体温のとき、最も快適に感ずる皮膚温は33℃だそうですが、気温33℃では不快感の人が多いと思いますが、この点はどうなんでしょうか。&lt;br /&gt;６．私の夢十夜&lt;br /&gt;　初めて先生の夢十夜を読んで寝た翌朝、カラーの夢を見ました。野々市の東田圃に健診車が停まっている。とそこへ、例えは悪いが、ピノキオに総太大根の上半分を双胸にくっつけたような超々ボインのおねぇちゃんが、素っ裸で小宅の庭を横切って健診車に向かって歩いて行く。ははん、近頃の若い娘はこうも大胆なのかと変に感心しているうちに目が覚めた。あんな夢、初めてだった。しかし夢なるもの、現実とどこかで接点があるのだろうか。吉の夢、凶の夢等々、学問的には全く検討に値しないものなのでしょうか。&lt;br /&gt;　臨死体験：小生も一度だけ体験しました。大出血して死にそびれたときです。これには空間遊泳と花園歩きがあるようですが、私のは後者で、途中で回れ右させられました。亡くなられた松原敏さんは二度体験され、両方体験されたとのことでした。&lt;br /&gt;７．早飯・早〇、早仕度&lt;br /&gt;　先生の早飯の特技、生来のものなのでしょうか、それとも後天的に努力して獲得されたものなのでしょうか。いずれにしても、宴会の司会進行は先生にお任せしておけば、何の憂いもないことが明白になりました。凡人では可愛そうです。これは常人が努力して出来る技ではなく、先生は重要文化財保持者(探蕎会宝人)として登録されるべきです。&lt;br /&gt;　万力とビーカー、直しの万年筆の逸話は、正に真正なお笑いでした。&lt;br /&gt;　早糞は冬山では鉄則です。特に吹雪の時が大変で、生死に関わります。これにはとっておきの実体験があるのですが、今回は割愛します。&lt;br /&gt;８．またまたドンキホーテの八つ当たり&lt;br /&gt;　２点以外は、全くその通り、小生身体全体が共鳴し、同感々々と震えました。&lt;br /&gt;　２点の内の１点は、「目線を合わせる」です。もうワープロでもすんなり出ますが、昨今、私の目とある女の子の目と合ったのは、正に目線が合ったとしか言いようがなく、とても視線が合ったでは収まりがつかないものでした。&lt;br /&gt;　もうい１点は英会話です。高校から大学教養まで英会話の授業はあったのですが、引っ込み思案で逃げ回っていました。今からすれば勿体なかったのですが、後の祭りです。日本人の英語ならまだしも、外人のは耳慣れしてないので、全くもって聞き取れません。筆談クラスです。実を言うと、新制中学では戦後間もなくで、英語の先生はいなくて専ら自習。ですから泉丘高校の入試では、特例で職業の農業を選択、英語の試験は免除でした。しかし２年後には中学校にも英語に堪能な先生が沢山復員して来られ、こんな制度はなくなりました。だから高校では大変でした。コンプレックスもいいとこです。&lt;br /&gt;　さて、すごく共鳴したのは、「じゃーないですか？」と「あげる」の乱発のくだりです。若い女の子が「じゃないですか」ならまだ可愛げもありますが、大の野郎がのたもうと反吐がでます。犬にあげる、植木にあげるなど、もってのほかです。お犬様にあげる、お植木様にあげるというならまだしも。よくぞ書かれました。&lt;br /&gt;　もう１点は某新聞社の乗っ取り暴君社長、糞喰らえ！です。全く同感。謝々謝々、謝々謝々。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　本当に楽しい思いをさせていただきました。心身ともに爽快感漲る、実に素晴らしい近来稀な通読本です。今回こそは先生の偉大さが身にしみて実感できました。今までの横着さを正さなければと痛感しました。すべてに脱帽です。今時気付くとは癲癇持ちもいいとこですが、でも気が付かないよりはましと慰めています。こんな経験はこの歳になるまで初めてです。せめて20年若ければ弟子入りしたでしょうに。我が家では次のお迎えは小生です。今からどんどん若返られれば話は別ですが、でも、断念しましょう。ともあれ、今後ともどうか宜しく、ご指導。ご鞭撻下さい。&lt;br /&gt;　勝手にいろいろ書きましたが、これが手書きだと全く判読できない代物になる恐れがありますので、ワープロにしました。小生の家にはまだパソコンが鎮座していません。協会にはあるのですが、完全に消せないとなると勝手なメールでの送信は憚られます。&lt;br /&gt;　先生にはどうかご自愛専一になされて下さい。これからも末永いご交誼を賜ることを願って止みません。&lt;br /&gt;［この項は、平成15年(2003)5月22日の記述です］&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;追記：本当に、このボリュームで誤字脱字がないのは、余程校閲がしっかりしているからでしょう。頼子嬢に負うところすこぶる大なのじゃないですか。ただ２箇所、ミスと思われる箇所がありました。&lt;br /&gt;　p 126　ⅴ　の冒頭の　ＮKH　⇒　ＮHK&lt;br /&gt;　p 138　ⅳ　の５行目　対戦国の国家　⇒　対戦国の国歌　&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2657683463431170685-8385527923243446800?l=kimuranobuaki.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/feeds/8385527923243446800/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/09/blog-post_22.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/8385527923243446800'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/8385527923243446800'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/09/blog-post_22.html' title='『ドンキホーテの後悔』を読んで'/><author><name>木村晋亮（Nobuaki Kimura）</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14545803047520422453</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2657683463431170685.post-1081378534900972945</id><published>2011-09-21T09:49:00.008+09:00</published><updated>2011-10-01T16:12:49.770+09:00</updated><title type='text'>槍見の湯は蒲田川の奥に槍の穂を望める秘湯の一軒宿</title><content type='html'>　毎年秋の連休に、家内と家内の友人と私とで、どこかの温泉へ訪ねることにしているが、今年は新穂高温泉の大露天風呂のある宿にでもと思っていた。ところがその宿は部屋にトイレがないということで、元は槍見温泉と言われていた槍見館にした。折りよく一室のみ空いていた。この一帯は温泉が多く、大きく平湯、福地、新平湯、栃尾、新穂高とあるが、これら５温泉をまとめて、奥飛騨温泉郷と称している。そして新穂高温泉には、新穂高、中尾、蒲田の３つの源泉エリアがあり、新穂高エリアは最も奥に位置している。槍見館はこのエリアの中では最も南に位置し、しかも蒲田川の右岸にある。&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/-Aw2fUnhcCyI/Toa6yoM8ToI/AAAAAAAAAuM/RY17T2Gq_Q0/s1600/IMG_1787.JPG"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 400px; height: 300px;" src="http://3.bp.blogspot.com/-Aw2fUnhcCyI/Toa6yoM8ToI/AAAAAAAAAuM/RY17T2Gq_Q0/s400/IMG_1787.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5658415360785534594" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　９月の連休は18日(日)と19日(敬老の日)、朝９時に金沢を発つ。富山からは国道41号線で南下、神岡からは国道471号線を辿り、栃尾からは県道475号線で新穂高温泉へ向かう。天気予報では曇り時々雨、２日目は雨、しかし現況は時々晴れ、新穂高ロープウェイは明日の予定だったが、時間も正午前のこともあり、今日上ることにする。駐車場はほぼ満車、人も多い。第１ロープウェイ駅からは原則30分毎の発車、最後の５人に滑り込む。駅の標高は1,117m、鍋平抗原(1,305m)まで約4分、そこから第２ロープウェイ駅(しらかば平)まで歩き、次いで高度差848mを約7分で上る。西穂高口(2,156m)には沢山の人、笠ヶ岳が指呼の間、西穂山荘から西穂高岳まですっきり見えている。奥穂や槍は雲に隠れて見えない。晴れていれば白山も見えようものを、でもこんなに展望がきくとは僥倖だった。しかし次第にガスが湧いてきて、視界が悪くなってきた。早々に下りることに。鍋平で昼食し、新穂高ビジターセンターで双六小屋等のオーナーの小池潜さんの山の写真展を見たが、プロの目は鋭い。百号位の写真もあり、すごく魅せられた。&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/-2hkHQlE5Di4/Toa8l1CftxI/AAAAAAAAAuc/xeeBoaAaOFk/s1600/IMG_1804.JPG"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 400px; height: 300px;" src="http://3.bp.blogspot.com/-2hkHQlE5Di4/Toa8l1CftxI/AAAAAAAAAuc/xeeBoaAaOFk/s400/IMG_1804.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5658417339916334866" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　宿のチェックインは午後２時、２時半になったので宿に向かう。ナビを入れ損ねて栃尾まで下り、引き返す。今度は注意深く見ながら走ると、蒲田トンネルを抜けてすぐに槍見館の標識、左の山道に入る。一車線のため、対向車があると難儀する。この日は日曜で工事がなかったが、あると入るのも出るのも午前８時から午後５時までは、午前30分2回、午後も同様で、計２時間しか通れない。工事は崩れた路肩の復旧で、斜面が急なこともあって道幅の拡幅は困難なようだ。登山道に続いていることもあって、市道とか、ただ除雪は宿の自前とかだった。宿は年中無休である。&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/-5njyCM6XhQE/Toa9KDoqm6I/AAAAAAAAAuk/2cvpJK8QKjM/s1600/IMG_1791.JPG"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 400px; height: 300px;" src="http://3.bp.blogspot.com/-5njyCM6XhQE/Toa9KDoqm6I/AAAAAAAAAuk/2cvpJK8QKjM/s400/IMG_1791.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5658417962309819298" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　この湯は宿の人の説明では、大正時代に川辺に自噴しているのが見つかり、川の水を引いて湯船を造り、笠ヶ岳への登山者の宿や湯治場として開湯した。当時は林屋といった。しかし蒲田川は笠ヶ岳、抜戸岳、双六岳、槍ヶ岳、穂高連峰、焼ヶ岳を水源としている川で、梅雨時には降雨と雪解けでの増水で、湯槽は毎年流失した。その後豊富な水を利用して独自に水力発電を開発し、温泉を汲み上げて内湯を造り、一年を通じて営業できるようにした。現在は再ボーリングし、地下60mからポンプアップで毎分450ℓの51～60℃(季節により変動)の温泉水を汲み上げている。泉質は弱アルカリ性単純温泉、加水・加温はなく、かけ流しである。水は裏山から谷水を引き、温泉水で熱交換した水を温水として利用している。この場所からは、蒲田川の奥に、右から南岳、中岳、大喰岳、そしてその左に槍ヶ岳の穂が見えることから槍見温泉と名付けられた。川に近く露天風呂を配し、中でも「槍見の湯」や内風呂からはその槍の穂を見ることが出来る。また近景には新穂高第２ロープウェイの全貌も見える。周りの林にはイヌシデがまだ緑色の四出を下げている。&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/-AB1z6iM3ONo/Toa7lzzbKcI/AAAAAAAAAuU/Vu1JfDp_wwk/s1600/IMG_1800.JPG"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 300px; height: 400px;" src="http://3.bp.blogspot.com/-AB1z6iM3ONo/Toa7lzzbKcI/AAAAAAAAAuU/Vu1JfDp_wwk/s400/IMG_1800.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5658416240073058754" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　現在の槍見館は全15室、斜面に旧庄屋の建物を移築し、素朴で力強い印象が特徴だ。内湯は男女２湯とも今年1月に全部リニューアルされ、昼間は槍が見える北側と蒲田川側の東側の戸を全面開け放てる仕掛けにし、さながら露天風呂の様相である。もっとも混浴露天風呂「槍見の湯」「まんてんの湯」や女性専用の「岩見の湯」もあり、ほかに貸切露天風呂も４湯ある。この中で「まんてんの湯」はかなり大きく、湯への入り口が男女で異なるので混浴でも入りやすい。でも売りは「槍見の湯」、槍を見ながらの岩風呂は安らぐ。&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/-IZsJ_AlmmqY/Toa5o-fqQNI/AAAAAAAAAuE/7vZGm_kdRAA/s1600/IMG_1809.JPG"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 300px; height: 400px;" src="http://2.bp.blogspot.com/-IZsJ_AlmmqY/Toa5o-fqQNI/AAAAAAAAAuE/7vZGm_kdRAA/s400/IMG_1809.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5658414095459303634" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/-VZgxdulw--I/Toa40cEwwmI/AAAAAAAAAt8/aLjBNSRtt6c/s1600/IMG_1810.JPG"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 400px; height: 300px;" src="http://2.bp.blogspot.com/-VZgxdulw--I/Toa40cEwwmI/AAAAAAAAAt8/aLjBNSRtt6c/s400/IMG_1810.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5658413192866480738" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　チェックアウトは11時、それより道路の通行が10時半から30分のみ、対向車があり難渋する。朝は陽も射し天気は好かったが、次第に雲が多くなる。栃尾から平湯へ、そして国道158号線を高山へ向かう。市内へは入らず、枝道から国道41号線へ、そして飛騨市古川へ向かう。市役所の有料駐車場は何故か無料、案内のパンフレットを貰って、先ずはまつり会館へ、３D映像で祭りを体験し、展示の実物の屋台に感動し、本来なら32本もの糸で操るからくりがコンピューターで再現されるのに感心し、切り絵職人の手慰みとかだが、本物そっくりの精巧な彫りと塗りに驚嘆した。昼食はそば盛り、その後は瀬戸川と鯉と白壁土蔵を愛で、「蓬莱」醸造元を訪ね、古川を辞した。雨は時に強く、雨の中帰りを急いだ。&lt;strong&gt;&lt;/strong&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2657683463431170685-1081378534900972945?l=kimuranobuaki.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/feeds/1081378534900972945/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/09/blog-post_21.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/1081378534900972945'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/1081378534900972945'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/09/blog-post_21.html' title='槍見の湯は蒲田川の奥に槍の穂を望める秘湯の一軒宿'/><author><name>木村晋亮（Nobuaki Kimura）</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14545803047520422453</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://3.bp.blogspot.com/-Aw2fUnhcCyI/Toa6yoM8ToI/AAAAAAAAAuM/RY17T2Gq_Q0/s72-c/IMG_1787.JPG' height='72' width='72'/><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2657683463431170685.post-6675180468194555202</id><published>2011-09-16T09:37:00.005+09:00</published><updated>2011-09-21T07:50:54.261+09:00</updated><title type='text'>石徹白への旅と話（続）</title><content type='html'>（承前）&lt;br /&gt;『かつての修験道』：昔修験者が辿った修験道は一般の禅定道とは異なり、長滝白山神社からすぐ裏手の山に登り、西山、毘沙門岳、桧峠、大日ヶ岳、芦倉山、丸山と尾根筋を経て、神鳩社で一般参拝道と合流していた。長い尾根の途中には、神鳩社までに10の宿があったという。&lt;br /&gt;『石徹白の室堂』：「民宿おしたに」の裏手からは、山の斜面の上の方に大師堂の基部が見えている。大師堂へは行かなかったが、その手前に倉庫のような建物があり、これは昔の白山の室堂を模して作られた宿舎だという説明を受けた。&lt;br /&gt;『石徹白から市ノ瀬へ日帰り往復』：まだ旧の白山温泉があった頃、石徹白川で採れた岩魚や天魚(アマゴ)を、笠場峠を越えて白山温泉にまで日帰りで運んでいたという。三ツ谷へ出たというから、六本桧か杉峠越えをしたのだろうか。&lt;br /&gt;『石徹白から室堂へ』：夏場なら、石徹白を朝５時に発てば、室堂には午後３時には着ける。&lt;br /&gt;『室堂詰め』：室堂勤務初めの頃は、５月の春山に入って、秋山の11月まで山に居た。この間石徹白へ下りるのは３回程度。いつか11月に帰る時、ドカ雪で弥陀ヶ原で肩位のこともあった。困ったのは中飯場で車が埋まったことで、あの時はブル先導で下りた。その後鴛谷さんが居るときに、開設期間を現在の10月15日までと決めたそうだ。現在職員が室堂に入るのは、5月の連休と７月１日～10月15日である。&lt;br /&gt;『奥宮の社殿焼失』：以前の奥宮社殿は落雷で全壊した。当時鴛谷さんは室堂に居て、灯油１缶を持って行き、檜の柱と銅版以外は全部社殿のあった場所で燃やしたという。檜の柱４本は後日白山比め神社へ届けたが、それは表札にされて氏子に配られたとかで、大変喜ばれた。現在の奥宮の社殿は、その後に再建されたものである。&lt;br /&gt;『御前峰の方位盤』：以前あった方位盤は、山崎さんが一人で担ぎ上げ、それは語り草になっているが、その方位盤は落雷で無惨な姿になった。これは私も見ている。その後鴛谷さん達が中部電力と掛け合ったところ、再び方位盤を寄進して頂けることになり、出来上がった方位盤も中電のヘリで運んで頂けた。土台も新しく造り替えられた。&lt;br /&gt;『森君のこと』：彼は金大山岳部の後輩で、３月に本隊の白山主脈縦走の激励に白山へ出向いたが、室堂手前の五葉坂で猛烈な吹雪に遭い、現役の一人と共に凍死した。５月になり、かの方位盤の山崎さんから遺体発見の連絡が入り、すぐに現役とOBとで隊を編成し収容した。遭難した場所には碑が置かれていて、鴛谷さんは折に触れてお参りしたと話されていた。坂に向かって右(東)に少し入った場所だったが、今は碑は撤去されて無い。&lt;br /&gt;『コマクサ』：白山のコマクサは大汝峰のガレ場に植栽されているのは知っているが、鴛谷さんでは御前峰の転法輪岩屋下のガレ地にも植わっているという。これにはリキさんが噛んでいるが、鴛谷さんも協力したと言われ、これにはびっくりした。&lt;br /&gt;『オオシラビソとクリ』：鴛谷さんの家の前庭には針葉樹があり、家内に何かと聞かれ、モミじゃないかと言っておいたが、後で鴛谷さんに聞くと、オオシラビソ(アオモリトドマツ)とのこと、52年前に白山から持ち帰った種子を蒔いたもので、ここが育つ限界の標高だとかだった。葉を揉むと、懐かしい独特の香りがした。またその近くにクリも植わっているが、実が熟する頃には、熊が栗の実を食べに来ると話されていた。&lt;br /&gt;『野伏ヶ岳(300名山)』：この300名山には夏道がなく、残雪期にしか登れないので、３月４月は登山者が多い。スキー、ボード、スノーシュー、かんじき等、歩行具はいろいろだが、春の一日、私が案内してゆっくり往復できるので、喜ばれている。&lt;br /&gt;『そのほか』：いろんな話が出たが、お酒の席の部分もあり、またメモしたわけでもないので、定かではない。翌朝も朝食が終わって、囲炉裏を囲んでいろんな話をした。沢山の人の名前が出たが、知っている人もあり、知らない人もあり、様々だ。家内に促されてようやく腰を上げた。帰り際に、奥さんから手製の精巧な可愛い草履のストラップを頂いた。&lt;br /&gt;　今日は月曜日、もう道路では工事が始まっていたが、なんとか通してもらった。それにしても、他家の駐車場を通らないと出入りできないというのは、何ともけったいな具合だ。&lt;br /&gt;● 長滝白山神社・白山長瀧寺&lt;br /&gt;　昨日通った国道314号線を300m上って桧峠(960m)へ、さらに400m下って国道156号線に出る。そして少し南下すると、道の駅白鳥があり、ここからも歩いて行けるのだったが、知らずにもう少し走って、長良川鉄道はくさんながたき駅裏の駐車場に車を停める。参道を長滝白山神社へ向かう。両脇には、現存の三坊院や古の坊院跡がある。社務所で御朱印を貰い、隣の瀧宝殿を拝観する。ここには白山長瀧寺所蔵の国重要文化財の木造釈迦三尊像（中央に釈迦如来、左に文殊菩薩、右に普賢菩薩）、その両脇には、やはり白山長瀧寺所蔵の国重要文化財の木造四天王立増（多聞天、広目天、持国天、増長天の四像）が置かれている。境内で往時の隆盛を偲ぶが、今は加賀馬場であった加賀一宮の白山比め神社の方が、はるかに活気がある。&lt;br /&gt;● 白山やまぶどうわいん・白山ワイナリー&lt;br /&gt;　国道156号線を更に南下し、白鳥から国道158号線に入る。ここには中部縦貫自動車道が出来ていて、トンネルと高架ループで峠越えをしなくてよいことになっているが、あえて油坂峠(870m)へ向かう。そんな物好きはいないと見えて、会った車は１台のみ、往年の安房峠越えを想う。でも峠を越えると程なく新しい自動車道に合流した。九頭竜湖の湖岸沿いに走るが、ずっと追い越し禁止区間、昨日覗いた道の駅九頭竜には寄らずに走り続ける。日本百名山荒島岳の麓の勝原(かどはら)を過ぎて平野部にかかってからは、表示に従って走る。国道からは５分とあったが、そうは行かない。行き着いた先はこじんまりとした２階建て、その２階に商品が置いてあり、試飲もできるが、私も家内もパスした。折角来たのでやや辛口の白山ブランというのを求める。山ぶどうワインは甘口なのでやめた。&lt;br /&gt;● あまごの宿&lt;br /&gt;　昼食はかねて行きたいと思っていた「あまごの宿」にする。初めは「あまごの里」と思っていたので、ナビでは検索できず、ドラッグストアで訊いたら宿と分かり、行き着くことができた。国道416号線に入り、行き止まり直前の横倉に目的の店はあった。広大な敷地、パノラマで見ると、32基もの八角形の養殖施設があり、山の際でもあり、常時清冽な谷水が供給されている。アマゴ(天魚)はサケ科サケ属の渓流魚、日本古来の在来種で、「渓流の女王」と呼ばれている。一方のイワナ(岩魚)はサケ科イワナ属の渓流魚、渓流の最上流に生息している日本古来の在来種で、「渓流の王様」と呼ばれている。&lt;br /&gt;　コース料理は６段階あるが、下から２番目の３千円にする。内容はアマゴの造り、塩焼き、天ぷら、甘露煮に、酢の物、山菜、吸い物、御飯で、飲み物は生中と一本義(勝山の酒)の「ひやおろし」にした。家内は川魚は得手でなく、山菜が主の野菜天と細麺の冷しかけにノンアルコール。中ではアマゴの造りが逸品だった。味もさることながら、淡い橙色が素晴らしかった。帰りに宿から３ℓもの美味しい水を土産にもらった。割り水にして下さいとのこと、有り難く頂戴した。&lt;br /&gt;　宿の女将では、神戸の人で、毎春一度はここで泊まり、越前甲へ登り、条件が良いと大日山まで行く人がいると話していた。私の美濃禅定道に付き合ってくれる宮川さんもこの間来たと話していた。登るにはここ以外にはない。&lt;br /&gt;　帰りは家内の運転、勝山までは戻らず、龍谷交差点を左折し、栃神谷で国道157号線に出て、白峰経由で家へ、途中額谷墓苑の三男の墓へ寄った。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2657683463431170685-6675180468194555202?l=kimuranobuaki.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/feeds/6675180468194555202/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/09/blog-post_16.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/6675180468194555202'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/6675180468194555202'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/09/blog-post_16.html' title='石徹白への旅と話（続）'/><author><name>木村晋亮（Nobuaki Kimura）</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14545803047520422453</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2657683463431170685.post-305582961228625420</id><published>2011-09-15T09:05:00.006+09:00</published><updated>2011-09-15T14:38:33.637+09:00</updated><title type='text'>石徹白への旅と話</title><content type='html'>　未だ一度も通ったことのない美濃禅定道を、南竜山荘から下ろうと、７月と８月に挑戦したが、７月は台風６号による強風で、８月は停滞前線による濃霧と降雨で、石徹白へ下りることを断念した。下山した後は石徹白で宿泊することにして、民宿を白鳥観光協会にお願いしたところ、「民宿おしたに」を紹介してもらえた。この時の条件は、下山した際に登山口まで車で迎えに来てもらえることだった。これに対し鴛谷さんからは、①先ず前日の晩に一度連絡下さい。②下る日、別山か、三ノ峰か、最終的には銚子ヶ峰から携帯電話で連絡して下さい。そうすれば時間に合わせて迎えに行きますとのことだった。登山口へ下りてからは、電話は通じませんとも。朝５時に南竜を発てば、１時か２時には下りられるとのこと。ところでこれで二度もドタキャンしたので、一度お礼を兼ねて寄ろうということのなり、家内と９月11日に行くことにした。&lt;br /&gt;● 石徹白へ&lt;br /&gt;　私はこれまで石徹白へ行ったことがない。金沢からは勝山回りで３時間ばかりとかで、朝９時に家を出た。白峰から谷峠を越えて勝山へ下り、九頭竜川を上流へ、ダム手前の旧和泉村役場から石徹白川に沿って、国道314号線を上流へ向かって進む。此処から石徹白下在所に至る途中にあった旧和泉村の３集落は廃村になり、石徹白まで部落はない。ただ旧村落の跡地は整備されてキャンプ場になっていた。途中から狭い峡谷沿いの一車線の道になる。かなり走って道路が広くなり、山間の峡谷から開けた明るい山地になり、家が点在してくると、そこが石徹白だった。石徹白は40年位前は福井県大野郡石徹白村だったが、昭和の大合併で岐阜県に越県合併し、現在は郡上市白鳥町石徹白となっている。&lt;br /&gt;● 石徹白の大杉&lt;br /&gt;　朝は上天気だったのに、石徹白へ着いた頃には曇ってきて、雨もパラついてきた。今度も雨かと気が滅入ったが、とにかく石徹白道の登山口へ向かうことに。上在所の白山中居神社を過ぎると道は狭くなり一車線になる。ここから登山口までは６kmの道のり、途中10台位の車と交差する。登山口には、乗用車が10台位とマイクロバスが１台、車の人皆さん銚子ヶ峰まで行ったとか、バスには運転手と客が2人ばかり残っていて、皆が帰るまで待つとか。雨が降ってきたが、ここまで来たからには、大杉へは雨でも出かけようと、山スタイルに着替え、靴も山靴に履き替えた。石段は420段、段差20cmとすれば84mの高度差、10分程度の登り、この程度なら家内も行くというので一緒に登ることに。この登山口には休憩舎もトイレもあり、水場もある。また休憩舎の脇にはスキーのストックが沢山置いてあり、家内は運転手の方に勧められたとかで、ストックを２本持っていた。その方がよい。私は何時ものステッキである。かなり急な石段、石段は丸い石で組んであるので、雨で滑る。距離は340m、丁度10分で大杉に着いた。家内は歩くと浮腫が出るとかで全く歩いていないが、ここは時間も短く、本人は大丈夫と言っている。幹周り14.5m、樹高25m、樹齢1,800年といわれる国指定の特別天然記念物の大杉である。幹の半分は枯れて、白い樹肌を見せているが、残りでは葉が繁っている。ここは標高1,000mの小さな平になっていて大杉平というそうだ。ここには美濃禅定道の今清水社があった場所でもある。ここから銚子ヶ峰までは5km、ざっと900mの登り、上り３時間、下り２時間である。&lt;br /&gt;● 白山中居神社&lt;br /&gt;　登山口から上在所に戻る。ここには20棟ばかりの家があるが、今は常住している人はいないと聞いたが、どうなのだろう。鳥居脇に駐車して参道を本殿へと向かう。大きな川石を組んだ段を下り、長瀧川を渡り、再び丸い川石を組んだ段を上ると拝殿に出る。八千余坪の境内は鬱蒼とした杉の老樹の森、中でも「浄安杉」は目通り12.1mで、この森とともに岐阜県の指定天然記念物になっている。そして一番高みには本殿があり、御祭神は伊邪那岐神と伊邪那美神で、祀られたのは景行天皇12年(83)とのことである。その後元正天皇の養老年間(717－724)に、泰澄大師が白山開山の折に社殿を修復、社域を拡張し、神仏混交となった。そして江戸時代には、神職に関わる人は二百余戸にも達したという。その後明治になっての神仏分離では、仏像などは中在所に建立された「大師堂」に安置された。また鴛谷さんでは、神宮・神社の参道で、途中で川を渡るのは、日本広しと言えども、伊勢神宮とここ白山中居神社のみとかである。&lt;br /&gt;● 満天の湯&lt;br /&gt;　今晩泊まる宿の主人は法事とかで、３時半過ぎにお出で下さいとのこと、神社を出たのが午後２時過ぎ、それで宿の主人も推奨の「満天の湯」へ向かうことにする。この天然温泉は国道314号線の桧峠近くにあり、標高は1,000mばかり、泉質はナトリウムー炭酸水素塩温泉で、源泉温度44.0℃、湧出量は134ℓ/分、本館には露天風呂、内風呂、サウナがあるほか、個室の露天風呂が10室ある。ここで１時間ばかり過ごす。土日祝日は午後９時まで営業しているので、夜は満天の星を見ながらの入浴も可能である。&lt;br /&gt;● 民宿おしたに&lt;br /&gt;　午後４時に今宵の宿「民宿おしたに」へ向かう。鴛谷さんからは、水道工事をしているので迂回しなければならず、もし分からない時は連絡して下さいとのことだったが、日曜は工事をしてなくて、頂いた地図どおりに行くことができた。&lt;br /&gt;　主人の鴛谷さんは、白山室堂の厨房に33年間おいでたとのこと、沢山の方をご存知で家の前で初にお会いしたとき、木村先生には特に懇意にしてもらいましたという話が飛び出た。その木村さんは実は私の叔父ですと話したら、びっくりされていた。外での話しに花が咲いての立ち話、話題が次から次へと、奥さんに促されて漸く中へ入った。来週の土日は、恒例の室堂友の会の集まり(室堂職員と金大医学部の白山診療班で構成)がここでであるとか、20人ばかりがお集まり、私の知っている人も何人か入っている。&lt;br /&gt;● 鴛谷さんから聞いた話&lt;br /&gt;　以下に聞いたことなどを、思いつくままに記してみる。&lt;br /&gt;『美濃馬場』：平安時代の天長９年(832)に、白山には三つの馬場（加賀・越前・美濃）が開かれ、加賀馬場・白山中宮、越前馬場・平泉寺と並んで、美濃馬場・白山中宮長滝寺は、長滝から石徹白の白山中居神社を経て、白山に登拝する美濃禅定道の拠点として発展した。その後白山信仰の隆盛とともに、美濃馬場は三馬場の内では最も栄え、石徹白の地も重要性を増し、最盛期には「上り千人・下り千人・宿に千人」と言われるほどの賑わいを見せた。しかし蓮如上人による浄土真宗の布教により、末寺の転宗が相次ぎ、往年の勢いは失われつつあったが、それでも文政８年(1825)には再建後五百年を経た大講堂が改築され、盛大な上棟遷座法要が営まれた。だが、明治維新の際に発せられた神仏分離令により、それまでの白山中宮長滝寺は解体され、大御前・別山・大汝と他の末社は長滝白山神社に、大講堂と諸堂各坊は白山長瀧寺(ちょうりゅうじ)となった。ところが明治32年(1899)に近隣の民家から出た火災で、これら本殿や大講堂をはじめ大部分が灰燼に帰してしまった。そしてその後、長滝白山神社の本殿は大正８年(1919)に、白山長瀧寺は昭和11年(1936)に焼失した大講堂跡に規模を小さくして本堂が再建され、現在に至っている。&lt;br /&gt;『大杉への参拝道近道』：現在の石徹白道の登山口へ行く林道が完成されたのは40年位前で、その折に石徹白の大杉までの420段の階段が新設された。それまでは白山中居神社の裏手から尾根通しに参拝道があり、最初に渡る谷の初河谷、次いで倉谷を渡り、大杉に至った。今この径は毎年７月半ば過ぎに、石徹白の有志により、刈り分けされている。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2657683463431170685-305582961228625420?l=kimuranobuaki.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/feeds/305582961228625420/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/09/blog-post_15.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/305582961228625420'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/305582961228625420'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/09/blog-post_15.html' title='石徹白への旅と話'/><author><name>木村晋亮（Nobuaki Kimura）</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14545803047520422453</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2657683463431170685.post-3515805010209808878</id><published>2011-09-08T08:39:00.013+09:00</published><updated>2011-09-09T07:34:47.032+09:00</updated><title type='text'>大型ノロノロ台風来襲の日、展覧会とそばと音楽会（その２）</title><content type='html'>● ＯＥＫ第310回定期公演（ファンタジー・シリーズ）&lt;br /&gt;　本来この第310回定期公演は、11月3日にショパン作曲ダグラス編曲のバレー「レ・シルフィールド(風の精)」が予定されていたが、福島原発の事故の煽りで来日中止となり、この時期に来日予定だった「ウィーンの歌姫」こと中嶋彰子(ソプラノ）とマティアス・フレイ(テノール)とピアノ伴奏ニルス・ムースの演奏会に変更となった。特にこのバレエ公演は期待していて、ぜひ観たかったのだが、来日中止ともなれば、どうしようもない。原発事故は思わぬところにも重い影響をもたらしている。&lt;br /&gt;　さてこの日はニルス・ムースがＯＥＫを指揮した。この指揮者の名を聞くのは初めてだが、彼はデンマーク王立音楽院、カリフォルニア州立大学で指揮を学び、1992～1999年まで、インスブルック・チロル歌劇場で第１指揮者を、1999～2003年まではウィーン･フォルクスオーパーの正指揮者を勤め、ベルリン交響楽団でも客演指揮をしている。&lt;br /&gt;　ソプラノの中嶋彰子は1990年の全豪オペラ・コンクールに優勝し、シドニーとメルボルンの両歌劇場と契約、その後1992年のヨーロッパ国際放送連合年間最優秀賞を受賞、1999年にはドイツ・オペルンベルト誌年間最優秀新人賞を受賞し、同年ウィーン・フォルクスオーパーと専属契約している。これまでオペラ以外でも、メータ、マゼール、小澤征爾らの指揮で各国のオーケストラと共演している。&lt;br /&gt;　テノールのマティアス・フレイはミュンヘン工科大学で建築を学んだ後、ウィーン・コンセルトヴァトリウム私立音楽大学で声楽を学び、現在も研鑽を積んでいる若手である。&lt;br /&gt;　この日のプログラムはウィーンにまつわる楽しい音楽、冒頭はシュトラウスⅡ世の喜歌劇「こうもり」序曲、太った体躯に似合わず軽やかに、しかもダイナミックな指揮をして楽しませてくれた。この後、中嶋さんのインタビューでは英語で会話、彼女の英語は実に流暢で、ネイティブそのもの、指揮者は今日の曲目はみな手の内、皆さんと共に大いに楽しみましょうと仰ってますと伝えてくれた。&lt;br /&gt;　次にテノールでモーツアルトの歌劇『コシ・ファン・テゥッテ』から「愛しい人の愛のそよ風は」が歌われたが、声は通るが、未だ歌い方は若いなあという印象を受けた。続いて中嶋彰子がモーツアルトの歌劇『ドン・ジョバンニ』から「何というふしだらな～あの人でなしは私を欺き」を歌った。聴いて、これは凄いと思った。今、ヨーロッパを席捲しているウィーンの歌姫と言われているというが、これは掛け値なしで本当だと思った。イタリア語の綺麗な発音は勿論のこと、歌唱力、声量、声の艶、どれも卓越していて、実に素晴らしかった。久しぶりに感動した。そして小柄ながら妖艶、しかも演技力も抜群だという。&lt;br /&gt;　両名が歌っている間、指揮者は指揮をしながら歌を口ずさんでいるような仕草、やはりもうこれらは手の内なのだろう。だから余裕の指揮振りだ。次いでシュ－ベルトの歌劇『ロザムンデ』から間奏曲第３番アンダンティーノ、間奏曲の中では最もポピュラーな曲、楽しく聴けた。この後中嶋さんはマティアス・フレイにもインタビュー、今度はドイツ語でのやり取り、彼女は英語、ドイツ語、イタリア語に堪能とか、素敵な才女である。&lt;br /&gt;　次いでニコライの『ウィンザーの陽気な女房達』から「さあ早くここへ、才気、陽気な移り気」、今度は歌詞はドイツ語、実に聴いていて楽しい歌い手だ。好色漢をやっつける場面が彷彿とする艶のある歌い方、さすがである。前半の最後はベートーヴェンの序曲「レオノーレ」第３番、３曲ある中では最もよく演奏される曲、指揮者が指揮を楽しんでいる様子が伝わってくる。&lt;br /&gt;　休憩を挟んでの後半はウィーンの音楽、冒頭はモーツアルトの歌劇「魔笛」の序曲、筋書きがハッピーエンドだと、序曲も明るく、楽しく聴ける。またスコアなしで指揮に専念できるということは、実に素晴らしいの一言に尽きる。&lt;br /&gt;　次いでテノールで、シュトラウスⅡ世の喜歌劇『ヴェネツィアの一夜』から「来たれ！ゴンドラ」、彼は３階の客席から歌っているのだが、声は音楽堂全体に響き渡って、すごく声量があるように聴こえた。音楽堂の構造によるものなのか、少なくとも舞台で歌っているのとは全く別人のような響きだった。そして済んだ後、あっという間に舞台まで下りてきたのは驚きで、この時の拍手は凄かった。&lt;br /&gt;　そして次はソプラノで、レハールの喜歌劇『メリー・ウィドウ』から、あの有名な「ヴィリアの歌」、情感が前面に出た歌いに、場面の情景が目に浮かび、目頭が熱くなってきて涙が落ちそうになった。こんなに心を込めて歌い上げるとは、大した歌手だ。終わって再び指揮者とお喋りをする。この日は聴衆の入りが８割くらいで、舞台から見ると櫛の歯が抜けたように見えるだろうに、来場者に謝意を表するなど、なかなかできることではない。ただ、彼女も日本へは公演の時くらいしか帰れなく、日本語とは疎遠になっているからなのだろうけれど、次に演奏される "Kaiserwalzer"の "Kaiser”は日本語では何というのと聴衆に聞いたのは、おとぼけに映った。これは後でシューベルトの歌曲集でも、同じような聞き方をされたが、本当なのかなと訝った。それは日本語訳では「美しき水車小屋の娘」として知られている歌曲集のことである。&lt;br /&gt;　そしてシュトラウスⅡ世の「皇帝円舞曲」、シュトラウスのワルツの中でも大変よく演奏される曲だ。次いでデュエットで、ジーツィンスキーの「ウィーン、我が夢の街」、やはり彼女がリードする。でも息の合った、踊りも交えての二重唱は、見ていて聴いていて楽しかった。終わって、彼は楽屋からシャンパンの中瓶を持ち出してきて、勢いよく栓を抜き、彼女が持つ盆のグラスに注ぎ、どうするのかと思ったら、客席へ下りて客に提供、７人が恩恵に浴していた。これは次に演奏されるロンビの「シャンパン・ギャロップ」の前座だった。&lt;br /&gt;　彼女の演目最後の曲は、レハールの喜歌劇『ロシアの皇太子』から「誰かが来るでしょう」、これも情感がこもった歌いだった。そしてオーケストラの酉は、シュトラウスⅡ世のポルカ「雷鳴と稲妻」、パーカッションの乗りがよく、実に凄い盛り上がりだった。今日の演奏曲目はすべて十八番なのだろうけれど、最後にこの曲を持ってきたのは、やはり意図してのことだったに違いない。楽しかっただけに、もう少し聴衆が多かったらと悔やまれる公演だった。&lt;br /&gt;　一通り公演が終わって、独唱者二人と指揮者が何回か挨拶に出た。聴衆はアンコールを期待してか、拍手は鳴り止まない。時間はもう30分近くもオーバーしている。すると彼女が、明後日にここの邦楽ホールで、指揮者のニルス・ムースのピアノ伴奏で、私達二人のデュオ・リサイタル「金沢歌曲の夕べ」をしますので、皆さん聴きに来て下さいと。そして彼女はアンコールに日本の唄を歌った。曲名は知らないが知っている歌で、「恋はやさし、野辺の花よ、」を歌った。ところが外国人が歌っているような、日本語としては違和感のある感じの歌い方になっているのには驚いた。日本語を喋っている分には全く違和感がないのに、こと歌になると違っていた。また指揮者も公演はすべてスコアなしだったのに、この歌ばかりはそうも行かないらしく、スコアを見ながらの指揮だった。終わってコンサートマスターが次のアンコールのパートを出したので、もう１曲あるのかなあと思ったが、時間がかなり超過していたこともあり、３回挨拶の後は、サヨナラをして公演は終わった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;［閑話休題］&lt;br /&gt;　こうして金沢では、９月３日は台風の影響も少なく、無事に過ぎたが、熊野川流域では、未曾有の降雨に伴う土砂災害と洪水とで、未曾有の甚大な被害が出た。また死者と行方不明者は近畿南部を中心に百名を超え、台風被害としては、平成に入っての最悪の状況となっているとか。死者・行方不明者の多くは、急峻な山間での深層崩壊や土石流による家屋の崩壊や流出、また土石流の河川への堆積による流路の変更による家屋の流出等で、特に奈良県十津川流域は、一本しかない道路の国道168号線が、何箇所も土砂堆積や決壊、橋梁の流出で、現地へ入ること自体難しく、かつ電気、通信も途絶している。現在水、食料は自衛隊ヘリによる供給に頼らざるを得ない状況とか、総力挙げての１日も早いライフラインの復旧が望まれる。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' 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Kimura）</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14545803047520422453</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2657683463431170685.post-7053282805302252213</id><published>2011-09-07T08:55:00.009+09:00</published><updated>2011-09-07T17:00:35.877+09:00</updated><title type='text'>ノロノロ大型台風来襲の日、展覧会とそばと音楽会と（その１）</title><content type='html'>● ノロノロ大型雨台風&lt;br /&gt;　平成23年(2011)8月下旬、フィリピン東方海上に台風11号、小笠原南方洋上に台風12号が発生していた。いずれも当初は西へ移動していて、一時は両台風が揃って日本へ訪れるのではという危惧があった。ところが11号は向きが北西に変わったものの、更に北寄りに進路を取ることなく、台湾から中国へと行き、熱低になった。一方の12号は大型に発達し、目の径も50kmとバカでかい台風に成長した。でも進路は相変わらず西もしくは西北西、しかしいつ北方向へ転向するかが問題だった。当初の予報では、石川県への影響は、2日には通り抜けて、3日には天気は回復するとのことだった。ところが後々の弁明では、北太平洋とモンゴルに高気圧があって、行く手を阻まれ、かつ偏西風の流れが悪くて北へ転向できず、四国南洋上でようやく北北西に向きを変えたと。でもこの時暴風域は径500km、強風域は径1,200kmもの大型台風に、中心気圧も960hPaに発達していた。しかも速度は10~15km/hと自転車並み、そのことでこの台風はとんでもない土産をもたらすことになった。&lt;br /&gt;　紀伊半島の中央に位置する紀伊山地のうち、奈良県南部を南北に大峰山脈が、それに平行して三重県との県境には台高山脈が走り、前者を源として十津川(上流は天ノ川)が、後者を源として北山川が流れ、いずれの谷も深く、谷筋にはダムが多い。十津川は奈良県から和歌山県へ入り新宮市宮井で、北山川は奈良県から三重・和歌山の県境から「トロ峡」を経て宮井で十津川と合流し、和歌山・三重県境を熊野川(旧名新宮川)となって太平洋の熊野灘に注ぐ。このうち台高山脈の盟主大台ヶ原山は、日本で最も降雨量が多い、世界でも有数の多雨地域として知られている場所である。&lt;br /&gt;　台風の四国への上陸は9月3日だったが、南洋上にあるときから進行方向東側に、南から反時計回りの大きな温かい流れがあり、かつ北太平洋の高気圧の縁からも同様に時計回りに吹き出す流れがあり、この二つがぶつかり合って、台高山脈を中心に史上空前の降雨量が記録された。大台ヶ原山の東に位置する三重県大台町(旧宮川村)と西側に位置する上北山村では特に顕著で、後者では年間降雨量2,700mmのうちの2/3にあたる1,800mmが5日間で降ったという。大台町でも1,600mm、十津川村でも1,200mmが降った。そのため山間部では降雨による土砂災害、下流の熊野川では堤防決壊による浸水被害が起きた。この台風の特徴は、大型で速度が遅く、風害よりも台風の進行方向東側の雨雲の異常な発達による猛烈な降雨、時に時間当たりにして100mmを超す降雨が長時間続いたことによる。そして、この降雨は台風が日本海へ抜けた4日にも更に続いたという。被害は近畿南部で特に甚大であった。&lt;strong&gt;&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;● 金沢賛歌！大滝由季生大作展　時空を見つめて大地に立つ&lt;br /&gt;　表記展覧会が9月3日(土)～8日(木)の6日間、北國新聞交流ホールで開催されるという案内を大滝さんから頂いた。丁度台風が石川県へ最接近するという情報があり、心配していたが、台風はこの日の未明に高知県へ上陸したとか、金沢の天気は曇り、でも降水確率は50％ということで雨靴を履き傘を持って家を出た。当初の計画では、11時に「やまぎし」へ行きそばを食い、歩いて北國新聞社へ行き、とってかえして音楽堂に戻り、午後3時から今シーズン初のＯＥＫ第310回定期公演を聴くことにしていた。バス停は我が家の前にあり、10:19の金沢駅行きに乗る予定をしていた。バスが来て乗ったものの、このバスは遅れてきた小立野行きだった。仕方なく香林坊で下りて、北國新聞社に向かうことに。&lt;br /&gt;　交流ホールは赤羽ホールの1階にあり、大滝さんほか20人ばかりの方々が見えていた。大滝さんは4年前に探蕎会で講演されたが、それによると、昭和40年(1965)に文化勲章を授与された田崎広助さんに師事され、薫陶を受けられた。大滝さんのその頃の絵の題材は「山」が多く、これは師の影響を受けてのことだったと思われる。ただ大滝さんの弁では、その絵の中には必ず生活の営みが見えることが大前提、だから純粋に山のみを描いた絵は大滝さんにはない。ずっと一水会に所属されていたが、会で大滝さんの絵を探すには山がターゲットだった。ところが師から、自分が最も愛している郷里の山河や風土を描くようにと言われ、アトリエが寺町のＷ坂上の高台にあることから、犀川を挟んで見える金沢の町並み、犀川上流に見える医王山や戸室山、そして金沢の街角など、金沢を題材とした作品に取り組まれるようになった。5年前にはそれまで描き続けてこられた「大作百二十点」が金沢21世紀美術館市民ギャラリーで開催されたが、今回は「金沢賛歌」と題して、金沢やその街角の風景を題材にした300号や200号の大作を中心とした絵の展示が主である。以下に展示された作品の名称と制作年をメモした。順は制作年順である。&lt;br /&gt;　交流ホールの入り口には薔薇をあしらった画が４点置いてあった。　(1)「薔薇」(2007)6号F.　(2)「薔薇の饗宴」(2008)120号.　(3)「窓辺の薔薇」(2008)10号F.　(4)「白い壷のばら」(2009)8号F．&lt;br /&gt;　交流ホールの展示作品：　(1)「鳥小屋のある露地」 (1965)50号F．　(2)「屋台のある街角」 (1966)80号F．　(3)「辰巳用水の雪」 (1967)50号F．　(4)「ポスターの前」 (1967)100号F．　(5)「犀川夕照」 (1987)100号P．　(6)「桜坂の月」 (1989)50号F．　(7)「けむる医王」 (1991)100号F．　(8)「戸室への道」 (1997)100号F．　(9)「五月の高台」 (2001)100号F．　(10)「神苑」 (2002)50号F．　(11)「浅野川の雪」 (2003)100号F．　(12)「戸室山と街と」 (2005)150号F．　(13)「県都悠久」 (2005)300号P．　(14)「画室の桜」 (2008)50号F．　(15)「街道筋の老舗」 (2006)60号F．　(16)「初春の賑わい広場」 (2007)60号F．　(17)「画室の窓」 (2008)50号F．　(18)「杜の都」 (2008)300号P．　(19)「いいね金沢」 (2009)60号F．　(20)「森の都に虹」 (2009)200号P．　(21)「坂の上のかざみどり」 (2010)60号F．　(22)「六月の涼風」 (2011)60号F．　(23)「卯辰山の華の宴」 (2011)300号P．　以上23点。&lt;br /&gt;　この展示には、半世紀近く前の初期の作品も出品されているが、当初はモノトーンであった画が、次第に色彩が華やかになり、300号という大作でも細部にわたって筆を入れられ、金沢のエッセンスが凝縮されているというような印象を受ける。そしてここ3年位前からは、絵の具を盛る技法を用いることにより、より立体的な感覚を持たせた豪華な作品に仕上がっている。最後の300号の作品は、ミレー友好協会展での受賞作である。&lt;br /&gt;　大滝さんは昭和4年(1929)生まれの81歳、これからも絵を描き続けると、そして特に変貌していく金沢の古き良さを画に残しておきたいと仰る。現在、石川県美術文化協会理事・日展会友・元一水会会員(平成20年退会)・ミレー友好協会委員である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;● 蕎麦「やまぎし」&lt;br /&gt;　開店は11時半なのだが、いつも11時に入るようにしている。この時間だとまだお客は来ておらず、確実にジッツできるからである。新聞社を出たのが11:10、すぐにバスに飛び乗って「やまぎし」へ、11:25だった。バスを降りたら前の駐車場は満タン、これは遅かったか、もし一杯なら諦めようと思って入ったら、私が最初だった。もっとも開店時間には席は埋まってしまった。久しぶりである。券売機には焼酎、お酒、ビール、ノンアルコールの表示もあるようになっていて、こんなオプションも付加できるのだなと感心する。焼酎(100ml)2杯と「粗挽き大盛り」を求めた。満席の皆さんも粗挽きばかりなのには驚いた。奥さんはこれまでは水曜のみのお出ましの筈なのにおいでるので聞くと、開店時からおいでた女の方が辞められ、代わりの方の応援だとか。この焼酎には粗挽きが実に似合う。お客さんは大概30分程で回転するが、私は45分位だ。待つ人もあり、出ることに。演奏会は15:00から、音楽堂のカフェテリアで時間をつぶそう。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2657683463431170685-7053282805302252213?l=kimuranobuaki.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/feeds/7053282805302252213/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/09/blog-post_07.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/7053282805302252213'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/7053282805302252213'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/09/blog-post_07.html' title='ノロノロ大型台風来襲の日、展覧会とそばと音楽会と（その１）'/><author><name>木村晋亮（Nobuaki Kimura）</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14545803047520422453</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2657683463431170685.post-6677784013102152377</id><published>2011-09-01T10:42:00.015+09:00</published><updated>2011-09-02T11:22:39.828+09:00</updated><title type='text'>『ドンキホーテの弁解』を読んで</title><content type='html'>『ドンキホーテの弁解』　One Word Too Many Again　永坂鉃夫著　前田書店　1,000円  (2002)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　私のワープロには、永坂先生の随想のドンキホーテ・シリーズの第２作から第４作の、いわゆる読後感を記したものが残っている。その読後感を「晋亮の呟き」に再録しようと思ったのだが、何故か第１作の読後感が手元にない。そこで改めて第１作の『ドンキホーテの弁解』を読み返して、読後感を書こうと思う。先生からご恵送頂いて御礼申し上げなかったことはないと思うのだが、何せ手元に残っていないこともあって、緊急に対応しようとした。ただ発行から９年を経ていて、あの時の印象と現在の印象とでは読後感に差が生じていると思われるが、それは止むを得ないのではと思っている。&lt;br /&gt;　以下の拙い読後感を、敬愛する永坂先生に捧げる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１．羊歯への思い&lt;br /&gt;　先生が羊歯に一時大変熱中され、採集に営林署の許可を貰われて国立公園内で採集されたとあるのは、単なる収集でなく、学問的な裏付けのある実績がないと許可されない筈です。私の叔父も羊歯ではないのですが、同様の採集許可を貰って白山での植物調査に当たったことがあり、私も同行したことがありますが、やはり半端ではありませんでした。先生は夢中になられていたとありますが、もう一端の羊歯の権威にまで昇華されていたように思えます。私も一時羊歯に興味を持ち標本作りに励みましたが、とても横綱と褌担ぎ程の差があるようです。私も日本シダの会が編纂した東大出版会発行の本を持っていますが、十分な活用をしたわけではありません。先生が長崎の鳴滝で見られた珍しい羊歯がヨーロッパではごくありふれた種類とのこと、先生の推理は的を射てるかも知れません。&lt;br /&gt;　コケシノブは可愛い羊歯ですが、属名が Hymenophylum&lt;em&gt;&lt;/em&gt; というのは、葉が一層で薄く、光を透過する様が、何とも初々しいからでしょうか。英名は filmy fern だそうです。あの浅い緑色はクジャクシダの淡い緑色に似てませんか。&lt;br /&gt;　春には先生お手摘みのクサソテツの若芽のコゴミをお届け下さり有り難うございます。大事にもっぱら天ぷらにして食べるのですが、何か保存方法があるのでしょうか。昔は裏の背戸にも生えていましたが、環境の変化からか、なくなってしまいました。そういえば、コンテリクラマゴケ rainbow fern も消えました。食用羊歯では古くからゼンマイは保存食でしたが、近頃はワラビも塩蔵して保存できるようです。羊歯の虫食いは余り見ませんが、先生は噛まれて何か薬用成分がと仰っていますが、薬学分野では余り興味を示す人がいないのは残念で、案外と盲点なのかも知れません。昔一時城内移転した生薬学教室の裏手にコタニワタリが生えていましたが、あのクルッとしたオオタニワタリの新葉を食べられたとか、うまいんでしょうね。でも内地ではできない相談です。&lt;br /&gt;　ヒカゲノカズラ、昔は詰め物によく使いましたが、あんなに沢山の量をどこから仕入れたのか不思議でした。山ではよく見かけますが、先生が言われるように、敷き詰めたように生えているのは見たことはありません。でも、あるところにはあるようですね。そしてあの黄色い花粉のような胞子、私たちも物理の実験で使いました。&lt;br /&gt;　先生のお母さんの実家、昔は竹薮や雑木林が広がる田舎だったとか、あっという間に竹薮や雑木林がなくなり、田圃が埋め立てられ、殺風景な街並みに変わってしまったようですね。核家族化がそれを助長しているのでは。ところで私が住む野々市町で竹薮のあるのは小生宅のみになりました。まだホウチャクソウやアオマムシグサが健在です。シケチシダ、ベニシダ、ゼンマイ、チャセンシダもいます。でも消えた植物も沢山あります。本文に出てくるドンドロベはジャノヒゲのことじゃないでしょうかね。&lt;br /&gt;２．世界の蕎麦&lt;br /&gt;　確かに世界の蕎麦情報はかなり貧困で、産出量にしても蕎麦を輸出している国のデータしか出てきませんし、喫食状況にしても断片的な記載にしか接していません。先生が国内にある各国の大使館に質問状を出されたのは正に画期的なことですが、対応は実にお粗末ですね。おそらく温帯域であれば蕎麦は栽培されていると思われますが、マイナーな食物であれば、国としての把握がないことは十分考えられることです。食形態にしても、麺形態で食べるというのは恐らく少ないでしょうね。でも少なくとも蕎麦にまつわる言葉が現存していれば、蕎麦に野生はありませんから、栽培されていたということは十分考えられますね。一部でもその成果をお纏めになっては如何でしょうか。&lt;br /&gt;　語源的には、蕎麦の実がブナの実と似ているとするのが学名以外にもあるとすると、少なくともその地域に居住する人は、ブナの実を知っていなければならないことになりますね。だからブナ林がない地域では、ブナに因んだ名称が出てこないのは当然とも言えます。「〇〇の小麦」という言い回しは、それを物語っていると言えそうですね。日本でも「くろむぎ」と呼ばれ、源順の『倭名類衆抄』十七巻には「久呂無木」との訓読がみられ、漢名の俗称「烏麦」にも通じると新島繁の「蕎麦の事典」にあります。&lt;br /&gt;　一つ気になったことがあります。本文に、赤花、白花、黄花が互い違いに植えられていたりすると、眺めてどれほど美しい景色になるだろうとありますが、ダッタンそばは別として、白と赤は交配しますので、風媒花でもあり、一緒の作付けは多分出来ない相談と思います。&lt;br /&gt;３．偉人の名前　　&lt;br /&gt;　先生の名前のテツヲのテツは金偏に矢と書く鉃ですが、この字は通常のパソコンでは出てこない字です。私のワープロでは合成できます。いま私の手元にある大修館の漢語新辞典という中辞典をを見ますと、金偏に矢と書く「鉃」は、漢音ではシ、呉音ではジ、ただ日本では鉄の俗字でテツとも読めるとあり、字義は、①やじり。とあります。一方「鉄」は、漢音ではテツ、呉音ではテチで、字義は、①てつ、くろがね。②武器、刃物。③かね、かなもの。④他の語の上につけて、堅い・強い・正しいなどの意を表す。とあり、旧字体は「　」、古字は金偏に夷である。このように前者は金＋矢、後者は金＋失で、元は金＋夷であり、成因が違うようです。&lt;br /&gt;　ポンペ先生については、広辞苑では、先生が間違いとされる Jonnkeer Johannes Lydius Catharinus Pompe van Meerdervoort とありました。戸籍は外国では全くないのでしょうか。それにしても、称号や洗礼名や出身地などが付いたものが本名となるのは、往々にしてあることなのでしょうか。でもポンペがあだ名でなく本名に落ち着いたようですね。あの作曲家のメンデルスゾーンも本名は実に長ったらしいものでした。&lt;br /&gt;４．恩師の蔵書&lt;br /&gt;　先生が恩師中の恩師と言われる高木健太郎先生、参議院議員で２期目の途中でお亡くなりになりましたね。献体法の制定に関わった方とありましたが、高木先生自身献体されたのではなかったでしょうか。私が知っているのはその程度ですが、研究者として教育者として、その発想が独創的なのは、高木先生の旺盛な好奇心のなせる業とか、弟子？達は戸惑うかも知れませんが、後になってみれば、それが大いなる財産になったことになるのでしょうね。門下生の方々は実に素晴らしい時空を持たれたものです。後に「やぶにらみの生理学」が出版されたのも、当然の帰結のような気がします。&lt;br /&gt;　さて、高木先生が残された膨大な蔵書のこと、先生が最後の整理をなさったとのことでしたが、ケリはついたのでしょうか。というのも、私の叔父は経営工学の草分けで、大学教授をしていて、その木村ゼミからは大学教授や国会議員、大会社の経営者などを多く輩出していて、争議には70人ばかりが来てくれました。沢山の蔵書があり、私は在籍していた大学に引き取って頂けないかと掛け合い、その時は快諾を得たのですが、後で組織としては困難ということになり、結果的には大部分がゴミとして処分されました。没後では、蔵書の処理というのは大変だということが分かりました。本というゴミは、通常のゴミより費用がずっと割高だとか、けったいなことなのですが、門外漢には本当にゴミなんでしょうね。&lt;br /&gt;　本の題名についた「やぶにらみ」という形容語、病名を表していないのは明白なのに、何をいちゃもんつけるのですかね。言葉そのものを抹殺するというのは正にファッショです。馬鹿の一つ覚えもいいとこです。でも病名は転換が多いですね。認知症という語を考えた人は自画自賛してるとのことですが、新しい差別語もどんどん作られているのに、これにもどんどん対応してほしいものです。先生の主張は的を射てます。「婦人」という語も差別語とか。ふざけています。&lt;br /&gt;５．修道士カドフェル&lt;br /&gt;　先生は表題が主人公で、シュルスバリの修道院を主な舞台としたミステリー・シリーズに取りつかれ、日本で評判になる前から愛読され、実物に接されていないにもかかわらず、登場する事物が頭の中でリアルに描写されるまでになられました。こうなると、機会あれば訪ねてみたいという気持ちが募るのも、自然の成行きなのでしょう。でも本当に実現されたのには脱帽です。それで空想の世界と現実の世界とは異なっていたとしても、先生は訪ねなかった方が良かったかも知れないと仰っていますが、それは結果であって、一度は訪れないと気が済まなかったでしょうね。それにしても、舞台となった町がダーウィンの生まれた町だったとは、先生ご存知だったのでしょうか。&lt;br /&gt;６．木ときのこ&lt;br /&gt;　この章を読むと、先生の博識と果てしない空想力に感心せずにはおれません。キノコはこちらでは通常コケと言ってますが、ミズゴケやスギゴケもコケです。ただコケ採りと言えば、対象はキノコです。私は採りに行く時は、必ず達人と行きます。採った茸も４割以上が毒か雑ですから、素人判断は禁物です。タマゴタケが味第一級とありますが、分かっていても採らないし食べないでしょう。それはベニテングタケが猛毒で、それに似ているからです。ムスカリンはその毒成分ですが、作用が拮抗するアトロピンはベラドンナや日本に自生するハシリドコロに含まれるアルカロイド、学生のときにはそのハシリドコロのノルヒヨスチアミンの精製に奮闘しました。しかし毒物を扱ったミステリーはあって当然でしょうし、現に事件としても起きてますね。&lt;br /&gt;　毒々しい色をした生物には触手が延びないのは人間様だけではないのですね。しかし警戒色である一方で、誘因色でもあるのではないでしょうか。落葉樹の芽鱗のほんのりとした紅色に合目的的な意味があったとは初めて知りました。&lt;br /&gt;　木に霊が宿るという念は私もそう思います。特に巨樹に出会うと、その樹には神が宿っているような気がします。巨樹の会には、発会したときの会長の里見先生とは懇意にして頂いていたこともあって、会員にはなっていますが、亡くなられてからは活動しない会員です。探蕎会でも寺田先生以下何人かが所属されているようです。今夏二度も国指定の特別天然記念物の石徹白の大杉への対面を逃してしまいましたが、せめて今年中には大杉だけにでも面会したいと願っています。仏師は樹の霊を信じ、そして魂を吹き込むと言いますが、敬虔になれば、万物に霊が宿ると思うようになるのではないでしょうか。&lt;br /&gt;７．ドンキホーテの八つ当たり&lt;br /&gt;　①マスコミのお言葉：ＮＨＫが自局の番組のナレーターの話し方の暴走に物申せないとは、ならば話し方教室など止めてしまえと言いたいですね。しかし勇気ある先生の矛先をよくぞかわしましたね。　　②カタカナ語のアクセント：日本語のカナは便利で、どんな外国語もカナに変換できますが、どっこいアクセントは原語とは似ても似つかないものになっていますが、この矯正を教育の対象にするのは、難問ですね。　　③外国語の案内：交通法規ほか、規則が国によって違うことは、よく外国へ行かれる先生はよくご存知なのでしょうが、個人の判断で「良い」が「悪い」となると、頭が混乱します。金沢でも外国語の説明文や案内文があっても、採点が「可」ではね。　　④たらいまわし：役人というのはとかく責任の所在を曖昧にするのが本分、「たらいまわし」は日常茶飯事の常套手段です。役人は権力にはへいこらするが、一市民の申し出なぞ善処しますでお終いです。　　⑤マナーと国際語：「自分にされて嫌なことを他人にしない」というのは鉄則でしょうが、とかく外国語を喋られるようになると天狗になってしまい、私は偉いのだと勘違いし、とかくマナーは二の次になってしまう。　　⑥仕方がないは国を滅ぼす：老人や障害者に席を譲るのに出くわすと、何とも爽やかな気になる。でも中には老人優先席に座っていながら席を譲らない若者もいる。でもそれを注意するには大変な勇気が要る。　　⑦医の倫理：医の倫理などあってなきが如しでしょう。医師のあるべき姿が「安逸を思わず、名利を顧みず、唯己を捨て人を救わんことを希ふべし」だとしても、実践される方は少ないのではないでしょうか。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2657683463431170685-6677784013102152377?l=kimuranobuaki.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/feeds/6677784013102152377/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/09/blog-post.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/6677784013102152377'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/6677784013102152377'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/09/blog-post.html' title='『ドンキホーテの弁解』を読んで'/><author><name>木村晋亮（Nobuaki Kimura）</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14545803047520422453</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2657683463431170685.post-7273798646105167423</id><published>2011-08-25T09:34:00.018+09:00</published><updated>2011-08-25T17:36:35.816+09:00</updated><title type='text'>人と微生物との関わり</title><content type='html'>　平成９年(1997)４月29日に金沢市で開催された石川県栄養士会の総会において、表記表題でもって特別講演を行なったが、以下はその時の講演要旨である。十数年を経て、若干違和感が無きにしも非ずだが、「晋亮の呟き」に再掲する。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　微生物というと、黴菌、伝染病、食中毒という悪いイメージを連想することが多い。事実、微生物の仕業と分かる以前にも、人類は天然痘、ペスト、コレラ等の伝染病に悩まされ、その原因が未知だっただけに、神がかりなものとして極度に恐れられてきた。食中毒にしても、これは有史以前からあったに違いなく、微生物によるものばかりではなく、経験的に、どういうものが食べられ、どういう状態が安全であるのか、またどういうものが有毒で、どういう状態になると食べられなくなるのかを、長い年月をかけて会得してきた。&lt;br /&gt;　しかし一方で、これも微生物の仕業と分からなかったまでも、人はおろか猿までもが、酒を醸しだす技術を身に付けるようになったが、これは微生物の有用な利用の一方の旗頭として、我々人類にとってはなくてはならないものとなっている。&lt;br /&gt;　ところで、微生物学という学問は、伝染病の原因究明という大義名分のもと、病原微生物学として発展してきた。しかし、人にとって病原微生物といった場合、この一群の微生物は、とりもなおさず人の体温、すなわち37℃近辺を最も至適温度として増殖できることが最大の条件であり、大部分の病原微生物はこの範疇に入っている。しかしながら、このようないわゆる中温菌といわれる一群の菌群は、全体の微生物からすれば極めて少ない一握りでしかなく、大部分の微生物は自然界に広く分布している。そしてその生息する場所は極めて多様で、地中深くにも、気温が高い乾燥した砂漠にも、一年中氷で覆われている南極大陸にも、90℃を超える非常に高温な温泉の中にも、水深１万ｍを超す海底にも微生物は生息している。そしてこの自然界には、我々が未だ知らない微生物が、かなりの数存在しているであろうことは、十分予想されることである。&lt;br /&gt;　我々は微生物の洪水の中で生活をしていると言っても過言ではない。土の中、水の中、空気中等の環境、我々人体の表面、口、鼻、喉、消化管、生殖器等、外気と接しまたは通じている器官には、夥しい数の微生物が常在している。このような微生物の一群はノーマル・フローラ：正常細菌叢と呼ばれているが、平常は我々にとって不都合なことはほとんどなく、かえってこのようなフローラのない方の害の方が遥かに大きく、人の場合でも、大部分のノーマル・フローラは宿主である人と共存共栄、すなわち「共生」している。&lt;br /&gt;　我々にとって、食品や食材の腐敗は好ましいことでないばかりか、病気の一因となる。しかし、これら自然界に無数に存在する微生物は、自然界にとってはなくてはならない存在である。物質の輪廻を考えてみると、植物は無機体から有機体を形成するが、有機体を無機体にすることは出来ない。また動物は人も含め、有機体を利用し、有機体を排泄している。すなわち、動物も植物も有機体から構成されているが、有機体を無機体にする能力を持ち合わせてはいない。ということは、もしこの世の中に微生物、とりわけ有機物を利用する細菌が存在しなかったら、有機体のみが蓄積されることになり、地球上は夥しい量の動植物の屍骸と糞尿とで覆い尽くされてしまうことになる。人がもし有機体を無機体にしなければならないとしたら、燃焼以外に方法は見当たらない。このように微生物の環境浄化力は人智を遥かに超えている。&lt;br /&gt;　さて、我々の日常生活を見回してみても、微生物の恩恵に浴していることが如何に多いかに気付くはずである。発酵食品としての酒類(アルコール飲料)、味醂、食酢、大豆製品の味噌、醤油、納豆、水産加工品の鰹節、なれ寿し、くさや、塩辛、魚醤、乳製品としてのバター、チーズ、ヨーグルト、乳酸菌飲料、そのほかにも、パンや漬物、紅茶やウーロン茶等々、我々が口にするもので、微生物の恩恵に浴しているものは枚挙にいとまがない。また、酵素、ホルモン、ビタミン、抗生物質、ステロイドのほか、アルコール類、有機酸類、アミノ酸等も、その製造はまだまだ微生物に依存しているウェイトが高い。一方で、厄介ものの難分解性の合成洗剤、プラスチック、ＰＣＢ，あるいはタンカーから流失した重油の後処理に、微生物による生分解が期待されていて、既に一部は実用化されている。このように、微生物は昼夜を分かたずに働き続けてくれ、もっと英知を傾ければ、我々人類はまだまだ微生物に頼れる部分が多くあるのではなかろうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　さて、抗生物質やワクチンの普及、栄養や環境の改善、衛生思想の敷衍等によって、人類は伝染病の恐怖から解放され、もはや伝染病は過去のこととして我々の脳裏から忘れ去られようとしている。確かに、恐れられた天然痘(痘瘡)は、1980年には地球上から根絶されてしまったし、日本でも、戦前は多かったコレラ、赤痢、腸チフス、パラチフス、発疹チフス、ジフテリア等の伝染病は、皆無かもしくは極端に減少してしまった。ところが一方で、日本では発生が見られなくなったトラホームは、中国や東南アジアでは未だ重要な疾患であり、これによる失明者もまだまだ数多い。また発展途上にある国々では、３人に１人は感染症で亡くなっていると言われており、ＷＨＯの統計でも、1995年の死亡者数は約1,700万人に達したと報じられている。&lt;br /&gt;　現代医学は感染症の制圧に成功したかのような錯覚を感じさせていた時、突如として、先進国でも今まで経験したことがなかったような感染症が人類に襲いかかってきた。1981年に忽然として現れたエイズ：後天性免疫不全症候群を初めとして、新しい感染症が次々と現れてきた。日本でも1996年に大流行した腸管出血性大腸菌Ｏ157については未だ記憶に新しい。このように新しく我々の目の前に出現した感染症をエマージング・ディシーズ：新興感染症と呼んでいる。何故このような新しい感染症に我々は遭遇したのだろうか。一説に、20世紀後半の世界人口の急激な増加は、食料増産のために未開の土地を開かざるを得ない状況を作り出し、それに伴う環境破壊によって、これまで人類が知らなかった未知の新しい病原体と遭遇したと予測する人もいる。ともあれ致死性の高い新型の感染症が人類を苦しめることとなる。特にアフリカ奥地、アマゾン流域は、生態系が多様なことで知られているが、一方で病原体が潜む絶好の場所でもある。致死性の高いエボラ出血熱、マールブルグ病、ベネズエラ出血熱等しかりである。このほかにも、英国で起きた狂牛病、その病原体はプリオンと言われているが、クロイツフェルト。ヤコブ病との関連も取り沙汰されていて、牛から人への感染とも相まって、恐怖感が払拭されないでいる。これら新しい感染症は確たる治療法が確立されているわけではなく、またその感染のメカニズムも解明されていないのが現状である。&lt;br /&gt;　さて一方で、古くて新しい感染症、リエマージング・ディシーズ：再興感染症も疎かにはできない。インフルエンザは毎年流行する身近なウイルス病であるが、その根絶は極めて困難である。人類にとって「最強最後の感染症」と言われる所以は、その変わり身の速さにある。変幻自在に変化し、免疫系の網を潜り抜け、生き残る逞しさには脱帽せざるを得ない。化学療法剤もワクチンも決め手を欠いている。また日本では制圧に成功したかのように見えた結核も、ここ数年は増加の傾向にある。ＷＨＯ発表の1995年の感染症による死亡者1,700万人の内、結核による死亡者は約300万人と言われ、この数字は結核が世界的に大流行した1900年前後の年間推定死亡者数を大きく上回る史上最悪の数字と言われている。特に米国では、エイズ患者が結核を発病するケースが増えてきており、20～40歳台の患者の増加が問題視されている。1995年には、結核以外にも、世界中でコレラが前年の４倍を超える規模で流行した。新型のベンガル型コレラ菌Ｏ139によるものである。日本でもバリ島帰りのコレラ患者多発は未だ耳に新しい。&lt;br /&gt;　そのほか、日本では、24時間風呂でのレジオネラ菌による感染、クリプトスポリジウム原虫による大量水系感染、サルモネラ・エンテリティジスによる食中毒の大量発生、ＭＲＳＡ(メシチリン耐性黄色ブドウ球菌)やＶＲＥ(バンコマイシン耐性腸球菌)等の薬剤多剤耐性菌やセラチア菌等のいわゆる日和見菌による院内感染等々、抗生物質の開発は限界に近いと言われているだけに、不測の事態を起こしかねない状況にある。&lt;br /&gt;　地球温暖化も厄介である。病原体を運ぶ吸血昆虫が生息域を拡げ、熱帯域での風土病であったデング熱やマラリアや寄生虫病が、再び温帯域まで拡がってくる恐れもある。&lt;br /&gt;　しかし一方で、ワクチンの適切な投与により、今後根絶が期待できる感染症も少なくない。ポリオは1961年の生ワクチン投与以降、日本では患者の発生はほぼ皆無に等しくなったことはまだ記憶に新しい。現在このポリオ根絶作戦は、中国や東南アジアで、日本が主導して展開中である。またＭＭＲワクチンが普及するようになれば、麻疹(はしか)や風疹、ムンプス(おたふく風邪)」の発生を激減させることが出来ようし、Ｂ型肝炎や成人Ｔ細胞白血病も、適切な対応とワクチン投与により、将来はなくなるであろう。エイズやＣ型肝炎にしても、例え感染しても、ヘルペスウイルスグループ感染の例のように、発病を抑えることが可能になり、ウイルスと共存して生きていけるようになるであろう。トラホームやらいについては、治療法が確立されたこともあって、日本では、その予防法の必要性はなくなり、既に廃止された。&lt;br /&gt;　これまで人類は英知でもって感染症に立ち向かい、困難を乗り越えてきた。これからも例え新型の感染症が出現したとしても、化学療法剤やワクチンを含む免疫学的、分子生物学的療法でもって、それを克服するに違いない。しかし、忘れてならないのは、病原体も生き物、人智をもってする数多くのバリアーを乗り越えて子孫を増やそうと策を弄するであろう。とすると、人と病原体との闘いは、長い目で見ると、どちらの勝利もない、いわばいたちごっこの、延々と際限なく続く、デスマッチと言えるかも知れない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ところで微生物工業は、従来の醗酵工業から脱皮して、新しい世代に入ってきた。醗酵工業では、培地中に微生物の代謝産物を蓄積させ、それを単離して利用するのが一般的な常法であり、その収量を上げるために、自然界で自然に起きる突然変異株(細胞分裂100万回～100億回に１回起きるといわれている)の中に、より優れた株がないかをチェックしてきた。しかし、この「啼くまで待とう」式では、極めて効率が悪いうえ、時間を要した。そこでより突然変異株を効率よく作り出すため、人為的に変異原を用いて誘導する方法が考案された。それには、Ｘ線、γ線、紫外線を照射する物理的な方法と、変異原物質を用いる化学的な方法とがあるが、これらの方法は「啼かせて見せよう」式とも言える。その後の解明により、これらの変異は、遺伝子の傷、複製の間違い、組み換えや再編成、動く遺伝子の介入によっていることが判明し、ＤＮＡ上では、塩基や塩基群の添加、欠損、置換、重複、転座、逆位等がみられた。&lt;br /&gt;　一方、細菌を用いた遺伝情報の伝達の研究から、細菌等の原核細胞には、体染色体のほかにプラスミドという伝達可能な遺伝子が存在すること、細菌ウイルスであるバクテリオファージの中には、その遺伝子を細菌の体染色体に取り込ませて組み換えを起こし、溶菌することなく細菌の増殖につれて増殖する溶原化現象を起こす株があることが分かり、プラスミドによる伝達(接合)やファージによる形質導入が可能になった。また、ある細菌から抽出したＤＮＡを他の細菌に取り込ませる形質転換の方法も確立され、細菌間の遺伝情報の伝達に止まらず、外来遺伝子ＤＮＡを異種の細胞内に導入し、その形質を発現させるということが可能になった。&lt;br /&gt;　更に、ある細胞から抽出したＤＮＡから、目的とする遺伝情報のみを、制限酵素というハサミで切り取る技術が開発され、この情報を運び屋である自己増殖性のある小型ＤＮＡのベクター(プラスミドか溶原ウイルス)に、同じ制限酵素で開裂させた箇所にノリの役目をするＤＮＡリガーゼを用いて結合させ、この両種の雑種である組み換えＤＮＡ分子を形質転換の技術を応用して宿主の細胞に移し込む、遺伝子組み換え技術が開発された。この宿主の遺伝子工場には、大腸菌、枯草菌、酵母等が好んで用いられ、ヒトの生理活性物質の多くがこの方法で作られ、利用されている。その他、細胞融合やベクターＤＮＡのみを増幅させる方法も考案され、微量生産物質の大量生産も可能になった。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2657683463431170685-7273798646105167423?l=kimuranobuaki.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/feeds/7273798646105167423/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/08/blog-post_25.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/7273798646105167423'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/7273798646105167423'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/08/blog-post_25.html' title='人と微生物との関わり'/><author><name>木村晋亮（Nobuaki Kimura）</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14545803047520422453</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2657683463431170685.post-7013752522828864179</id><published>2011-08-23T10:16:00.011+09:00</published><updated>2011-08-23T15:53:27.992+09:00</updated><title type='text'>濃霧・雨･風で再び石徹白への下りを断念</title><content type='html'>　別山からさらに南へ延びる美濃禅定道(南縦走路)は一部を除いてまだ走破したことがなく、今年はどうしても踏破したいと願っていた。急いでいるのは一つは年齢の壁であり、年々体力とバランス感覚の衰えが進行しているように思えるからである。幸い宮川さんという一回りも若い助っ人を得、かつ前田さんの協力もあり、何とか成就できないかと願っている。今年の最初のチャレンジは7月18日、これは16･17日の土日は満員で宿泊できなかったからで、実は後の祭りになるのだが、今から思えば18日を15日にしておけば、台風6号の影響も受けずに、成就できたのではと思っている。それが判断ミスで18日としたものだから、台風の影響をもろに受けてしまった。天気予報では北陸への影響は20日以降とのことだったが、高山では２日前からも大きな影響が出ていた。こうして初回のチャレンジは特に風の影響でもって不首尾に終わった。&lt;br /&gt;　次いで計画したのが8月7～9日の日～火、結果的にこの期間は天気が安定していて申し分なかったのだが、石徹白はこの週全村挙げての体験ツアー受け入れがあり、宿泊は全く駄目とかで断念せざるを得なかった。お盆は空いているとは言われても、こちらも旧盆でいろいろ都合があり、リベンジは盆明けの土～月の8月20～22日を予定し、協力していただけるお二方の了解も得た。&lt;br /&gt;　当日４時半に家を出立、家内運転で１時間程で市ノ瀬へ、5時20分発のシャトルバスで別当出合へ、天気は曇り、でもガスで視界は悪い。天気図では、日本列島に停滞している秋雨前線が幾分北寄りだったのが南下したため、北陸も大きく影響を受けることになった。でも少々の悪化ならばリベンジには特に大きな障害とはならない。６時10分前に歩き出す。高度が上がるにつれガスは濃くなり、甚之助小屋辺りではもうミルキーホワイト、何にも見えない状態だった。ところが更に高度が上がると、このガス帯を抜け、別山の山並みがくっきりと見えるようになり、眼下にはミルキーホワイトの雲の層が広がっている状況に。しかし空には厚い高層雲があり、陽の光はない。&lt;br /&gt;　南竜山荘には８時過ぎに着く。何時もだと受付は午後からなのだが、山荘へはもう入れますとのことで、部屋に荷を置き御前峰へ向かうことに。今日は120名の宿泊とか、やはり土曜はほぼ満員のようだ。主任の方に聞くと、予報では午後には雨になるとか、昼食と雨具を持って出かける。出掛けに小母さんと話していると、植生されたコマクサを除去する話が持ち上がっているとか、どんどん繁殖するオオバコと同一視されては叶わないのだが。小母さんは植生した御仁も知っていた。また雷鳥の居場所は御前でなく大汝だという話を聞いたとか。私は御前のような気がするが、でもそれは単なる勘でしかない。小母さんは上馬さんに聞いて見ないととも言う。彼は雷鳥をビデオ撮りした当人だが、彼は現在県の白山自然保護センターの次長でもあり、彼は話すことはないだろう。ひとしきり話をして室堂へと向かう。トンビ岩コースを辿る。この前通ったときはこのコースにはかなりの残雪があったが、もう雪は全くない。雪が溶けるのが遅かった斜面には、コイワカガミやアオノツガザクラが丁度満開、ピンクとホワイトグリーンの絨毯を形成している。御前坂の上部ではもうベニバナイチゴが赤い熟れた実をつけている。ミヤマリンドウも青紫の花を咲かせている。&lt;br /&gt;　室堂前の広場で食事をする。何時もは登山者で一杯になる広場も、この日は半分程度の入り、旧盆が済んでピークが過ぎた印象を受ける。雨がポツリときた。ガスも少しだがかかり始めた。雨具を着け頂上へ向かう。今室堂平はハクサンフウロとイブキトラノオ、オンタデが丁度花盛り、特に濃いピンクのハクサンフウロは圧巻だ。頂上への径で、60ℓのピンクのザックカバーを付けた人が前を歩いている。こちらはほとんど空身、なのに中々追いつけない。とうとう頂上まで追いつけなかった。頂上でご対面したら小柄な女の子、これからどちらへと聞いたら南竜のテン場とか、その荷物を持ってまた下りるのですかと言うと、これはザックカバーだけなのですと、道理で追いつけなかったわけだ。ガスも次第に濃くなってきた。&lt;br /&gt;　予定どうり展望コースを下る。ガスで視界は全く利かず、ただ黙々と下るのみ。展望台からの下りで、子供を含めた中年男性の一団、室堂泊まりとか、お天気が好ければ素晴らしい展望が開けるが、この雨とガスでは余りお勧めできるコースではない。雨も次第に強くなる。４時間半余りの周遊、濡れたものを乾燥室で乾かす。一段落し、これから食堂で、この前のように一杯しようと思ったら、大勢の人数の弁当作りとかで２時には食堂はシャットアウトになり、部屋飲みになる。５時に夕食、気温の低下もあって、ビールでなく熱燗にする。ガスは次第に濃くなる。別棟ではギターのコンサートとか。お陰で8時消灯が8時半に、この間食堂でテレビを見ながらの飲み、主任と副とバイトの学生５人、お酒と焼酎をお相伴になる。話の中で主任はまだ独身とか、お客の８割方は女性というのに、勿論ペアあり、中高年ありだが、若い山ガールも結構多いというのに。アルバイトは古くは女子短大生だったが、ここ10年ばかりは金沢工大のスキー部員だとか。山荘に常駐は5人、バイトは土曜の午前に来て、日曜の午後に帰るパターン、速い人は山荘から中飯場まで下り30分とか、驚くべきタフさだ。そう言えば、新しい甚之助小屋の建設にあたって、あそこの現場主任は、中飯場から長靴履きで毎日30分で通う野々市の人だった。&lt;br /&gt;　コンサートは終わり、飲みも終了。窓には明かりを求めて沢山の白い翅の蛾が、主任では明日は雨は大したことはないと言う。雨になる日はこの蛾は来ないと言う。でもガスはますます濃くなったようだ。隣の小舎がもう見え難い。&lt;br /&gt;　夜中に起きてベランダに出ると、ガスは濃く、ホワイトアウトとまでは濃くはないものの、それに近い状態、小雨が降っている。風も混じってきて、時々ヒューという息が聞こえてくる。今日の夕方の雨とガス程度なら決行しようと、夕食後、前田さんにも、石徹白の民宿「おしたに」へも、家内へもその旨伝えたところだが、こう視界が悪いと、別山越えは難しいかも知れないと思うようになる。でもこんな状態の中、３時にペアが、３時半には６人のパーティーが出発していった、昨晩おしたにさんには別山まではよく通い慣れた径ですのでとは言ったのだが、こうも状態が悪いと断念しなければならないのではと思い直した。予定では5時の出立だが、もう１時間だけ様子を見ることにする。もう１晩泊まって様子をみようかとも思ったが、昨晩の気象衛星画像を見ると、前線の雲が日本列島をすっぽり覆っているようで、明日快方に向かうという保証はない。濃いガスと小雨、それに風も出てきて、終に断念することにした。６時に民宿「おしたに」へ電話、やはり無理でしょうとのことだった。家内にもその旨伝える。前田さんには明日のことなので、市ノ瀬へ下りてから宮川さんに伝言してもらうことにする。ほとんどの方が市ノ瀬へ下るようだ。私たちも７時に山荘を出た。&lt;br /&gt;　南竜分岐から標高が下がるにつれて、ガスの濃さは段々薄れてきたが、雨粒は大きくなり、本降りの様相になる。甚之助小屋に着くまでは余り上りの人とは会っていない。小屋では数人がシュラフに包まっていた。新しい小屋は実に快適、トイレもきれいで気持ちが良い。しかし小屋を過ぎた辺りから、この雨の中、続々と沢山の登山者が、そしてその８割近くが女性、妙齢の若い方も多い。何が彼女らを駆り立てるのか。天候が少しでも快方に向かうことを願わずにはおれない。40人近くの団体も２パーティー。上る人をやり過ごしたり、またお喋りもしたりで、ゆっくりと下る。以前だと旧盆を過ぎると登山者はぐっと少なくなったものだが、これもブームだからなのだろうか。私たちが２時間10分もかかって別当出合に着いてからも、登山者がシャトルバスで上がってくる。下ではガスは薄れているが、まだ雨は間断なく降っている。&lt;br /&gt;　シャトルバスは９時半に市ノ瀬へ、金沢駅行きのバスは、8月20日を過ぎると午後1時30分1本のみに、時間があるので、永井旅館の日本の秘湯にでも浸って疲れを癒すことに。この温泉は掛け流し、食塩・炭酸泉、源泉は48℃だが、掛け流しの方は加温なしなので、気温によって湯温が異なりますという断り書きがしてある。一方大きな浴槽は加温循環式なので熱い。我々がトップ、ゆっくり温泉に浸れた。旧の本館にあった浴槽は小さかったが、新館の浴槽は明るくてきれいで気持ちが良い。上がってお決まりのビール、まだバス出発まで2時間以上、カップラーメンで腹ごしらえをする。この頃から続々と入浴客が、女性も多い。浴場は芋の子を洗うが如き状態だろう。助っ人の宮川さんからは、昨晩に引き続いて山の話をいろいろ聞く。年に50日も山へ行っているとか、近場の山も、また積雪期にも、でも写真での記録はあるものの、それ以外の記録は極めて少ないのは勿体ない。私はどんな小さな山行でも記録を取るが、彼は一切しないようだ。また文章にも残していない。聞くと実に素晴らしい山行もあり、写真のみでなく、ほんの印象だけでも書き記すように勧めたのだが。でも写真は玄人はだしの作品もあるようで、コンテストに出さないかと言われているとか、本人も意欲はあるようだ。&lt;br /&gt;　別当出合を13:30に出た金沢駅行きバスは満員、市ノ瀬を10分遅れで出発した。このバスには生まれて初めての乗車。びっくりしたのは白峰車庫で5分間のトイレ休憩、その後白峰の街中の旧道を経由し、何故か尾口瀬女の道の駅へ立ち寄り、鶴来でも街中の旧道に入り鶴来駅へ、それから鶴来街道を野々市へ。金沢駅への急行バスとあったが、とんだ寄り道だらけの急行バスだった。&lt;br /&gt;　こうして石徹白へのリベンジはまたも敗退となった。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2657683463431170685-7013752522828864179?l=kimuranobuaki.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/feeds/7013752522828864179/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/08/blog-post_23.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/7013752522828864179'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/7013752522828864179'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/08/blog-post_23.html' title='濃霧・雨･風で再び石徹白への下りを断念'/><author><name>木村晋亮（Nobuaki Kimura）</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14545803047520422453</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2657683463431170685.post-8187497638591205894</id><published>2011-08-19T10:27:00.009+09:00</published><updated>2011-08-19T15:10:31.126+09:00</updated><title type='text'>平成２２年開催のゼレン会への近況報告</title><content type='html'>● まえがき&lt;br /&gt;　私は昭和34年3月に金沢大学薬学部を卒業した。その同窓生の会の名称が「ゼレン会」である。この命名に当たっては、私は卒業時にかなり重度の胃潰瘍で入院していて参画できなかったが、経緯は卒業年を原子番号34にあやかっての命名と聴いている。元素記号はSeで、日本名はセレン、英名は Selenium 、ドイツ名はSelen で、命名はドイツ名の日本式ドイツ語読みによる(ドイツ語ではゼレーンと発音)。あの頃は薬学の分野ではまだドイツ語が幅を利かしていたものだ。ところで昨年(2010)は9月に同窓会があったが、その折幹事から同窓生各位に近況報告をと頼まれしたためたものを、「晋亮の呟き」に再録する。因みに今年(2011)は5月に宮城県で開催予定だったが、3月に未曾有の東日本大震災があり、中止になった。ゼレン会はこのところ毎年開催している。&lt;br /&gt;● 近況報告&lt;br /&gt;（１） 健　康&lt;br /&gt;　私は現在石川県予防医学協会という健診機関に勤務していることもあって、年に２回の健康診断を受けている。直近の検査は７月末、指摘があったのは、糖代謝と脂質代謝、前者は HbA1c が 6.2、後者は LDLコレステロールがやや高めである。糖尿病については薬物療法を行なっているが、それだけでは数字の改善は望めず、加えて食事療法と運動療法を行なっている。もっとも食事は完全な糖尿病食ではなく、心掛けているという程度。運動は毎朝６km１時間のウォーキングを行なっているが、これは皮下脂肪減少や糖代謝促進に対して若干の効果があるようだ。ただこれには筋トレ効果はない。&lt;br /&gt;　ほかにはペースメーカーを装着しているので、年に２回の健康診断と機器チェックがある。また消化器がん予防のため、年に１回、食道・胃・大腸の内視鏡検査を受けている。常用薬としては、糖尿病用薬、高脂血症用薬、緩下剤、消化性潰瘍治療薬、降圧薬を服用している。&lt;br /&gt;　飲酒は医師の指導もあり、１日酒換算４合から２合に減量、また酒は自主的に糖分の少ない蒸留酒をメインにしているが、どんな酒にでもそれぞれの個性があることから、酒の種類による好き嫌いは一切ない。健診の勧告では、酒は１日１合、週に２日の休肝日をというが、それは無理というか不可能な相談だ。ただ入院中の禁酒は厳守している。&lt;br /&gt;（２）白　山&lt;br /&gt;　白山では絶滅したと思われていた雷鳥が、昨年(2008)の６月に雌１羽だけであるが、生息していることが確認された。その後昨年には越冬したことが確認されたものの、今年は８月まで未確認だったが、９月になって漸く居ることが確認され、これで２度越冬したことになる。昨年採取された抜け落ちた羽のＤＮＡ鑑定では、北アルプスにいるコロニーと同じであることが確認されている。北アルプスから来たとすれば、どうして来たのだろうか。&lt;br /&gt;　白山にコマクサは自生していないが、10年前に植生した人がいて、新聞でも紹介されたことがある。新聞紹介の場所は御前峰の北側だが、そこは私はまだ確認していない。３カ所位あるらしいが、私が毎年眺めに出かけているのは、大汝峰の頂上西方の礫地、成育場所としては申し分ない環境だが、そんなに増えているわけではない。ただ実生は育っている。日本のある町では、勝手に植生した駒草を除去したと報じられていたが、ここは国立公園なので、引っこ抜いて除去することはできない。私としてはこれからも見守っていきたい。&lt;br /&gt;　国立公園内でも、除去が歓迎されている植物がある。それはオオバコとスズメノカタビラである。道路周辺に多いということは、登山者の靴に付着して侵入してきたもので、毎年ボランティアを募り駆除している。でもその除去区域は山小屋周辺に限られている。中でも特に深刻なのはオオバコで、南竜周辺は以前はハクサンオオバコの群生地だったが、今は２つの種の中間雑種が跋扈していて、のっぴきならない事態になっている。&lt;br /&gt;（３）そ　ば&lt;br /&gt;　学生の頃も「そば」は好きだったが、当時の金沢には自家製のそば(そこは機械打ち)を出す店は１軒のみしかなかった。石川県自体が「うどん圏」だったからでもある。当時は東京23区内でも、蕎麦屋は百数十軒位ではなかったろうか。学生の頃は山に夢中だったから蕎麦まで気が回らなかったが、石川県に奉職してからというもの、出張時には、地図を片手に都内の蕎麦屋をほっつき歩いたものだ。でも今はそばブーム、東京には少なくとも３千軒以上の蕎麦屋があるだろう。私の師匠も「そば」が好きになり、それこそ全国の蕎麦屋巡りをした。高じて十数年前に金沢で「探蕎会」なるそば同好会を立ち上げ、会員は全国津々浦々へ出かけている。会でもツアーを組み、これまで北海道、四国、九州を除く各地に出かけ、単に「そば」を食うばかりでなく、その地の文化に接し、その地の酒を愛で、いわゆる「探蕎」を続けている。もし興味ある方は「探蕎会」で検索してみて下さい。    &lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2657683463431170685-8187497638591205894?l=kimuranobuaki.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/feeds/8187497638591205894/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/08/blog-post_19.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/8187497638591205894'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/8187497638591205894'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/08/blog-post_19.html' title='平成２２年開催のゼレン会への近況報告'/><author><name>木村晋亮（Nobuaki Kimura）</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14545803047520422453</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2657683463431170685.post-7823298746862012649</id><published>2011-08-17T13:29:00.012+09:00</published><updated>2011-08-18T10:21:48.180+09:00</updated><title type='text'>探蕎会有志の面々、いざ、そば農園第二次農事作業へ</title><content type='html'>● まえがき&lt;br /&gt;　探蕎会の素地ができたのは、平成10年(1998)１月に、波田野先生宅で持たれた会合で、この寄り合いには、松原、北島、植松、塚野、前田の諸氏が参加したとある。そして３月８日には「末野倉」で探蕎会の第１回の行事としての発会式が行なわれ、会長波田野、副会長松原、他の４氏は世話人ということで会が発足した。この平成10年には12月の総会までに12回の行事が持たれ、このうちの４回をそば農園での種蒔き、除草・土寄せ、収穫、そば打ちに当てている。私が誘われて初めて会の行事に参加したのがこの種蒔きの時で、この年の第5回目の行事の時だった。&lt;br /&gt;　その当時はまだ会報はなく、行事の経緯や成行きは、会長指名の方が、後日Ａ4もしくはＢ5のレポート用紙に感想を交えてレポートし、そのコピーが会員に配布されていた。会報が創刊されたのは翌年の平成11年(1999)12月であるからして、平成10年と11年の行事記録はこのようなレポート様式で報告されており、公式には現存していない。&lt;br /&gt;　ところで、そば農園での農事作業は計４回で、会の行事では、第5回、第6回、第7回、第9回がこれに該当する。この作業が行なわれた「そば農園」の場所は、長野県東筑摩郡朝日村大字古見の「もえぎ野」にある。以下に４回にわたり実施された農事作業の実施日、作業ツアー名、参加者(入会順)、指名報告者を掲げる。またツアー時に寄った蕎麦屋も記載した。&lt;br /&gt;(1) 7月26日　そば農園種蒔きツアー（波田野、松原、北島、前田、木村、越浦、前田さんの娘さん）、&lt;br /&gt;　　レポーター：北島健次、「もえぎ野」(朝日村)・「信州家」(松本)。&lt;br /&gt;(2) 8月23日　そば農園除草・土寄せツアー（波田野、北島、塚野、前田、木村）、&lt;br /&gt;　　レポーター：木村晋亮、「ふじおか」(黒姫)・「ひらく」(穂高)。&lt;br /&gt;(3) 10月9日　そば農園収穫ツアー（波田野、北島、塚野、前田、木村）、&lt;br /&gt;　　レポーター：塚野八平、「もとき」(松本)・「浅田」(松本)。&lt;br /&gt;(4) 11月21日～22日　そば農園収穫そば打ち体験ツアー（波田野、松原、北島、塚野、木村、越浦）、&lt;br /&gt;　　レポーター：松原　敏、「浅田」(松本)・「もえぎ野」(朝日村)。宿泊：「ホテル花月」(松本)。&lt;br /&gt;　以上が概略で、表記表題の初出は、平成10年(1998)8月23日に行なわれたそば農園第二次農事作業と探訪した蕎麦屋のレポートである。　　「晋亮の呟き」に再録する。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;● レポート&lt;br /&gt;　今日一日、晴れが保証のの8月23日(日)の朝、小生は今日の農事作業である草取り・土寄せに必要な鎌、鍬、長靴等を用意し、波多野会長の命により、先生宅へ午前8時にお寄りする。奥様お手注ぎのお茶を頂くも間もなく、出発の案内。出ればMr前田のOdyssey号には既にMr北島が鎮座されており、我々も乗り込む。道案内を自認する波田野会長は助手席に陣取る。その後、鈴見台で今一人の参加者Mr塚野を同道し、金沢を後にする。この日の作業が如何ばかりなのか全く見当が付かないが、各々方は各自それなりに周到な準備を怠りなくされているようにお見受けした。&lt;br /&gt;　金沢東ICへ入ったのが８時半、前回が５時なのに比べると一寸遅い感じだ。富山へ入ると、同乗の鮎釣師は、河川の水量、濁りを見極めんと鋭い眼差し、門外漢の小生には友釣りの醍醐味も分からず、ただ食するのみだが、でも素晴らしいレクチャーをして貰った。&lt;br /&gt;　Mr前田の運転は極めて快調、先ずは今日の第一のお目当て、黒姫山麓の「ふじおか」へ向かう。妙高高原スキー場への通い慣れたＲ18を一路南下、会長の名指示で信濃町野尻山桑へ達する。辺りにはペンションが乱立、このような所に名店があるのかと訝る。杉野沢への道を右折して間もなく、Mr塚野が「あった」と喜びの声、直進すれば妙高へ行ってしまうところだったが、寸でのところでうまく解決した。まだ11時、11時半が開店だが行こうと杉木立の林の中の一本道を辿る。幽山深谷とは異とするが、開けた明るい所からいきなり暗い所へだと、何となくそう感じても不思議ではない。道端にはノアザミの赤、ツユクサの青、ミズギボウシの紫が美しい。下り坂を400ｍばかり、左手に一見山小屋風の建物が見え、そこが「ふじおか」だった。誰かが言う。初めてお妾さんの家へ通う時のときめくあの気持ちだとか。経験はないが、このときめきがそうなのだろうか。&lt;br /&gt;　着くと、既に５台の乗用車、長岡が２台、富山、大阪、長野が各１台、空き地に駐車している。そして石川、30分前だが、待つ甲斐があると納得する。受付入店もやはり11時半、小生は信濃Breweryまでの山中を徘徊する。時間になり漸く開店。辛抱強く待った蕎気の男女が次々と中に消える。我々も後に続く。定員20名は既に了承済み、ぎりぎり何とかなるさは、極めて甘い観測だった。６組目の私達は、主人から午後１時半にお越し下さいとの丁重なお断り、本当に前の組とは真にタッチの差であっただけに、泣き言の一つも出ようというものだ。こうなっては２時間待ってもありつくぞと衆意一決する。たかが「そば」を食うのに２時間待ちとは、蕎変じて狂となる。その執念たるやである。それではと、北信濃の地ビールを製造している信濃町野尻上山桑にある信濃Breweryへと向かう。田中の畦道をそぞろ歩く。湿地にはガマの群生、太い茶色の穂が素晴らしい。また畦にはコウヤワラビが一面に、若々しい浅緑、清々しい。&lt;br /&gt;　着くとやはり他県ナンバーの車がやたらと多い。中へ入ると、４種の地ビール、Shinano, Mountain, Dragon の各エールと、Kurohime stout、思い思いに２杯位ずつ胃の腑へ流し込む。小生の飲み比べた印象では、芳醇な香りと適度な苦味の Dragon が良かった。この地ビールは全国へ宅配できるとか、一度ご賞味を。&lt;br /&gt;　再びぶらぶら、林へ入る。途中熟れたブルーベリーを少々口に含む。甘い。「そば」にありつけるまでにはまだ１時間余り。折りよく一茶記念館の標識が、聞けば車で10分とか。Mr前田は車を回してくれた。信濃町柏原にある記念館はそこそこの人出、こざっぱりした感じ。併設の民族資料館には思い出の農機具の数々、懐かしい。２時間の余得。感謝々々。&lt;br /&gt;　今度こそはご対面できると思うと心がときめく。取って返して蕎麦処へ。空き地には湘南ナンバーの車もある。午後１時半きっかり、我々５人が最初に入る。中は６人掛けと４人掛けのテーブルが各２脚、それで計20人、但し原則として相席はないとのこと、頑固そのものである。また10歳以下のお子様お断りもしかりである。紹介書には甘皮を残した蕎麦の実を挽いたという、微かに緑を宿すかに思える「せいろ」と「そばがき」が載せてある。「せいろ」５枚と越後大吟醸の「鄙願」を３本所望する。待つこと暫し、２時近くに、酒と蕎麦実・野山の幸が入った５人分の突き出し？がドンと出た。本番前にはかくあるのか、雑味払いか、酒は美味しい。ただ全くクセがない。吟醸香が極めて薄い。これで徳利１本1100円は高いのでは、一致した意見だった。また待つこと暫し、佐々木小次郎の胸中を察する。しかし終にご対面。甘皮を付けたまま挽いた蕎麦粉100％の「せいろ」、姿・形は本とそっくりである。そっと数本口に含む。微かな蕎麦の香り、久方振りに出会った名品。生山葵を含めた旨い淡味のつゆが花を添える。再び「せいろ」３枚と「そばがき」２鉢を追加する。待つこと暫し、「そばがき」が現れた。讃岐彫り様の木皿に、搗き立ての柔らかい餅と見紛う、ブナの新緑を思い起こさせる淡い若草色の「そばがき」が鎮座している。こんな印象はこの62年間にはない。絶品としか他に言いようが無い。「せいろ」よりも蕎麦の香りが良い。と同時にどうしてこんなに均一で滑らかなのか。粉に秘密があるのか、或いは掻き方によるのか、いずれにせよ大収穫であった。本日も振られた11時半と1時半の２回のみ。１日多くて40人。再び挑戦するとすれば、平日か。２，３回振られた人もいるとか、今日はもうお終いですとの声に去る組もあった。&lt;br /&gt;　余韻を後に、本日の主行事の蕎麦の草取り土寄せに朝日村へ向かう。信濃町ICから塩尻北ICへ高速道を辿り、１時間半後の４時半きっかりに朝日村古見のもえぎ野に着いた。途中に見えた農園の蕎麦は花盛り。私達のは畝や条の不揃いがあり、種蒔きの濃淡があり、どうなっているかとあれこれ心配したが、どうもそれは一見おいそ目には全く分からず、胸をなで下ろした。それで勇んで農場へ。道端に車を停め、身繕いして農園に入る。農園には我々以外には人影はなく、頃合いとすれば、日中よりはましである。さてと、手入れが終わった先人のをと見ると、かなり人為的倒伏が目立つ。蕎麦は肥料を施したせいもあって、思ったより大きく、しかもはちこっている。丈は50～60ｃｍはあろうか、しかも茎はスカンポのように太く、けれど中空な茎は簡単に折れてしまう。本来ならば草丈30ｃｍ位の頃に土寄せしなければならないのに、蕎麦のはちこりで蕎麦が畝の両端からはみ出ていて、草取りが出来ず、草取りは省けたものの、土寄せ自体は難行を極めた。蕎麦の間に潜るので、新たな蕎麦の倒伏は先人の比ではなく、これでは収穫は半減するのではないかとさえ思え、いっそのことしないほうが良いのではという率直な意見が続出し、完全な土寄せは極めて困難との見通しから、作業を中断した。行なった部分的な惨状は会長が自ら記録に留めることにする。作業すること40分余り、滞在１時間で切り上げ、次の目的地の穂高町「上条」へ向かうことに。&lt;br /&gt;　運転は大吟醸を召したMr前田に代わってMr塚野が、車では前回小生の不覚で迷い込んだ立派な尻切れ農道の話が一頻り、しかし今回Mr塚野も危うく前車の轍を踏んで、あの袋小路の農道へ迷い込みそうになった。表示板が曖昧過ぎる。高速道を塩尻北ICから豊科ICへ、夕暮れの安曇野を北へ向かう。常念岳が残照に浮かぶ黄昏、会長の先導でご推薦の「上条」に着いた。この建物の外観は洋館、幟がなければ全く蕎麦屋には見えない。案内では８時までのはず、でも灯は落ちており、振られてしまった。&lt;br /&gt;　急遽、代役は同じ穂高町の「ひらく」、かの「ふじおか」と同じ紹介書に載っている銘店である。そして閉店間際？に到着。時刻は午後６時40分、早速「特製ざる」３枚、「そばがき」２鉢、つまみに花山葵、酒は冷燗の白馬錦を所望する。「ざる」は細打ち、「そばがき」は田舎風で量は豊か、つまみはセンナの醤油漬し、酒はいわゆる爽やかな本醸造、かれこれ40分ばかり居たろうか、７時半前には帰路についた。安房峠経由で金沢へ、Mr前田の滑らかな流れるような運転で夜をひた走り、11時に帰沢した。走行600ｋｍに及んだ１日もどうやら無事終了した。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2657683463431170685-7823298746862012649?l=kimuranobuaki.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/feeds/7823298746862012649/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/08/blog-post_17.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/7823298746862012649'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/7823298746862012649'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/08/blog-post_17.html' title='探蕎会有志の面々、いざ、そば農園第二次農事作業へ'/><author><name>木村晋亮（Nobuaki Kimura）</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14545803047520422453</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2657683463431170685.post-4037096285746379983</id><published>2011-08-12T08:20:00.023+09:00</published><updated>2011-08-16T14:06:48.113+09:00</updated><title type='text'>奈良探蕎 : 玄(奈良市) と 稜(葛城市)</title><content type='html'>　表記表題の初出は「探蕎」会報第41号(平成20年7月5日発行)で、訪れたのは平成20年(2008)の6月14日に「玄」、6月15日に「稜」である。　　「晋亮の呟き」に再録する。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　本年前半の行事のうち、探蕎小旅行は奈良・京都方面ということだったが、参加予定者が10名と少なかった上、いつも企画･立案・案内される久保さんが不参加ということで、旅行の実施自体が危ぶまれた。事務局の前田さんでは、会の行事として決めたので、団体でなくても個人でいいから探蕎してきてほしいとのこと、全く自信がなかった。5月25日に湯涌みどりの里で会員そば打ちがあり、会員多数が参加し、6月の旅行に参加を予定している人も8名出席だった。それで当初は団体での旅行の中止を伝えようと臨んだのだが、和泉さんご夫妻から8名だったら私の方で車を用意しましょうとの申し出があり、そこで方向転換、実施することで話を進めることになった。久保さんからは奈良市のそば屋を４店紹介して頂いた。しかし宿はコースが未定なこともあり、参加の皆さんにはアウトラインが決まってからお知らせすることにして、取り合えず帰りに前田書店へ相談に寄った。私はいつもなら蕎麦前を頂くのだが、前日に大腸ポリープを切除して禁酒　を命じられていたこともあって、車の運転は可能だった。&lt;br /&gt;　宿は前田さんでは「奈良ホテル」を推奨、電話ではツイン4室ありとのことだったが、仮押さえせずにネット申込みしたものだから、いざ申込みの時点では「空室なし」になっていた。帰宅してネットでいろいろ調べるが、当たったホテルはすべて満室、ただ当初の奈良ホテルに空きがあるようなサインが出たので、今一度前田さんにお願いした。結果として奈良ホテルはノーだったが、程近い「さるさわ池よしだや」をゲットして頂けた。一方、旅行スケジュールについては一切を寺田先生にお願いすることにした。そば屋は初日は奈良では最も古い「玄(げん)」に、2日目は當麻寺門前の仁王門「稜(そば)」とし、そば屋の交渉以外は一切先生に一任ということで旅行はゴーとなった。そば屋２店には、翌日に「石川県の金沢から食べにお伺いするので、何とか便宜を図ってもらえませんか」とお願いしたところ、「玄」では「せいろ」と「田舎」8人分を余分にお打ちしましょうと言って下さったし、「稜」でも確保して置きましょうと言って頂けた。寺田先生のコース取りも決まり、５月31日に事務局の前田さんから参加者全員に「奈良方面旅行のご案内」としてメールが発信された。こうして、和泉さん、寺田先生、前田さんのご尽力で、どうやら旅行が成立することになった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;●　玄（げん）　（6月14日）&lt;br /&gt;　予約は開店時間の11時30分、白山市番匠を午前6時少し前に出発、寺田先生の水先案内よろしく、奈良には4時間で着いてしまった。開店にはたっぷりの時間があり、先に国立奈良博物館を訪れた。「玄」からは、近くへ来たら電話下さいとのことで、博物館から出るときに電話をした。「県庁の駐車場からだったら、天理街道を南下して、奈良ホテルが見えたら、次の大きな交差点の次の福智院町の交差点を右に折れ、少し進むと右に駐車場がありますから、そこの島崎と書いてある５～７番に車を停めて下さい」とのこと、了解して駐車場を出た。ところが右折禁止で銚子が狂って方角を間違え、天理街道へ戻ってからも交差点を見落として１km以上もオーバーラン、通行人に訊き漸く件の交差点に着いた。でも今度は駐車場の場所が不明、また電話したら、極々近くだった。興善寺の門前の通路には参詣者用の駐車場はあるものの、ここは駄目らしい。寺の門前を左に折れ、狭い路地を直進すると、突き当たりにお目当ての「玄」の暖簾が見えた。予定の10分遅れで着けた。由緒有りげな門と建物と思ったら、隣にある重要文化財「今西家書院」の離れだという。小さな庭は手入れが行き届いている。&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/-X7PkKxKKklk/Tkn1JGHBVqI/AAAAAAAAAqk/O5Rj_ghAtJ4/s1600/IMG_8593.JPG"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 400px; height: 300px;" src="http://1.bp.blogspot.com/-X7PkKxKKklk/Tkn1JGHBVqI/AAAAAAAAAqk/O5Rj_ghAtJ4/s400/IMG_8593.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5641309544865945250" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　上がると3列に座机、既に2組が陣取っていた。玄は久保さんのメモでは、春鹿酒造の後とあり、裏で続いていて隣のようなもの、当然玄でのお酒は「春鹿」のみ、純米吟醸生酒の「しぼりたて」を2合お願いした。実は春鹿酒造という醸造元はなく、正確には「今西清兵衛商店」という老舗の酒銘が「春鹿」、春は春日大社から、鹿は神の使いから、今も春日大社の御神酒を醸造しているという。お酒はギヤマン風の角瓶に入ってきた。値はしっかりと高いが、実に馥郁としていて美味しいお酒だ。&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/-bpVVrtCcSYg/Tkn1wnPUAVI/AAAAAAAAAqs/ldQZquzXhU0/s1600/IMG_8594.JPG"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 400px; height: 300px;" src="http://2.bp.blogspot.com/-bpVVrtCcSYg/Tkn1wnPUAVI/AAAAAAAAAqs/ldQZquzXhU0/s400/IMG_8594.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5641310223773991250" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　ややあって「せいろ」、2枚ずつ運ばれる。正方形の木枠に竹簾が敷かれ、鶯色のそばが薄盛りにされている。つなぎなしの十割の極細、初めての対面、毎日必要分だけを石臼挽きにするのだという。そばの量は多くない。これだけ細いと、茹で時間は瞬時だろう。これでコシもあり、喉越しも良いのだから、もしそばの香りを最も大事にするのだったら、つゆは水のみでもよいのではと思う。&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/-SSv0OEWUb_Y/Tkn2JjtECVI/AAAAAAAAAq0/Q6TAOCQNKL0/s1600/IMG_8596.JPG"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 400px; height: 300px;" src="http://2.bp.blogspot.com/-SSv0OEWUb_Y/Tkn2JjtECVI/AAAAAAAAAq0/Q6TAOCQNKL0/s400/IMG_8596.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5641310652321761618" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　次いで「田舎」、薄手のくすんだ陶製の浅い皿鉢の真ん中にこんもり鎮座した感じで出てきた。粗挽きで、色はそんなに黒くはない。これは石臼の加減だろう。「せいろ」より心持ち太いようだ。でも細い。ホシは細かい。そして香りはこちらの方がやや濃い感じだ。&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/-PzC6NlbfYmw/Tkn2mqMDjyI/AAAAAAAAAq8/XooGGeDTKTc/s1600/IMG_8602.JPG"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 400px; height: 300px;" src="http://1.bp.blogspot.com/-PzC6NlbfYmw/Tkn2mqMDjyI/AAAAAAAAAq8/XooGGeDTKTc/s400/IMG_8602.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5641311152278572834" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　最後に「そば団子」、これは前日にもう一度念のため電話した折に勧められたもので、4人前申し込んでおいた。これは予約分のみ当日の朝作るとか、木の盆に2個、練り上げた蕎麦粉の皮の上には黄粉がかかり、中には漉し餡が入っているとか。私は食するのをパスしたが、味の方は如何だったろうか。&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/-0ACeTaOv7fc/Tkn3vpS3sxI/AAAAAAAAArE/8LIHAyd8fFA/s1600/IMG_8606.JPG"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 400px; height: 300px;" src="http://1.bp.blogspot.com/-0ACeTaOv7fc/Tkn3vpS3sxI/AAAAAAAAArE/8LIHAyd8fFA/s400/IMG_8606.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5641312406169170706" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/-vEh1P-w_C4M/Tkn6U7VJlpI/AAAAAAAAArk/BwXWpX1ekes/s1600/IMG_8666.JPG"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 300px; height: 400px;" src="http://4.bp.blogspot.com/-vEh1P-w_C4M/Tkn6U7VJlpI/AAAAAAAAArk/BwXWpX1ekes/s400/IMG_8666.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5641315245688985234" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　これで此処での食は滞りなく終了した。帰りに店主のお見送りを受ける。門から出て狭い路地を歩いていると、やっと見つけたとガイドブックを手にした若いカップルに出会った。「玄」は奈良では最も古い店、とは言っても平成3年の創業、まだ17年、でも店主の島崎さんは関西そば界では、草分け的存在である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;・お品書（税別、単位百円）：せいろ・いなか（10），山かけ・おろし・そばがき（12），そば団子（4），酒（春鹿）（15～25）．&lt;br /&gt;・住　所：奈良市福智院町 23－2，　　電話：0742－27－6868．&lt;br /&gt;・営業時間：（昼）11時半～1時半（入店1時迄），（夜）18時～21時（入店19時迄　蕎麦遊膳のみ）．&lt;br /&gt;・定休日：土（夜）と日･月曜日、乳幼児入店お断り．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;●　稜（そば）（6月15日）&lt;br /&gt;　２日目のコース取りは寺田先生ならではのユニークなもの、宿を出て先ず信貴山朝護孫子寺へ、そして當痲寺と門前の仁王門「稜」へ。車にナビは付いてはいないものの、寺田先生の人間ナビの案内で「稜」へも開店前に到着できた。そして昨日と同じく、先に當痲寺を拝観した。その後開店の11時45分に「稜」へ入った。入ると、左手の小上がりに4人座れる座卓が3脚、右手には檜の自然木の大きなテーブル、店主の片岡さんからはお好きな場所へと言われ、全員一箇所にとテーブルに陣取ることに。我々が最初だった。ここでも蕎麦前を少々頂くことにして、奈良吉野の地酒「花巴」純米吟醸を2合、よく冷えたのが片口に入れられて出てきた。中々癖のない淡麗な酒だ。&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/--C6QlJpLTDg/Tkn4msRJSBI/AAAAAAAAArM/Y2ZN5_tfYYs/s1600/IMG_8659.JPG"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 400px; height: 300px;" src="http://3.bp.blogspot.com/--C6QlJpLTDg/Tkn4msRJSBI/AAAAAAAAArM/Y2ZN5_tfYYs/s400/IMG_8659.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5641313351860045842" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/-cKigQfSRQpQ/Tkn5LUQD4oI/AAAAAAAAArU/94JbH0fWBLs/s1600/IMG_8660.JPG"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 400px; height: 300px;" src="http://4.bp.blogspot.com/-cKigQfSRQpQ/Tkn5LUQD4oI/AAAAAAAAArU/94JbH0fWBLs/s400/IMG_8660.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5641313981068206722" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　程なくして、「せいろ」が伊万里の中皿の真ん中に置かれた円い曲げ物の中に入って出てきた。中細で端正なそばという感じ。手繰って食すると、コシも喉越しもそこそこだが、今少し物足りない。つなぎなしではない印象を受ける。つゆは濃い方だ。そばの量は若干多め。次いで「田舎」、四角な中皿に長方形の枡形が置かれ、そこにこれが田舎そばだという黒いそば切り、粗挽きを思わせる黒いホシが見えている。「せいろ」よりやや太め、やはりそばは綺麗に揃っていて中々端正だ。これは店主の人柄を表している。しかしこちらも強烈なインパクトが感じられない。ということは、自家製粉ではないのではと思ったりする。&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/-NNb6JrrSwGk/Tkn5kR0EXoI/AAAAAAAAArc/FeD9GL-vkWc/s1600/IMG_8667.JPG"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 400px; height: 300px;" src="http://1.bp.blogspot.com/-NNb6JrrSwGk/Tkn5kR0EXoI/AAAAAAAAArc/FeD9GL-vkWc/s400/IMG_8667.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5641314409910656642" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　量が多いからと、一人「田舎」を召し上がらない方が出た。予め頼み込んであった手前、どうしたものかと店主の片岡さんに相談すると、構いませんと言われた。それより金沢からわざわざお出でて、もしやまずかったのではと、そんな心配をして下さったのには、かえって恐縮した。開店して11年目ですと言われる。中々感じの好い店だった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;・お品書（税込．単位百円）：せいろ・田舎・そばがき（10）．山かけ・辛味大根（12），酒：花巴（10～20），越の鶴（10），稜特選（15）．&lt;br /&gt;・住　所：奈良県葛城市當痲 1256-2．　　電話：0745-48-6810．&lt;br /&gt;・営業時間：（昼）11:45～売り切れ迄，（夜）創作料理．&lt;br /&gt;・定休日：火曜日．&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2657683463431170685-4037096285746379983?l=kimuranobuaki.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/feeds/4037096285746379983/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/08/blog-post_12.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/4037096285746379983'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/4037096285746379983'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/08/blog-post_12.html' title='奈良探蕎 : 玄(奈良市) と 稜(葛城市)'/><author><name>木村晋亮（Nobuaki Kimura）</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14545803047520422453</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://1.bp.blogspot.com/-X7PkKxKKklk/Tkn1JGHBVqI/AAAAAAAAAqk/O5Rj_ghAtJ4/s72-c/IMG_8593.JPG' height='72' width='72'/><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2657683463431170685.post-5834235798048859731</id><published>2011-08-11T13:15:00.005+09:00</published><updated>2011-08-16T14:27:16.914+09:00</updated><title type='text'>蕎麦屋情報一筆：そば切り「多門」(小矢部市)</title><content type='html'>　表記表題の初出は「探蕎」会報第40号(平成20年5月24日発行)の蕎麦屋情報一筆の欄で、訪れたのは平成20年(2008)5月11日である。　　「晋亮の呟き」に再録する。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　平成20年の４月中旬、私が勤務する石川県予防医学協会で、同じ部署に勤務するあるそば好きな女性から、金沢市市瀬町にあった「多門」が店を閉め、新たに富山へ移って開業するという情報をもらった。その後彼女には開店案内の通知が届いたとかで、その案内の葉書を見せてもらった。新住所は富山県小矢部市金屋本江、概略の地図は載せてあるが、すごく大雑把なので、このままではとても行き着けるとは思えない。新店での打ち始めは５月８日、案内状を見せてもらったのが５月９日、早速11日の日曜日に出かけることにする。&lt;br /&gt;　午前10時に家を出て、北陸自動車道を小矢部ICで下り、ここでナビに住所を入力し、それに従う。ICを出て県道42号線福光安楽寺押水線を左折、初めての平桜交差点を右折して国道359号線に入り、初めの藤森交差点を左折して県道368号藤森岡線に入る。この道を道なりに進む。県道18号線の和沢、県道16号線との野寺の各交差点を過ぎると、右手に大谷中学校のおとぎの国のような建物が見えてくる。さらに進んで県道24号線との交差点水牧を過ぎると、右手に大谷小学校が見え、過ぎたら右折、次の農道をまた右折して南下すると、程なく右手に大きな庭のある家があり、そこが新拠点の「多門」である。ICからは６km強ばかり、周りは水田、最後の右折後最初の家である。&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/-vEh1P-w_C4M/Tkn6U7VJlpI/AAAAAAAAArk/BwXWpX1ekes/s1600/IMG_8666.JPG"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 300px; height: 400px;" src="http://4.bp.blogspot.com/-vEh1P-w_C4M/Tkn6U7VJlpI/AAAAAAAAArk/BwXWpX1ekes/s400/IMG_8666.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5641315245688985234" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/-eSviX8VW7K8/Tkn-IsKvuTI/AAAAAAAAAr0/GwdyqhDTUoE/s1600/IMG_8445.JPG"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 400px; height: 300px;" src="http://1.bp.blogspot.com/-eSviX8VW7K8/Tkn-IsKvuTI/AAAAAAAAAr0/GwdyqhDTUoE/s400/IMG_8445.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5641319433506896178" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　着いたのは11時、案内を乞うと地田さんが出てこられ11時半からだと、車の中で待つ。地田さんから案内があり、部屋へ上がる。12畳と６畳２間を通しにしてあり、見慣れた長い白木の座机が２脚とクロス張りのテーブルが１脚、６人ずつ18人が座れる。出されるそばは、十割生粉打ちの「ざる」「おろし」「とろろ」と「そばがき」のみ。家内は「ざる」、私は「おろし」を頼む。これまでの羽咋市兵庫や金沢市市瀬と同じく、店主一人での賄いだ。程なく「そば」が出る。あのホシがある手挽きの中細、久し振りにお目にかかった。感慨無量だった。店主は相変わらずの無愛想、必要最小限のことしか話さない。美味かったのでもう１枚、家内は「とろろ」、私は「ざる」にする。若干不揃いなものもあるが、これが「そば」だというい見本のようなものだ。市瀬の時には蕎麦前があったが、ここでは出ない。正午過ぎまで居て辞す。帰るまでに３組６人がご入来になった。車のナンバーは３台とも富山だった。&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/-QhynPNSKTxY/Tkn-asNDSFI/AAAAAAAAAr8/Vfl3kHVUPRw/s1600/IMG_8448.JPG"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 400px; height: 300px;" src="http://1.bp.blogspot.com/-QhynPNSKTxY/Tkn-asNDSFI/AAAAAAAAAr8/Vfl3kHVUPRw/s400/IMG_8448.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5641319742754211922" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/-kaW83ycUZgk/Tkn-11HBPsI/AAAAAAAAAsE/xjjnxos6spE/s1600/IMG_8449.JPG"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 400px; height: 300px;" src="http://4.bp.blogspot.com/-kaW83ycUZgk/Tkn-11HBPsI/AAAAAAAAAsE/xjjnxos6spE/s400/IMG_8449.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5641320209001299650" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/-ehPxSbjeIhs/Tkn_KVVJ-zI/AAAAAAAAAsM/qH19cb0XAwo/s1600/IMG_8451.JPG"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 400px; height: 300px;" src="http://2.bp.blogspot.com/-ehPxSbjeIhs/Tkn_KVVJ-zI/AAAAAAAAAsM/qH19cb0XAwo/s400/IMG_8451.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5641320561247910706" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　品書きは、ざるそば850円、おろしそば、とろろそば、そばがきがそれぞれ950円。&lt;br /&gt;　そば打ちを教えます　とある。&lt;br /&gt;　定休日は月・火曜日。　住所は　小矢部市金屋本江528番地。　電話 0766-68-1079 。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2657683463431170685-5834235798048859731?l=kimuranobuaki.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/feeds/5834235798048859731/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/08/blog-post_11.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/5834235798048859731'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/5834235798048859731'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/08/blog-post_11.html' title='蕎麦屋情報一筆：そば切り「多門」(小矢部市)'/><author><name>木村晋亮（Nobuaki Kimura）</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14545803047520422453</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://4.bp.blogspot.com/-vEh1P-w_C4M/Tkn6U7VJlpI/AAAAAAAAArk/BwXWpX1ekes/s72-c/IMG_8666.JPG' height='72' width='72'/><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2657683463431170685.post-4237163286596701832</id><published>2011-08-10T16:11:00.015+09:00</published><updated>2011-08-16T15:48:22.587+09:00</updated><title type='text'>蕎麦屋情報一筆：「茗荷庵｣(羽咋市神子原町)</title><content type='html'>　表記標題の初出は「探蕎」会報第35号(平成18年12月5日発行)の蕎麦屋情報一筆の欄で、訪ねたのは平成18年(2006)9月17日である。　　「晋亮の呟き」に再録する。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　山へ行く予定が秋雨前線と台風13号の襲来で延期になり、それではと、かねて訪れたいと思っていた羽咋市神子原町の「茗荷庵」へ出かけた。連れは家内とその友人。名前が同じ孝子なのも何かの縁か。午前10時に家を出る。国道159号線の飯山交差点を右折して、国道415号線に入り、神子原町に到る。辺りは山間に開けた田園風景が広がる長閑な一帯で、そのそば屋はその国道沿いにある。着いたのは11時過ぎだったが、もう我々のも入れて、車が４台、石川ナンバー２台、富山ナンバーが２台、氷見に近いこともあって、富山の人も多く訪れるようだ。この「茗荷庵」については、「探蕎」会報第24号に、松原さんが「元六兵衛、いま茗荷庵　辛いおろしそば」の一文を既に寄稿されている。&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/-H8puuXU4JLU/TkoRie25_YI/AAAAAAAAAtU/OtSyp7RrfeU/s1600/IMG_5848.JPG"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 400px; height: 300px;" src="http://3.bp.blogspot.com/-H8puuXU4JLU/TkoRie25_YI/AAAAAAAAAtU/OtSyp7RrfeU/s400/IMG_5848.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5641340767331548546" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　「茗荷庵」は神子原町で開店して４年目になるという。暖簾をくぐると右手に打ち場があり、ガラス越しに中が窺える。左手通路を挟んで右手はカウンターになっていて、止まり木が５つ、左は上がり框になっていて、10人は座れる大きな囲炉裏と６人座れる座卓が２つ置かれている。お品書きは、「冷」が、ざる・おろし・とろろ・天ざる、「温」が、かけ・山かけ・おろし・ニシン・鴨南蛮・天ぷら。飲み物は、そば焼酎・ビール・酒。酒には銘が入ってなく、ただ「酒」とあるだけ。女性は「天ざる」、小生は「鴨南蛮」を所望する。&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/-I6iehZl5qDQ/TkoL-dDw79I/AAAAAAAAAss/PAf83Xt7Sn0/s1600/IMG_5856.JPG"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 400px; height: 300px;" src="http://2.bp.blogspot.com/-I6iehZl5qDQ/TkoL-dDw79I/AAAAAAAAAss/PAf83Xt7Sn0/s400/IMG_5856.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5641334650815180754" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/-ZZq5mejpHAk/TkoMV31ywTI/AAAAAAAAAs0/Arfwm4xgJok/s1600/IMG_5860.JPG"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 400px; height: 300px;" src="http://2.bp.blogspot.com/-ZZq5mejpHAk/TkoMV31ywTI/AAAAAAAAAs0/Arfwm4xgJok/s400/IMG_5860.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5641335053141328178" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　先ず冷酒が来る。藍色の瀟洒な湯飲み風の片口に、対の盃とつまの蕎麦味噌、温物は後で案内があった時にお持ちしますとの付言、中々気が利いている。次いで女性に「天ざる」が届く。天ぷらは角盆に乗り切らない６種盛り、そばは角の塗った蒸篭に盛られている。一筋摘まませてもらう。細いが中々コシがあってしっかりしている。喉越しも良く、上等だ。お酒をお代わりし、鴨南蛮を出してもらう。温かいそばは、駅の立ち食いそばを除けば、廃業した「砂場」のそば以来だ。そばを手繰ると、温かなのにしっかりコシがある。これは余程しっかり打たないとこうはゆくまい。早々にそばをすべて手繰り、残りの鴨と葱を肴に酒を干す。この鴨と葱は絶妙の火の通し加減、実に美味い。つゆの味加減も抜群、すべて飲み干した。&lt;br /&gt;　備えの芳名禄を見ると、石川・富山以外の地域からも結構来店している。そんなに宣伝しているとは思えないから、恐らくは口コミなのだろう。また訪れたい店の一つだ。少し遠いが、環境も良く、素晴らしい立地条件と言えよう。今度は松原さん推奨の「おろしそば」を賞味しよう。&lt;br /&gt;　営業は午前11時～午後４時、でもそばが無くなり次第終了。定休は水曜日。電話は 0767-26-2419&lt;br /&gt;&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/-0yNndDHcUcw/TkoJ6DqQKPI/AAAAAAAAAsk/dVXfWgeuHGM/s1600/IMG_5869.JPG"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 400px; height: 300px;" src="http://1.bp.blogspot.com/-0yNndDHcUcw/TkoJ6DqQKPI/AAAAAAAAAsk/dVXfWgeuHGM/s400/IMG_5869.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5641332376254556402" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　[付記]　この後、七尾市国分町の「欅庵」へ寄った。ここで食べた「辛味おろしそば」の辛味大根の辛さは素晴らしく、家内はその大根下ろしを除けて食べる始末。後で店主の岡崎さんに聞くと、信州伊那の「みのわ大根」とか、直径が10cmばかりの丸い大根、今まで扱った大根の中では最も辛いと仰る。また丸いもの程辛いとも。私にとってもこれまでで最高の辛味だった。&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/-4OfESiN_yuk/TkoNSMLwLmI/AAAAAAAAAtE/zBriOKZC1yE/s1600/IMG_5878.JPG"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 400px; height: 300px;" src="http://1.bp.blogspot.com/-4OfESiN_yuk/TkoNSMLwLmI/AAAAAAAAAtE/zBriOKZC1yE/s400/IMG_5878.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5641336089394294370" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/-wBESCgztz5g/TkoM7ywppiI/AAAAAAAAAs8/nj03efT_hs8/s1600/IMG_5876.JPG"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 400px; height: 300px;" src="http://1.bp.blogspot.com/-wBESCgztz5g/TkoM7ywppiI/AAAAAAAAAs8/nj03efT_hs8/s400/IMG_5876.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5641335704612611618" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/-vPD0cFtDp6w/TkoNhRuO_UI/AAAAAAAAAtM/4de8EPerYUg/s1600/IMG_5885.JPG"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 400px; height: 300px;" src="http://4.bp.blogspot.com/-vPD0cFtDp6w/TkoNhRuO_UI/AAAAAAAAAtM/4de8EPerYUg/s400/IMG_5885.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5641336348579134786" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2657683463431170685-4237163286596701832?l=kimuranobuaki.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/feeds/4237163286596701832/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/08/blog-post_10.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/4237163286596701832'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/4237163286596701832'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/08/blog-post_10.html' title='蕎麦屋情報一筆：「茗荷庵｣(羽咋市神子原町)'/><author><name>木村晋亮（Nobuaki Kimura）</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14545803047520422453</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://3.bp.blogspot.com/-H8puuXU4JLU/TkoRie25_YI/AAAAAAAAAtU/OtSyp7RrfeU/s72-c/IMG_5848.JPG' height='72' width='72'/><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2657683463431170685.post-942817337303060677</id><published>2011-08-09T14:53:00.019+09:00</published><updated>2011-08-10T14:39:33.265+09:00</updated><title type='text'>瓢箪から駒：福井のそば屋「一の谷」で出た竹田の厚揚げ</title><content type='html'>　表記表題の初出は「探蕎」会報第34号(平成18年7月20日発行)で、丸岡町上竹田へ寄ったのは、平成18年(2006)4月15日、23日、30日である。　　「晋亮の呟き」に再録する。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;●　4月15日は坂井市長・市議の選挙事務所開き&lt;br /&gt;　福井県坂井郡丸岡町も平成の大合併で、同じ郡の三国町、坂井町、春江町と合併し、3月20日に坂井市となり、御多分に漏れず、新しい市長と市議会議員の選挙が4月23日に行なわれる段取りとなった。この日は実は探蕎会で丸岡蕎麦道場へお邪魔することになっていたが、選挙当日とあれば勿論論外で、１週ずらしての30日にしたものの、その日は道場主の海道さん宅では田植え時の大変忙しい最中、１日位空けますと言っては頂けたものの、本当に申し訳ない。さて、いつもお世話になる丸岡蕎麦愛好会の世話役の１人である旧丸岡町議の小見山さんが、新市会議員に立候補されることになり、その選挙事務所開きが15日にあるという。その必勝祈願に波田野会長と前田事務局長が出掛けられることになり、２人では余りにも数不足とかで、永坂、寺田の２長老も同行することに、更に無理やり小生も割り込んだ。&lt;br /&gt;　前田局長運転の車で金沢を午前10時に発った。昼食は当初は加賀尾口の「山猫」の予定だったらしいが、会長の希望で越前朝倉の「利休庵」にしたとか。車は加賀産業道路を経て国道８号線を丸岡へと向かう。もう11時に近い。事務所開きは午後１時、後３時間ばかり、逆算して朝倉への往復は無理と判断、国道沿線で済ますことにする。さて、何処にするか。会長推薦のそば屋があるらしいがそこは予約制とかで断念。とすると、８号線を福井へ向かう時にいつも左に見える平屋建てのそば屋しかないか。時々前を通るが、一度だって入りたいと思ったためしがない店である。外見もさることながら、隣に赤錆が出たトタン葺きの建物があり、そば屋にしては環境が良くないこと甚だしい。&lt;br /&gt;　熊坂川を渡って程なく、その店に着く。「そば」と青地に白抜きした旗竿が濡れて立っている。意を決して、小雨の中、「一の谷」へ入る。ところが、中は思ったよりスッキリしてたのには驚く。外見や周りの環境に左右される予見は禁物か。濁り池に咲く清楚な睡蓮や蓮の花とまではゆかなくても、何かそれに近い印象を受けた。入り口に近く４人掛けの机１脚、左手通路を挟んで左右の小上がりに４人掛け座机４卓。右手の小上がりに上がる。&lt;br /&gt;　品書きはと見ると、「冷」は、おろし、とろろ、とろろおろし、ざる、山菜、「温」は、鴨鍋、かけ、牛すじ、とろろ、山菜。会長は「とろろおろし」、他の４人は「おろし」を頼む。待つこと暫し、おろしは出汁と一緒に大きな鉢に入っている。そばは二八、幾分細め。越前そばと言うと、ごつごつした田舎そばを思い浮かべるが、ここのそばはそれとは異なる印象だ。そばにおろしの入った出汁をかけ、あっという間に胃の腑に納まった。まずまずの食感だ。でも、可もなく不可もなしか。時間はというと、まだ１時間半もある。&lt;br /&gt;　少しアルコールを入れたらとの局長の言に甘え、富久駒１合と通しに「竹田の厚揚げ」を所望する。酒は真ん丸で透明な硝子の銚子に入っており、それに対のグラス、清々しい感じだ。厚揚げは厚さ一寸近くあり、半分の片面を焼き上げて、六つ切りにしたのを横長の皿に盛り付け、それに葱と大根下ろしと専用の醤油だれが付いている。切り口はと見ると、内は詰まってなく、パンに似たようなスカスカした風情、初めての出会いだ。なかなか旨い。一時は福井の人だった会長に尋ねると、名前は聞いていたが、食するのは初めてと仰る。永坂、寺田の両長老も所望される。これは掘り出し物だ。これがあれば酒がすすむことは必定。こうなると、他のつまも美味しそうに見えてくるから不思議だ。曰く、鴨塩焼き、牛すじ、山菜、冷や奴、等々。この厚揚げは何処かで買えるのかと尋ねると、スーパーでもと。でもややあって、20分程待って頂ければ取り寄せますとも。でも20分は待てないとお断りする。会長はこの「竹田の厚揚げ」の幟を竹田の村で見たことがあると仰る。もし時間が許せば、手に入るかも知れないと淡い期待を抱く。&lt;br /&gt;　丸岡の町はこの日から３日間は桜まつり。丸岡城を経由して小見山さんの選挙事務所へ向かうが、祭りで道路封鎖もあり、ナビどおりには行かなかったが、やっと目的地に着けた。事務所は何と真宗のお寺さんの本堂、これには驚いた。初の体験だ。聞けば初回からとか。町中には立候補者用の掲示板が目立つ。市長には４人、市議会議員には48人のスペースが。市長は事実上２人の一騎打ち、議員は42人から30人とか、中々厳しい選挙だ。当の小見山さん、それに市長候補の林田さんも見えた。林田さんは会長とも親しく、丸岡を蕎麦生産量福井一にした人だ。祈必勝の檄が所狭しと並ぶ。会長持参の有名書家筆の檄も並ぶ。堂内には支援者の方々が詰めかけられ、雰囲気はいやが上にも盛り上がっている。御両名が挨拶。心から必勝あらんことを願う。投票権がないのが玉に傷。晴れて当選されんことを祈念して辞す。帰りに若月さんの案内で、林田さんの事務所にも寄った。ここの檄はもう張る所がなく、天井にも重ね張り、激戦が伺われる。暫し歓談。公示は明日だが、選挙はもう終盤だと仰る。&lt;br /&gt;　事務所を辞したのが２時少し前、局長用事の６時にはまだ４時間ばかり、竹田・大内経由で帰ることに衆議一決、会長の通い慣れた人間ナビの誘導で、一路竹田へと向かう。丸岡から南下し、通称永平寺道路から山に入る。この新道の開通で、永平寺と山中温泉が緊密になったとか、観光も広域的になってきている。会長の言では、天気が好ければ、高架橋からの越前平野の眺めはは大変素晴らしいとか、でも生憎の曇り空で霞んでいる。近庄峠を貫く新道のトンネルを２つ抜けると竹田は近い。ここは竹田渓谷の上流、丸岡町上竹田、千古の家や龍ヶ鼻ダムもある景勝の地、程なく会長の言う「竹田のあげ」の幟が見えた。&lt;br /&gt;　人々は名物の油揚げを求めて、ここ谷口屋に来るのだろうか、狭くもない駐車場は満車の状態。早速店に入る。店内もほぼ満席。かろうじて空いていた一画に陣取る。個々に湯豆腐ほかを頼み、自前で熱くしてその熱々を食する。丸大豆特有な旨味のある「絹ごし」、中々美味い。土産に「竹田のあげ」２枚と「竹田のとうふ」２丁を求める。締めて960円也。当然、皆さんも買い物。見てると、豆腐や揚げのみ求めに来ている人もいる。効能書きには、白山禅定の清水を使用して、昔ながらの製法に拘って作っているとも。そして竹田の揚げには、「北陸の名物」と銘打ってあった。帰って早速厚揚げと湯豆腐をつまにして一献、至福の時を過ごす。カミさんが居れば、２枚２丁は消えたものを、独りとて、翌晩もまた同じパターン。その晩遅く帰ってきたカミさんに、竹田の厚揚げと豆腐は大変美味だったと吹聴すると、今度の日曜の23日に連れて行けとの御託宣、聴いてやらねばなるまい。23日は坂井市の市長と市議の投票日でもある。&lt;br /&gt;●　9月23日は坂井市長・市議の投票日、カミさんと丸岡へ&lt;br /&gt;　午前10時少し前に家を出て、先ずは「一の谷」へ向かう。辿るコースは先週の土曜日と全く同じ。店には既に先客が２組、蕎麦前でかなりの出来上がり、地元の人とお見受けした。程なくまた２組、これで満席となる。親しげな語り口は、同じ村の出の感じ。そう言えば、この店昔は村で食堂をしていたとか、故あってこの８号線沿いに店を構えた由、地の人が多い訳だ。小生はこの前と同じく冷酒、それと通しに「鴨の塩焼き」を所望。カミさんは「厚揚げ」と「とろろおろし」。やヽあって、山菜の天ぷらが出来上がったので如何ですかと、揚げたてを一盛り頂く。コシアブラ、タラの芽、コゴミ、センナなど、この時期の山菜だ。酒が更にすすむ。もう一盛り頂く。大変美味い。しかし鴨の塩焼きは、幾分厚めに切った肉の塩焼きだが、焼き過ぎで硬い上に香りもなく、感心した出来ではなかった。やはり蕎麦前の鴨は鴨ロースに限るようだ。締めに「おろしそば」を頂き、次の竹田へ向かう。&lt;br /&gt;　選挙はどんな具合だろうか。「一の谷」はあわら市なので、隣の市のことは分からないと。竹田へは丸岡を通らないと行けないらしい。丸岡へ寄ったので丸岡城へ案内する。遅咲きの桜が満開で見頃である。城の資料館にも寄り、ここで竹田への道を聞く。竹田渓谷沿いの道が近くてよいとのこと、親切に教えて頂いたとおりに進むと、山竹田に着いた。道を南下して上竹田に至る。幟がはためく谷口家は、日曜ともあって駐車場は満タン、道端に車を停めて店に入るが、席を取るのに長い行列。買い物をしようと思ってもこれまた列。やっとの思いで厚揚げ２枚と絹ごし大２丁にがんも２つを買い、早々に退散した。この山の中でよくぞこの混雑、良い道と車がなければ、こんな地で商売が成り立つ訳がない。&lt;br /&gt;　谷口屋では何も口にすることは出来なかったので、山竹田の新道脇にある「ふるさと渓流」に寄った。店の前には立派な本石楠花が今を盛りの満開。店は広いが、客はほかに１組のみ。山の幸なら、四つ足よし魚よし山菜よしの何でもござれの品書き。そばは地元丸岡の玄蕎麦を使用とあるが、どうも期待できそうにない。しかし、福井県の地元蕎麦を使用する認定店とある。そう言えばそれを証明する幟も立っている。野菜の煮物の付き出し、山菜鍋と冷や酒を頼む。ここにはチャンとノンアルコールビールが置いてあり、カミさんはそれを飲む。仕上げに「おろしそば」を。中太の二八そばは推奨できかねる品。それかあらぬか、客は少ない。日曜の昼というのに、谷口屋とは全く対照的だ。&lt;br /&gt;●　4月30日には探蕎会で丸岡蕎麦道場へ、坂井市長選・市議選は惜敗&lt;br /&gt;　翌週の30日の日曜日、待望の丸岡蕎麦道場行き、参加者もこれまでになく多い。総勢28名にもなり、マイクロバス１台では納まらず、自家用車２台が追加される。天気は上々、国道８号線経由で海道さん宅の蕎麦道場に着く。既にいつもより多い愛好会の方々が満を持して待っておいでた。海道さんの娘御さんもおいでる。動員されたのだろうか。若月さんも、そして小見山さんも、小見山さんは33位で惜敗だったとか、やはり広域選挙となると中々厳しいらしい。それにしても、１年に春秋２回もの訪れ、押しかけ女房のようで、本当に申し訳なく思う。予定より１週の遅れで、待望のコシアブラは無理だろうと話し合っていたのに、着いたら真先に素晴らしい逸品を見せて頂き、只々感謝であった。その天ぷらの美味なこと、加えて美味しい手打ちの「おろしそば」を存分に頂き、お酒は持参した３升４合では足りず、焼酎そば湯割りまで頂く始末、全く申し訳ない。小見山さんお手製のおにぎりも、あっと言う間に無くなった。良い鯖が手に入らず、バッテラは出来なかった由だが、それにしても頭が下がる。終いに近く、海道さんが模範手打ち、全く隙のない流れ、切り揃えたそばは、お持ち帰りにと。おんぶにだっこだった１日だった。只々感謝々々。&lt;br /&gt;　帰路は局長の発案で竹田経由となる。それならば、ぜひ大杉商店の「へしこ」を求めなさいと、小見山さんのお勧め。皆さん賛同され、早速小見山さんが電話される。何しろ樽仕込みなので、それから出して包装するのに時間を要するので、予め連絡するとのこと。薄塩仕込で殊の外美味しいと言われ、20人ばかりが予約。山竹田の三叉路を真っ直ぐ直進すれば右手ですと教わる。今回は道路標識に従って素直に辿ったところ、先週私達が通った竹田渓谷沿いの道となった。三叉路を右と思っていたが、道なりからすれば真っ直ぐが正解と言える。南下する旧道沿いに大杉商店はあった。１パックに二枚下ろしの１尾、凄く立派で大きい。見ればノルウェー産とある。一目見て、小見山さん手製の立派なバッテラを想い浮かべた。店主は帰り際、くれぐれも生でなく焼いて食べて下さいと念を入れられた。加賀の糠漬けなら生でも食べられるのにと思ったが、塩の案配の違いなのだろうか。でもここは郷に入ればの譬えで従わねばなるまい。&lt;br /&gt;　次にお目当ての谷口屋、今日も相変わらずの押すな押すなの盛況、買い物の列は店の外まではみ出している始末、現物を抱え込んで並ぶ方も。いやはや。でも我々のグループには、我関せずと森林浴よろしく外で談笑される御仁もおいでた。一時の熱に浮かされないのは偉い。小生はといえば、へしこ(大杉の薄塩鯖糠漬)１パック、竹田の厚揚げ２パック、同絹ごし大２丁のゲット。今宵はこれがあれば、カミさん共々これで十分な肴。何しろ直仕込なのが良い。充実した１日だった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;[閑話休題]&lt;br /&gt;　後日、カミさんが、とある大型スーパーで「竹田の厚揚げ」を見かけ、買ってきた。賞味期限が３日後ということは２日前の製造ということになるが、運が良ければ、当日製造の揚げに出会えるかも知れない。カミさん、丁寧にも店員に、これは大変有名で美味しい豆腐だと吹聴してきたとか。でも、これもイヤハヤの類である。「絹ごし」は置いてなかったそうだ。これでどうしてもという時があっても、竹田まで行かなくてもよくなった。カミさんもあちこち歩けば、竹田の厚揚げに当たる。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2657683463431170685-942817337303060677?l=kimuranobuaki.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/feeds/942817337303060677/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/08/blog-post_09.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/942817337303060677'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/942817337303060677'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/08/blog-post_09.html' title='瓢箪から駒：福井のそば屋「一の谷」で出た竹田の厚揚げ'/><author><name>木村晋亮（Nobuaki Kimura）</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14545803047520422453</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2657683463431170685.post-6169210126161006750</id><published>2011-08-08T14:07:00.011+09:00</published><updated>2011-08-16T14:54:49.018+09:00</updated><title type='text'>遠州・美濃探蕎の旅の２日目、岐阜に吉照庵を訪ねる</title><content type='html'>　表記表題の初出は「探蕎」会報第34号(平成18年7月20日発行)で、遠州・美濃探蕎の旅に出たのは、平成18年(2006)6月10日と11日、吉照庵を訪ねたのは6月11日である。　　「晋亮の呟き」に再録する。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　「今回は長老扱いに」&lt;br /&gt;　遠州・美濃探蕎の旅の2日目の朝は、浜名湖畔舘山寺温泉の宿「ニューいずみ館」で迎えた。同室は寺田先生と久保さんと私、部屋割りは前田局長によるものだが、これまでは少なくとも小生は長老と目される方々との同室はなかったと記憶しているのだが、今回は到々年寄り扱いにされてしまった。外は霧雨か、湖面が煙って見える。釣り人も傘を差している。御両名は装束を改めて、近隣へ朝の散策にお出かけになった。小生はというと、朝風呂から上がり、部屋で湖面を渡る風を満身に受け、持参の「菊の露」で身を清めていた。そこへ前田局長のお出まし、一献を勧めるが、不要とのこと、代わりに「白州の水」を所望とか。それもよしとするか。&lt;br /&gt;　用件は、今日の探蕎先である「胡蝶庵」と「吉照庵」の割り振りのことである。昨日から案が二転三転、大筋としての、前田・塚野両名の胡蝶庵、木村の吉照庵は良しとして、後の面々は流動的であったが、漸く確定したと。胡蝶庵は１組４名様までとあるので、２卓８名が限度とあって、その辺りが思案のしどころだが、局長の英断で、胡蝶庵８名、吉照庵７名となった。&lt;br /&gt;　「胡蝶は本隊、吉照は別働隊」&lt;br /&gt;　気になったのは、胡蝶を本隊、吉照を別働隊と命名したことである。両庵は岐阜市では双璧だろうが、片や新進気鋭の洗練された蕎麦屋、片や古い街中にある昔からの大衆蕎麦屋、雰囲気が全く違う。胡蝶庵へは、現在地へ移転して２年ばかり経った頃に寄ったことがあるが、鮮烈な印象が残っている。印象記なる拙文を「探蕎」会報第11号の蕎麦屋情報一筆に寄稿したことがあるが、雰囲気としては、とにかくわいわいがやがやとは全く縁がない、静寂が漂う店なのである。本来ならば皆さんに両方の雰囲気を味わって頂ければ、この上ないことなのだが、それは時間的にも無理なことである。それに、胡蝶庵には小型車しか駐車できず、マイクロバスは吉照庵にしか停められない。両店間の距離は長良川を挟んで、直線にして２kmばかり。結論として、バスで胡蝶庵へ行き、局長のいう本隊を下ろし、残りの別働隊はバスで吉照庵に行き、ここにバスを駐車することに。そして本隊は終了後、川辺をブラブラ散歩しながら吉照庵まで帰って来るという手立てにした。&lt;br /&gt;　朝食には軽くビールが付いた。身支度をして、８時過ぎに宿を後にする。東名高速道経由で岐阜市に至る。小生は程よい振動と菊の露とキリンでお休みの体、目が覚めると、車は既に岐阜市に入っていた。長良川に架かる忠節橋が目指す胡蝶庵の第一の目印。以前の記憶では、橋を渡り、電車の線路の手前を左に折れ、最初の踏切を渡り、そこをそのまま進んで掘割を渡ると右手にあったと記憶している。だが電車は廃線になった由。バスは元の駅を左に見て直進する。そこで次の交差点を左に入ってもらう。少々行き過ぎだが、とすれば戻ればよい。道はＴ字路になる。もう近い筈。本隊８名はここで下車し、小生が勘を頼りに先導、先ず掘割へ。ものの１分程で掘割に当たる。そして右へ掘割沿いに進むと、お目当ての胡蝶庵が見えた。既に高級車が３台ばかり駐車している。玄関のつくばいの風情が良い。初めに１組４人、次いで残り４人が庵に消えた。一抹の寂しさを禁じ得なかったが、小走りにバスへ戻る。&lt;br /&gt;　「パトカーに道を尋ねる」&lt;br /&gt;　古い街並みでは路が狭く、特に吉照庵辺りはそのせいで一方通行が多い。塚野さんから頂いた道路地図が頼りだ。橋は一本上の金華橋が目印。バスはとにかく東進して広い通りへ出たら右折して、取りあえず川を渡る算段。ところがかなり東へ進んで右折したのに、渡った橋は忠節橋、リングヴァンデリングだ。気を取り直し、川沿いに金華橋へ向かう。右手には金華山が聳える。バスにはナビは付いてはいるが、吉照庵のある米屋町の表示が出ない。というのも町名表示が昔のままで、町の区画が実に小さい。金沢で言えば、油車や池田町界隈のような感じだ。金華橋を渡ってから反転して南下するが、何処で左折してよいのか全く分からない。丁度とある交差点で止まったところ、隣にパトカーが止まったので、吉照庵はどこですかと尋ねると、次の交差点を左折し、広い通りを道なりに進み、広い通りの交差点を右折、二本目の一方通行の路を入ればすぐとのこと。地理不案内で先導して貰いたい位だった。でも迷わずに着けた。駐車場は広いが、バスの区画はない。鍵を預け、そぞろ店に入る。店は大正初期の数奇屋風の造り、古めかしく落ち着いた佇まい、一見して老舗という感じがする。雰囲気は中々良い。&lt;br /&gt;　中はほの暗い。座敷でもなく、かといって小上がりでもなく、その中間。部屋の感じは百年以上タイムスリップしたよう。昔野々市に「にゅうりや」という仕出しもし、そこで料理を取り酒も飲める店があったが、フッとそんな印象が過ぎった。上がると、ある一画に案内され、漆塗りらしき座机二連に７名が座った。&lt;br /&gt;　「蕎麦前教育不足では」&lt;br /&gt;　姐さんが来たので、取り合えずお酒を５合と言うと、５合もですかとびっくりした様子に、こちらが驚いた。１人５合なら驚いて貰ってもよいのだが。此処では蕎麦前の教育はしていないのだろうか。銘柄を任され、根尾の「薄墨桜」とする。酒の菜は個々に色々と注文する。板わさ、天麩羅、山かけ納豆、そば豆腐、イクラ下ろし等々。やがて薄墨桜が片口に入ってきた。盃も大きくてよい。流行の手作り風だ。と言って、お酒を飲まれない会計担当の米田さんは何を飲まれたかさっぱり記憶にない。別働隊は共同体のような雰囲気で、あれこれ少しずつ賞味する。個々には何ら不満はなく、満更でもない。更に２合の追加を所望する。そばは皆さん「鴨せいろ」を頼んだ。&lt;br /&gt;　「画竜点晴を欠いていた鴨せいろ」&lt;br /&gt;　「鴨せいろ」が来た。そばは長方形の使い込んだせいろ２段に入っている。そばは十割の伝承美濃そばとの触れ込み、色は黒くなく、むしろ白っぽい。伝統の極細打ちだが、そばの太さは不揃い。一見手打ちと分かるが、素人目にも不揃いはいけない。仮にもプロならば、揃っていてほしい。一筋取ってそばの味を味わおうとすると、取れないではないか。団子状とまではゆかなくても、せいろに入っているそばが全部持ち上がってくる感じだ。これは茹でに問題があるのか、締めに問題があるのか、せいろに盛ってから時間が経ち過ぎているのか。ならば,伝統に拘らずに、極細でなく細打ちにした方が良いのではと思ったりする。この日も混んでいて、どれ位の人数が入っていたかは知らないが、しかし天下の吉照庵のそばがこれじゃお粗末過ぎる。出汁の方が上等だっただけに、画竜点晴を欠いていた。&lt;br /&gt;　「小吉と大吉と」&lt;br /&gt;　かれこれ１時間ばかり居たろうか、吉照庵を出る。タイミングよく本隊から連絡あり、松田さんには吉照庵までは遠すぎるので迎えを頼むと。ＯＫせずばなるまい。帰り際フッと見ると、店の外れに道路に面して高札があり、ここが江戸時代、歴代尾張藩主が岐阜御成りの際に本陣を勤めた賀島家があった処とか。その賀島家は明治24年の濃尾大震災で焼失したとのこと、由緒ある地なのだ。&lt;br /&gt;　忠節橋を渡り、件のＴ字路にバスを止め、胡蝶庵へ迎えに行く。本隊第２陣は外にお出ましだったが、第１陣はまだ中とか。入ると奥の間に未だ鎮座。局長の言では、蕎麦三昧が丁度我々で終いであったが、中々良かった由。ただ出てくるのに時間が掛かったので、この時間になったとか。止むを得まい。済むのを待ってバスへ戻る。これで全員集合。こうして今回の探蕎の目的は果たされ、帰路につく。小吉、大吉はあったものの、一応は大団円。当初ではもう一軒という案もあったようだが、高速利用ということで割愛となった。&lt;br /&gt;　「おわりに」&lt;br /&gt;　小生バスに乗っては白河夜船、どこのICから上がったかも知らず、目が開いたら蛭ヶ野PA，清算を兼ねて休憩する。大日ダイナランドスキー場が雄大に広がって見える。晴れていれば、大日岳も白山も見える景勝の地なのに、雲に隠れている。今回の会費は４万円也、それが清算で８千円も戻り、すこぶる得した感じ。参加の皆さんご苦労様でした。特に往復の運転をして頂いた和泉さん、島田の宮本で水酒を飲まれずに和泉さんの運転の代行をされた塚野さんに、深甚の謝意を表したい。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2657683463431170685-6169210126161006750?l=kimuranobuaki.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/feeds/6169210126161006750/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/08/blog-post_08.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/6169210126161006750'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/6169210126161006750'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/08/blog-post_08.html' title='遠州・美濃探蕎の旅の２日目、岐阜に吉照庵を訪ねる'/><author><name>木村晋亮（Nobuaki Kimura）</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14545803047520422453</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2657683463431170685.post-5535770357198031138</id><published>2011-08-05T15:37:00.009+09:00</published><updated>2011-08-07T16:03:06.963+09:00</updated><title type='text'>丸岡蕎麦道場で食した「そば」は最上々、これこそ究極のそばか</title><content type='html'>　表記標題の初出は「探蕎」会報第32号(平成17年12月27日発行)で、訪問したのは平成17年(2005)11月13日である。　　「晋亮の呟き」に再録する。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　平成17年の丸岡の海道さんのところの蕎麦の生育は芳しくなく、二度蒔きもしたとか。また蕎麦の丈も低く、収量も多くなかったそうだ。ところが、蕎麦の質はこれまでになく上質で、しかも完熟前に青刈りしたことによって、玄蕎麦の質が一層高まったと仰る。&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/-2bCgiehTq3Q/Tj427ywE17I/AAAAAAAAAp8/aMkYlSfNBsw/s1600/IMG_3105.JPG"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 400px; height: 300px;" src="http://4.bp.blogspot.com/-2bCgiehTq3Q/Tj427ywE17I/AAAAAAAAAp8/aMkYlSfNBsw/s400/IMG_3105.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5638004184378038194" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　一番初めに「おろしそば」。中細のそばは仄かな鶯色、芳しい蕎麦独特の香り。このそばを見ていると、初めて「ふじおか」へ出かけた時のときめきを感じた。二すじ三すじ口に含む。十割生粉打ちなのに硬くはなく、程よいコシ、二八にも劣らない喉越し、甘味も感ずる。正に逸品である。これ以上の「そば」があろうか。今年出会った「そば」の中で、このそばの右に出るそばはない。これは究極の「そば」だ。正に絶品。&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/-SF4_9LDr-bY/Tj43hrenrJI/AAAAAAAAAqE/qLW4MC8BJII/s1600/IMG_3118.JPG"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 400px; height: 300px;" src="http://2.bp.blogspot.com/-SF4_9LDr-bY/Tj43hrenrJI/AAAAAAAAAqE/qLW4MC8BJII/s400/IMG_3118.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5638004835260804242" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　あまりの美味さに、「水そば」を所望する。水は竹田川の伏流水、水そのものが大変美味い。そばの真髄は、水そばでこそ発揮される。このそばに汁(つゆ)は必要ない。蕎麦自身の持つ色を愛で、芳しい香りに酔い、仄かな甘味を舌に感じ、硬くもなく、柔らかくもなく、正に中庸、啜れば何とも言えない甘美な喉越し、つるつるでもなく、勿論もさもさでもない。正にこれは究極の「そば」としか言いようがない。絶品だ。&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/-HOgUrUe_Pmc/Tj43y8PXf4I/AAAAAAAAAqM/hlpvWTl2AA8/s1600/IMG_3124.JPG"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 400px; height: 300px;" src="http://3.bp.blogspot.com/-HOgUrUe_Pmc/Tj43y8PXf4I/AAAAAAAAAqM/hlpvWTl2AA8/s400/IMG_3124.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5638005131818008450" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　次いで「釜あげ」を貰う。こういう食べ方は市中のそば屋では決して味わうことができないだけに、貴重な経験だ。器に茹で上がったばかりのそばを、少し取り分けて頂く。小見山さんから、醤油はチラッとかけるように、決して余計かけないようにと、助言を頂く。一口頂く。口中に蕎麦の強烈な香りが充満する。ふと、幼いときに祖母が打ってくれた蕎麦の香りが蘇った。何とも不思議な一瞬だった。もつもつした感じ。これなら「そばがき」も最高だろう。&lt;br /&gt;　締めに、再び「おろしそば」を頂く。「越前おろしそば」と言えば、あの硬くて太い黒い田舎そばがベースのおろしそばを思い出すが、とすれば、丸岡蕎麦道場で頂いた「おろしそば」は何と命名すべきか。この「そば」は、先ず絶品の玄蕎麦があって、しかも優れた三立てがないと、生まれる代物ではない。&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/-SIoYMzgvb8k/Tj44cQDp3yI/AAAAAAAAAqc/XJUOVUy-98c/s1600/IMG_3146.JPG"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 400px; height: 300px;" src="http://3.bp.blogspot.com/-SIoYMzgvb8k/Tj44cQDp3yI/AAAAAAAAAqc/XJUOVUy-98c/s400/IMG_3146.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5638005841512226594" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　終りに近く、海道さんが皆さんの前で「そば」を打たれた。これまで何度かお見受けしたが、この春に打たれた時と今度は、京都の「じん六」さんから伝授された技での方法とか。通常の打ち方と違う点の一つは、最初の蕎麦粉への加水に、規定量の８割もの水を一気に加える点で、蕎麦粉が水の中に浮かんでいるような始末、それでも水回しをするにつれて、そぼろ状態になってくる。残りの水を加えて、更に動作を続けると、立派にまとまった。菊練りに入る。ここでもう一点、力任せに強く揉まずに、柔らかく、そして時間も長くかけないことが肝要とか。こうすることで、細かい空気の泡が程よく捏ねたそばの中に分散し、食べる時の口当たりを良くするとか。これが「じん六」の極意の一端とか。次いで延し、４本の麺棒を自由自在に使い分けて延ばす。打ち粉は極力少なくするとか。粉がそばに食い込むと、これまたそばの味を落とす原因になるとか。延していても、そばが縮むのがありありと分かる。粘りがあるというか、実に弾力性に富んだ蕎麦だ。厚い丸い玉が魔法のように、本延し後には薄い正方形になる。延し終わって畳む。この時は打ち粉をたっぷり、もう延しがなければ，食い込まないと。粉は切った後で払えばよいという。切りに入る。実にリズミカルに、等間隔に切り揃えられ、手際よく生舟に並べられる。速い。切った「生そば」を口に含んでみて下さいと。口にすると、口中で溶けてしまう。驚いた。やはり究極の「そば」なのだ。このような方式でのそば打ちは、福井では他にはまだやられていないとかで、他で打つ時は、従来の方式で打つことの方が多いとも。&lt;br /&gt;　今年の蕎麦は質が上々なこともあって、何回かお邪魔した中でも最高の出来だった。探蕎会では丸岡蕎麦道場に春と秋に訪れるのが、半ば恒例化してしまっている。春の山菜、秋の新そば、ご迷惑なのではと思いながらも、次回が心待ちにされる。今回も、海道さん、小見山さん、若月さんのほか、沢山の方々に接待して」頂いた。実に冥加に尽きる。本当に有り難うございました。&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/-iH9ws1tnkr8/Tj44MH06WvI/AAAAAAAAAqU/4HlZ1-nKvIg/s1600/IMG_3111.JPG"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 400px; height: 300px;" src="http://3.bp.blogspot.com/-iH9ws1tnkr8/Tj44MH06WvI/AAAAAAAAAqU/4HlZ1-nKvIg/s400/IMG_3111.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5638005564425001714" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　追記：「そば」のことのみ書いてしまったが、いつも用意して頂く酒肴の、バッテラ、笹寿司、煮物、甘酢漬け、浅漬けなどは、皆さんが丹精込めて作られた品々だけに、大変美味しく、楽しみにしている。中でも特に小見山さん手作りのバッテラは素晴らしく、何時もながら玄人はだしで圧巻だ。感謝々々。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2657683463431170685-5535770357198031138?l=kimuranobuaki.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/feeds/5535770357198031138/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/08/blog-post_05.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/5535770357198031138'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/5535770357198031138'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/08/blog-post_05.html' title='丸岡蕎麦道場で食した「そば」は最上々、これこそ究極のそばか'/><author><name>木村晋亮（Nobuaki Kimura）</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14545803047520422453</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://4.bp.blogspot.com/-2bCgiehTq3Q/Tj427ywE17I/AAAAAAAAAp8/aMkYlSfNBsw/s72-c/IMG_3105.JPG' height='72' width='72'/><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2657683463431170685.post-2060471164576772994</id><published>2011-08-04T14:59:00.039+09:00</published><updated>2011-08-08T08:19:52.917+09:00</updated><title type='text'>今秋の探蕎会蕎麦花茶会の集いは戸室山麓に近い山間の喬屋にて</title><content type='html'>　表記表題の初出は「探蕎」会報第32号(平成17年12月27日発行)で、行事があったのは平成17年(2005)10月29日である。　　「晋亮の呟き」に再録する。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　探蕎会が行なう蕎麦花茶会はこれが４回目、ひょっとして以後は毎年催されることになりそうだ。とはいっても、これは会員の中に松田宗和先生という裏千家の茶匠がおいでるからこそで、とても素人集団では取り仕切れる類のものではない。もっとも茶道に無頓着な小生でも、見てると、当日出席された会員諸氏の４割近くの方は、少なくともお茶会でお茶を頂く作法を心得ていらっしゃると見た。どうも、懐紙と黒文字は必携のようだ。お茶席の後の飲み会で、「加賀に居て、お茶を頂く作法とお能くらいは知っておかないと」と越中の女人から喝破されたのには参ってしまった。さらに重ねて、「お茶会での無作法は、失礼にあたるのですよ」とも。何とも穴に入りたい心境になってしまう羽目に。必要最小限の作法は、来年の茶会までには身に付けるよう、努力せんならんとも。そうだ、探蕎会事務局あたりで、会員用に『茶道作法』「探蕎会茶会でこれだけは守ってほしい心得」という副題を付したマニュアルを作成しては頂けないものだろうか。かくいう小生、石川県職員の時、研修で丸１日かけてお茶の心得・作法を伝授されたが、通り一遍とて、全く身に付かなかった。ただその時「お茶の作法には、全く無駄がなく、且つ合理的な所作である」と言われたことだけが、今でも脳に刻み込まれている。&lt;br /&gt;　今年の会場は、当初の行事予定では10月19日の水曜日に、第２回と第３回の会場となった旧鶴来町の「草庵」とのことだった。でも、お茶会で30人も集うには幾分狭い嫌いもなくはなく、誰が最初に邂逅したのか、それで今回の会場の「喬屋」に白羽の矢が立った。７月半ば、前田局長と小生とが検分と交渉を兼ねて出かけ、日は二転三転したが、結果として10月29日の土曜日に決まった。ただ、これだけ時期が遅くなると、恐らくは会長から蕎麦花の提供を委嘱されているだろう早川先生にはご迷惑なのではなかろうかと、ふっと先生の顔が浮かんだ。&lt;br /&gt;　今年はどうしたことか、週末になると天気がよくない。勤め人の小生にとっては、土・日は山へ行くかきいれ日なのに、何ともやりきれない。案の定この日も雨。和装の方々は大変だ。中でも女性の方はどうされるんだろう。道行ぐらいではどうにもならない雨、大型のマントかポンチョをスッポリ纏えば濡れずに済むのではと思ったりする。まことに恨めしい雨御である。&lt;br /&gt;　お茶会は午後２時の開席、１時半の集合。会場の「喬屋」は金沢市俵町、バスの便はあるものの、２時間に１本という山間の地、自家用車という手はあるものの、お酒が出るとあっては、「飲んだら乗るな」との鉄則もあることから、事務局には山へ向かうバスの時刻を予め皆さんにお知らせしてはと提案してたのに、その返事はない。局長には何か思案があるのだろうと思っていたところ、迎えに上がるとのこと。これにはたまげた。ただし10時に。前田局長の迎えは４回に及ぶという。何と献身的な。現地参集が当たり前なのにと思うと、彼の人となりに只々感謝々々。初回は野村会員同道のお道具運び、２度目は山から下りて野々市で小生を、返して野町で寺田先生を、そして清川町で松田宗匠を迎えに上がり、再び山へ。雨の中、再度、再々度と迎えが続けられた。本当にお疲れ様でした。&lt;br /&gt;　局長の言では、今日は送迎の任に当たるので、お酒は口にしないとか。何と殊勝な、事務局長の鑑とも思える言。ところが、集合時間近く、漸く４巡目が済み、安堵の顔を見せる局長に労いの言葉をかけたところ、「帰りの送りはカアちゃんにまかせて、酒を飲むことにした」と。突然の変心。原因は何と平澤会員提供の「十四代」に目が眩み、白旗の由。でも良かった。飲みたいのに飲めない彼を前にしては、小生ならずとも気が滅入る。&lt;br /&gt;　筑後20年の欅造りの建物の１階は田の字型、奥の２間がお茶会の席、襖を外し、床の間には掛け軸を、床には三彩(白・紅・黄)の蕎麦花、その前にはお手前をする風炉が設えられ、上手に藍色の毛氈と下手にはコの字に緋色の毛氈が敷かれ、お茶席が完成した。手前左手の１間は控えの間、右の１間はお水屋、皆さん甲斐々々しい。用意は整った。&gt;&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/-wJuXZZJOJA8/Tj4ppNvxFkI/AAAAAAAAAo0/NLccXGC3Bkk/s1600/IMG_0987.JPG"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 400px; height: 267px;" src="http://2.bp.blogspot.com/-wJuXZZJOJA8/Tj4ppNvxFkI/AAAAAAAAAo0/NLccXGC3Bkk/s400/IMG_0987.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5637989571555825218" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/-_pXY2p1TOxc/Tj4swq9dOpI/AAAAAAAAApc/IifWpKHz9Fo/s1600/IMG_0980.JPG"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 400px; height: 267px;" src="http://4.bp.blogspot.com/-_pXY2p1TOxc/Tj4swq9dOpI/AAAAAAAAApc/IifWpKHz9Fo/s400/IMG_0980.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5637992998191839890" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　会員諸氏が席に着かれたところで、波田野会長からご挨拶。お茶会は定時を少し回って、松田宗匠の口上があり始まった。お手前は塚野会員の御愛娘、お運びは袴姿の野村会員とお美しい着物姿の米田会員、正に絵になる。正客は波田野会長、次席は越浦副会長、次いで岩先生、寺田先生、そして着物姿の永坂先生、早川先生と続く。後は会員諸氏適宜。広いのでゆったりしている。菓子が運ばれる。懐紙と黒文字は持ってない人もあろうかと、松田宗匠が受付を申し出られた寺田先生に託されたお陰で、正座した会員諸氏の前には、必携の品がチャンと揃っている。皆さんお菓子を取り分けられ、賞味される。&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/-hUKVzxGPD2c/Tj4qNGbfW3I/AAAAAAAAAo8/1z2nS3JJ1FU/s1600/IMG_0989.JPG"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 400px; height: 267px;" src="http://4.bp.blogspot.com/-hUKVzxGPD2c/Tj4qNGbfW3I/AAAAAAAAAo8/1z2nS3JJ1FU/s400/IMG_0989.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5637990188067019634" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　やおら、時を見計らって、一服目が正客へ。間を置いて、水屋からもお二人によって順次お茶が運ばれてくる。お茶会半ばには、この後出し物を提供される予定の斉藤社中の方々が、そして終りに近く塚野会員が止めに入られた。父には娘さんがお茶をお運びされる。感激の一瞬、誰となくフラッシュが焚かれる。かくしてお茶会は賑々しく、ちょっぴり厳かにお開きとなった。それにしても、広いということは良いことだ。初回の宗匠の清遊庵での会では膝をくっつけ合って座ったし、次回の草庵では２回に分けて行なったし、次々回の草庵では出し物もあって立礼だったことを思うと、場所の不便さを差し引けば、今回の会場は文句の言いようがなかった。ただ、お道具はできるだけ簡略にされたとは仰るものの、運び込みし、セットして、本番を取り仕切り、片付けして、持ち帰らねばならず、大変な労力だ。&lt;br /&gt;　次に、斉藤社中の出し物、お二方による三弦と篠笛の調べに歌澤、そして斉藤会員による書のコラボレーション、15分の時間一杯で諸氏を堪能させた。心憎い限り、プロのなせる仕業だ。書は傍らに陣取った会長の申し出に応じて、「探蕎」と筆太に揮毫され、そして落款。ここで会長からさらに「そば三彩の宴にて」の署名の希望、再び筆を取り申し出に応じられる。場所が場所なら畳大の紙に極々太の筆でとも。そう言えば、そのパフォーマンスに以前お目に掛かったことがある。&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/-BK2n3dDXi6c/Tj4qt3ZfWpI/AAAAAAAAApE/B7f3Jsrm10k/s1600/IMG_2912.JPG"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 300px; height: 400px;" src="http://3.bp.blogspot.com/-BK2n3dDXi6c/Tj4qt3ZfWpI/AAAAAAAAApE/B7f3Jsrm10k/s400/IMG_2912.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5637990750967782034" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　諸氏の協力のお陰で片付けが終わり、飲みの会に移る。テーブルの配置では議論百出、船頭多くしての例えの典型、終いは喬屋の女将の言で漸く決着。お茶会の２室と控えの間が使われることに。右奥の重厚な黒塗りの台は会長以下４人の長老、永坂・早川両先生は左奥のテーブル、松原顧問は奥さん共々右中のテーブル、後は三々五々、ただ何故か右手前のテーブルは女性のみになった。酒解禁となった局長と「十四代」提供の平澤会員、塚野・宮川両会員と小生は、目論見もあって左手前のテーブルに、遅れて入って来られた松田宗匠は永坂席、野村会員は松原席、斉藤社中の人達は控えの間のテーブルに。&lt;br /&gt;　会長の乾杯の挨拶で会が始まった。料理は田舎仕立てで量はたっぷり、酒は局長仕込みの「鄙願」が６升と「十四代」が４合、徳利はなく、１升瓶からの直注ぎ、２本では行き渡らず４本に、漸く行き渡ったようだった。「十四代」は当初左手前のテーブルで処理する予定だったけれども、仏心が出て、局長は長老席と野村会員へ。さすが、私欲に駆られないところが良い。塚野会員も運転を断念しての参画、お陰で小生も心置きなく飲むことができた。ありがたい。&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/-yhEcNs0EfyE/Tj4rsYvsJMI/AAAAAAAAApM/472bixsmP58/s1600/IMG_1064.JPG"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 400px; height: 267px;" src="http://2.bp.blogspot.com/-yhEcNs0EfyE/Tj4rsYvsJMI/AAAAAAAAApM/472bixsmP58/s400/IMG_1064.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5637991825071154370" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　やおら、控えの間では、お琴が設えられ、斉藤女史はヴァイオリンを手に登場。先の歌澤の折に、歌澤の文句が書かれた紙の裏に、文部省唱歌「もみじ」と「四季の歌」の歌詞が書いてあり、皆さんこれを歌って下さいと。初めの予定に入っていたのかどうかは怪しげだが、ともかくも斉藤女史のパフォーマンスにまんまと乗っけられてしまった．勢いとは恐ろしいもので、会員の歳も考慮し、皆さんが歌えるように選曲をしたとあって、大合唱となってしまった。何ということか、アンコールをという声まで。全く驚いた。それに応えて、譜面はないけれどと１曲あったが、何だったかは記憶が定かではない。ただテキサス在住の伊藤さんの娘さんの寺田さんがケンタッキーに住んでいたことに共鳴された永坂先生が、彼女との短い英語でのやりとりの後、洲歌の「ケンタッキーのわが家」を原語(英語)で歌い出された。しかし、歌ったのは随分昔のこととあって、途中までとなってしまった。かく言う小生もできると思いきや、やはり脱落してしまった。時間を忘れての宴、楽しい一時だった。&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/-AWs3Zwm2DHs/Tj4sKfWl-LI/AAAAAAAAApU/cflNEXE4lk0/s1600/IMG_1070.JPG"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 400px; height: 267px;" src="http://3.bp.blogspot.com/-AWs3Zwm2DHs/Tj4sKfWl-LI/AAAAAAAAApU/cflNEXE4lk0/s400/IMG_1070.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5637992342241015986" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　それにしてもメインの「そば」は、付け足しになってしまった感を拭えない。痺れを切らした会長の発声で、漸くメインであるべき「そば」が出てきた。１日25食しか打たないという主人に聞くと、１週間分を打った位疲れたとか。でも酒飲みの身に、「そば」は格好の滋養で、私は２枚も頂いてしまった。しかし、会長の最初の１枚の提供から、殿の小生の２枚目まで、随分と時間がかかった。お開きの予定は午後４時半だったが、全部片付けが終わったのが６時半、最後に私たちが辞したのは８時過ぎ、長い人は12時間のご苦労であった。&lt;br /&gt;　喬屋での蕎麦花茶会は、来年に向けて、いろんな課題を提供してくれた会だったと思う。最後に、茶会を主宰された松田宗匠と会員の送迎に多大なお骨折りを頂いた前田事務局長と御奥方に深甚なる謝意を表したい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;● お料理メモ&lt;br /&gt;　・五種盛り(銀杏酒粕漬.鰊煮.丸干し烏賊.生姜佃煮.茗荷酢漬）&lt;br /&gt;　・茸三種盛り(しめじ佃煮.ならたけ佃煮.ますたけ味噌漬）&lt;br /&gt;　・煮豚.煮玉子.レタス添え　　・小芋煮.柚子添え　　・胡麻豆腐.下ろし生姜添え&lt;br /&gt;　・小松菜.しめじ.薄揚げの和え物　　・蕪.胡瓜.人参の漬物　　・奈良漬&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/-ikqDjUi88V4/Tj4yfvY1knI/AAAAAAAAAp0/ip-Dg4FEsTI/s1600/IMG_1068.JPG"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 400px; height: 267px;" src="http://4.bp.blogspot.com/-ikqDjUi88V4/Tj4yfvY1knI/AAAAAAAAAp0/ip-Dg4FEsTI/s400/IMG_1068.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5637999304392413810" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;● 斉藤社中の皆さん（敬称略）&lt;br /&gt;　・斉藤千佳子：書（斉藤千霞）と　ヴァイオリン演奏&lt;br /&gt;　・伊藤美智子：歌澤（歌澤芝駒恵）と　三弦、箏演奏（伊藤美智恵）&lt;br /&gt;　・水谷美代子：篠笛演奏（藤舎秀代）&lt;br /&gt;　・寺田　淳子：箏演奏　［テキサスから］&lt;br /&gt;　・Ｓ．ルース：　［ニューヨークから］&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2657683463431170685-2060471164576772994?l=kimuranobuaki.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/feeds/2060471164576772994/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/08/blog-post_5233.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/2060471164576772994'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/2060471164576772994'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/08/blog-post_5233.html' title='今秋の探蕎会蕎麦花茶会の集いは戸室山麓に近い山間の喬屋にて'/><author><name>木村晋亮（Nobuaki Kimura）</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14545803047520422453</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://2.bp.blogspot.com/-wJuXZZJOJA8/Tj4ppNvxFkI/AAAAAAAAAo0/NLccXGC3Bkk/s72-c/IMG_0987.JPG' height='72' width='72'/><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2657683463431170685.post-3012839266780845832</id><published>2011-08-04T10:09:00.010+09:00</published><updated>2011-08-16T14:35:59.479+09:00</updated><title type='text'>蕎麦屋情報一筆：「喬屋」（金沢市俵町）</title><content type='html'>&lt;br /&gt;　表記表題の初出は「探蕎」会報第31号(平成17年10月28日)の蕎麦屋情報一筆で、訪ねたのは平成17年(2005)7月16日である。　　「晋亮の呟き」に再録する。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　「喬屋」の名を初めて聞いたのは、６月半ばにあった探蕎会の西国への小旅行の時だったろうか。以来少々気になっていた。さて、前田書店のホームページに、局長は根気よく「日めくり日記」なるものを書き記しているが、その６月17日付けの日記に、ようやく喬屋を尋ね訪ね、これが初見とあると。しかし、そこで何ともう３回目とかの石野さんに出会ったとか。あの料理教室主宰の先生が、懲りもせずに出かけているとあっては、いやが上にも行きたくなるというのが人情。そしてその後、前田局長も何度か足を向けた由。そして私に曰く、分かり難いから、行くなら、わしが案内すると。&lt;br /&gt;　機は熟した７月の頭、行きたいのだがと誘ったが、あそこのは柔らかいから、今日のところは「敬蔵」でと、何故かその時は軽くいなされた。それじゃ啼くまで待とう。それから半月経ち、薮入りの16日の土曜日、今日はどうかと電話すると、即色好い返事が返ってきた。11時に前田書店へ、そして喬屋へ案内してもらう。&lt;br /&gt;　田上から昔通い慣れた医王山への道を俵へ、戸室山界隈には唯一と言う有名な信号のある交差点の手前を右に折れる。そしてその道をやや進み、用水の手前を右に曲がると、小さな「喬屋」という看板があり、そこをまた右へ、これでは初見じゃ大変だ。前田局長の言が嘘偽りでないことが判明する。漸く辿り着けた。周りは水田、家はまばら、独りで初めてじゃ、確実に途方に暮れるだろう。&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/-y4-04FCDvbs/TkoBkyM00UI/AAAAAAAAAsU/l0CF049bAw8/s1600/IMG_2848.JPG"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 400px; height: 300px;" src="http://4.bp.blogspot.com/-y4-04FCDvbs/TkoBkyM00UI/AAAAAAAAAsU/l0CF049bAw8/s400/IMG_2848.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5641323214697451842" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　玄関を入る。デッカイ家だ。30人は優に入ろう。主人が出て来られ、一番奥へと。座してお茶を頂く。早速に「ざる」を所望する。ややあって届く。ソバは先ずまずの出来。腰もあり、喉越しも良く、仄かな香りもする。小さなホシが点々。ただ量は少なめだ。つゆは中庸か。次にもう１枚「おろし」をお願いする。ソバは同じ、おろしは大根のみ、やや多め、辛くはない。局長曰く、今日のは良いと。そして、小生の風体を観て、気を入れたのではないかとも。&lt;br /&gt;　訪れた時は、他に客はなく、主人の藤田喬さんの話を聴く。開店は４月15日、そば打ちは「唐変木」、究めは「多門」とか。特に宣伝することはなく、奥方の口コミのみ。蕎麦は越前大野産、石臼手挽きで、二八で１日25食のみ、追い打ちはせず、売り切れ御免の由。&lt;br /&gt;　建物の総欅造りの館は建築時一億円とも、住人は年寄り婆さん独りとなり、比較的安く買い受けたとか。でも買主の当主はここではなく、金沢市南郊の額にお住まいとか。探しあぐねた物件だったとも。今秋10月末に、探蕎会の蕎麦花茶会を此処ですることになっているが、十分ゆったりのスペースだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　住所は金沢市俵町ヨ67。　営業日は金曜～月曜と祝祭日。　営業時間は午前11時30分から。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2657683463431170685-3012839266780845832?l=kimuranobuaki.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/feeds/3012839266780845832/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/08/blog-post_04.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/3012839266780845832'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/3012839266780845832'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/08/blog-post_04.html' title='蕎麦屋情報一筆：「喬屋」（金沢市俵町）'/><author><name>木村晋亮（Nobuaki Kimura）</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14545803047520422453</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://4.bp.blogspot.com/-y4-04FCDvbs/TkoBkyM00UI/AAAAAAAAAsU/l0CF049bAw8/s72-c/IMG_2848.JPG' height='72' width='72'/><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2657683463431170685.post-3644851574323458903</id><published>2011-08-03T14:07:00.008+09:00</published><updated>2011-08-03T17:45:25.004+09:00</updated><title type='text'>大杉谷の蕎麦</title><content type='html'>　表記表題の初出は「探蕎」会報第30号(平成17年7月10日発行)の蕎麦屋情報一筆で、大杉谷へ出かけたのは、平成17年(2005)5月28日である。　　「晋亮の呟き」に再録する。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　とある春の一日、前の週には雨で登り損ねた大日山へ出かけた。あの日はヤマケイ紹介の蟹ノ目山(ガンノメヤマ)へ行くという前田組長を無理やり大日山へ転向させたまではよかったが、登山口へ行くと生憎のザーザー降り、結局天気でこっちが折れてしまい再転向、結果として前田組の方が初志貫徹ということに相成った。６日置いた土曜日、前田組は日本百名山の越前荒島岳へ、夕方用事のある小生は大杉谷、鈴ヶ岳経由で大日山を目指すことにする。久し振りの大杉谷、とは言っても大杉谷はれっきとした小松市内、車は立派な車道を進む。ふと左手に、「そば」の看板が、近頃流行りの「ついで蕎麦」だろうと思いながらも、縁があれば帰りにでも寄ろうと思い先を急ぐ。道はやがて杉林の林道となり、初めは舗装だったが、やがて車１台が精一杯の細々とした山道に、対向車が来たらどれ位バックしなければと思うと気が滅入る。しかし、朝早いせいもあってか、どうやら登山口に辿り着けた。既に先着２名、そして後着１名。聞けばこの３名、還暦間近の退職組の面々。この年になって、山にはまってしまったと。毎週土曜の遍歴とか、恐れ入った。&lt;br /&gt;　小生これまでに３回の大日山行は、すべて山中温泉の奥の真砂(まなご)から、大杉谷からは初、一度訪れたいと思っていた。山道は先ずまずの整備、大杉兜が見える頃、白山も遠望でき、鈴ヶ岳の頂を経て大日山に至る。尾根筋は春の山花が一杯。前田組長推奨のデジカメの威力に感謝しながらの満足山行となった。雪田跡のサンカヨウの群落、カタコガ原のカタクリの大群落、灌木のタムシバ、ミツバツツジ、ムシカリ、それにホンシャクナゲ、林床にはミヤマカタバミ、トクワカソウ、オオバキスミレ、エイザンスミレ等々の群生。出作り小屋下の湿原には植栽したと思われる水芭蕉田もある。往復５時間のところ６時間半もかけてゆっくり逍遥し、山を下りた。&lt;br /&gt;　再び大杉谷の舗装道に戻って、件のそば屋を探すがなかなか見つからない。諦めかけた頃に、漸く小さな貼り紙を見つけた。入り口には「ゆるぎ荘」とある。はて、宿屋だったか。この田舎にと思う。中は薄暗い。人夫らしき２人が酒を飲み談笑している。親爺が相手をしているところを見ると、常連らしい。特にわしには挨拶はない。カウンターを占拠されているので、止む無く奥の炭火が燃え盛っている大火鉢の一角に陣取る。先ずビールを所望。品書きには川魚の焼き物とあるから頼むと、１時間はかかると。これから川へ獲りに行くのか、これには参った。つまみはと聞くと、何とかすると。やゝあってセンナが出てきた。&lt;br /&gt;　やおら喉が潤ったところで、１日20食とかいう十割り蕎麦を所望すると、これは未だあるという。添いのバアさんが奥で何かガサゴソしている。やがて、深い大きめのドンブリに、かなり多めの細めの平打ちのソバが大杉谷の清流に浸かって、水蕎麦の風情で出てきた。ドンブリには緑の枝葉が。これは何じゃ。そりゃ大杉のお茶じゃと。親爺さんは相変わらず例の二人連れと相手。バアさんはわしと相手。お茶葉を食べるようにとうながされ、茶葉をそぞろに噛む。そばは正に水そば。で、蕎麦は先ずまず。つゆはついているが、無しでも可だった。水が美味しいからと言われ、多少濁っていたが呑まされてしまった。蕎麦の御代は壱千円也。今まで経験したことのない蕎麦だった。&lt;br /&gt;　「ゆるぎ荘」は動山(ゆるぎさん)由来かと聞くと、そうだと、裏山だと。このとき小生はまだ登ってはいなかったが、話には聞いていた。また山へ来た時には寄ると言って辞した。二人連れは既に帰り、親爺は外で仕事をしていた。帰りに顔を合わしたら「有り難う」と言ってくれた。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2657683463431170685-3644851574323458903?l=kimuranobuaki.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/feeds/3644851574323458903/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/08/blog-post_03.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/3644851574323458903'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/3644851574323458903'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/08/blog-post_03.html' title='大杉谷の蕎麦'/><author><name>木村晋亮（Nobuaki Kimura）</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14545803047520422453</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2657683463431170685.post-8001238595622138411</id><published>2011-08-02T14:24:00.015+09:00</published><updated>2011-08-03T09:44:54.783+09:00</updated><title type='text'>「そば」とアレルギー</title><content type='html'>　表記標題の初出は「探蕎」会報第29号(平成17年4月17日発行)で、この一文を作成したのは平成17年(2005)3月13日である。　　「晋亮の呟き」に再録する。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　探蕎会に入っている人は、皆さん蕎麦好きで蕎麦愛好家、中には高じてそば屋を負かす腕前の人もいる。蕎麦好きが原則であるからには、そばを食べない会員はいないはずだ。ところで、そばアレルギーの方は、例え好きであっても、そばは食べられないはずで、食べないとすると、そのような方は、探蕎会とは全く縁がないということになる。ところが、昨年秋の山形蕎麦行に際して欠員ができて、何方か希望の方はいませんかと、事務局からお誘いがあり、お三方が会員外で同行されたが、そのうちのお一方は私がお誘いした方で、温泉と蕎麦が大好きという、この企画にはうってつけの方だった。松川さんといわれ、私が勤務する協会の役員である。時に、松川さんからいつ告白されたかは定かではないが、「実は私そばアレルギーなのです」と。では、何故蕎麦が好きなのかと聞いたところ、「蕎麦は好きだけど、黒姫近辺の蕎麦を食べると、蕁麻疹のように体が痒くなるので、北信濃産の蕎麦は避けている」とのこと。また「他の産地の蕎麦では、そんなことは起きない」とも。こんな奇特な人と出会ったのは初めて、大変興味深く、少し調べてみることにした。&lt;br /&gt;　そばアレルギーといっても、症状は、激しいショックを起こして死亡することもあるアナフィラキシーから、発疹や口の痺れ程度まで、重いものから軽いものまで、千差万別であるらしい。ところで、食物アレルギーのうちで、よくある小麦、牛乳、鶏卵、海老・蟹に対するアレルギーは、長じて大人になると不感性になって、治ってしまうこともあるそうだが、ことそばアレルギーの場合は、死ぬまで治らないと言われている。しかも、食物アレルギーの中では、生死に関わるのは唯一「そば」のみとも。&lt;br /&gt;　インターネットで「そばアレルギー」を検索すると、夥しい数の例が出てくる。身体に入るルートとしては、喫食(経口的)、吸入(経気道的)、接触(経皮的)が主なものであって、いずれのルートでも体内に入ればアレルゲンとして作用するようである。明らかに蕎麦や蕎麦粉が入っている食品の喫食では当然起きるとして、通常は全く入っていないと思われるような食品でも、添加されていたために起きた例も大変多い。例えば、お菓子、お好み焼き、春巻き、ギョーザ、グラタン、コロッケ、ソーセージ等々である。蕎麦もやし(蕎麦の若芽)、蕎麦花の蜂蜜、そば焼酎も該当するようだ。また、そば屋のうどん、そばを扱ううどん屋のうどんも、そばとうどんが、茹でや湯通しで同居したり、打ち台や打ち粉の共用で付着したりすれば、元凶となり得る。花が咲いている頃の蕎麦畑の傍やそば屋の前を通っても、喘息や蕁麻疹になる人もいるとか。中には長野へ行けないという人も。そして極め付きは、「蕎麦入り胡椒」の存在で、メーカーは一切増量剤として用いてはいないとはいうものの、症例があると言うことは、疑わしいと言わざるを得ない。挙句の果ては、それを用いたカレー、ソース、ドレッシング、たれで起きた例もあるとか。&lt;br /&gt;　さて、本題に戻ろう。松川さんの症状は極めて軽い方に属していると言えるが、問題なのは、黒姫近辺の蕎麦でのみ起きるという点である。初めて聞いた時は、昨年中毒死の事故があったスギヒラタケのことがフッと頭を過ぎった。私も昔から上品な美味しさで重宝して食べていて、昨年も数回頂いて鍋にしたが、全く異常はなく、初めは狐につままれた感じがしたものだ。しかしマウスの実験で毒性が確認されたとの報道には驚いてしまった。原因物質は糖蛋白であろうと推定されていて、含有量には地域差があること、90℃の加熱では毒性は残るが、100℃に熱すると無毒化するという。このような地域差が蕎麦にもあるのだろうか。&lt;br /&gt;　そこで、取り合えずそばアレルギーの原因物質に関する文献がないかと、永坂先生にお願いしたところ、程なく米田さんから一編の紹介があった。学会の英文抄録であったが、その概要は発表時にトピックス「そばアレルギーの原因物質を特定」として、平成14年(2002)9月に朝日新聞と読売新聞に掲載されたという。ここでは、国立成育医療センター研究所の田中和子さんが、太平洋アレルギー・免疫学会で発表された学会誌の英文抄録と所属研究所のホームページを参考に概要を紹介しようと思う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;[抄録標題]：ペプシン抵抗性の16kDaのソバ蛋白がそばアレルギー患者の即時型過敏症反応に関係している．&lt;br /&gt;[背景]：蕎麦は多くの国々で健康食品として敷衍しているが、アジアを中心としてそばアレルギーが増加している。蕎麦はアナフィラキシー症状を惹き起こすことの多いアレルゲンとしてよく知られている(食物アレルギーの３％を占める)が、その重篤なアレルギー反応を起こす原因物質は未だ特定されてはいなかった。&lt;br /&gt;[アレルゲンとなる原因物質]：田中らは、これまで蕎麦粉の中に存在する24kDa(キロダルトン)(注1)の大きさのソバ蛋白が主なアレルゲン(注2)物質であると報告してきた。事実、この物質はそばアレルギーの大部分の患者血清中に存在するIgE抗体(注3)とは結合することは確かめられている。その後の研究で、16kDaと19kDaのソバ蛋白も、アレルギー検査(RAST)(注4)で蕎麦に特有なIgE抗体を持ち(検査陽性)、かつ蕎麦を食べてアナフィラキシー(注5)を起こしたことのある人の血清と反応すること、しかし、このソバ蛋白は、アレルギー検査は陽性だが蕎麦を食べてもアナフィラキシー症状が出ない人の血清とは反応しないことが判明し、より特異性が高い活性物質と推定された。次に、これら３つのソバ蛋白を胃液中の酵素のペプシンで消化し、消化後にこれらソバ蛋白がソバIgE抗体とどう反応するかをみたところ、16kDaのソバ蛋白のみ未消化で結合することが確認されたが、他の２つは消化されて結合能は消滅することが判明した。&lt;br /&gt;[結論]：そばアレルギーの中でも、アナフィラキシーを含む即時型過敏症反応を起こす患者の血清中には、胃液中の酵素で消化されにくい低分子量(16 kDa)のソバ蛋白に対するIgE抗体が存在する。この抗体は重篤な症状を示さないそばアレルギー患者の血清中には存在していない。しかるに、より大きくかつ胃液中の酵素で消化される 24kDa のソバ蛋白は、通常のそばアレルギー抗体検査ではその IgE抗体は検出されるものの、重篤な蕎麦による即時型過敏症反応とは無関係であることが判明した。ということは、蕎麦粉に含まれるソバ蛋白のうち、ペプシンで消化されない低分子量(16 kDa)のソバ蛋白のみが、アナフィラキシー症状を惹き起こす原因物質であると結論づけられた。ちなみに、16kDaと 24kDaのソバ蛋白のアミノ酸配列を比較したところ、全く類似性がなかった。&lt;br /&gt;[展望]：今後、この成果を生かして、重篤な症状を伴うそばアレルギーであるかどうかを確実に診断する方法の開発が期待される。&lt;br /&gt;（注１）：キロダルトン＝1,000ダルトンのことで、分子の質量単位。分子量と考えてよい。&lt;br /&gt;（注２）：アレルゲン＝アレルギー(過敏症)を起こす物質(抗原)。&lt;br /&gt;（注３）：ＩｇＥ抗体＝免疫グロブリンＥのこと。アトピー(Ⅰ型即時型過敏症反応を起こしやすい体質)患者のアレルゲンに対する特異的抗体(レアギン)で、即時型過敏症反応を惹起する機序の本体。&lt;br /&gt;（注４）：ラスト法＝放射性アレルゲン吸着試験。血清中のⅠ型即時型過敏症の発症抗原に対する抗体の定性・定量を行なう。複数のアレルゲンを検索できる。ただこの方法は、吸入性アレルゲンについての信頼性は高いが、食物アレルギーについての診断的価値は低いとされている。&lt;br /&gt;（注５）：アナフィラキシー＝Ⅰ型即時型過敏症。全身アナフィラキシーでは、ペニシリンショックのように激しい全身症状(呼吸困難・血圧低下による意識喪失・蕁麻疹)が現れ、時に死に至る。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　以上が、蕎麦で起きる激しいアナフィラキシーを起こす原因物質の概要であるが、ここではより軽いアレルギー症状に関係する物質については言及していない。蕎麦にも地域によってソバ蛋白の量の多寡に差が出ることは十分考えられるし、ある地域の蕎麦にのみ特有なソバ蛋白が存在することも考えられなくもない。イムノブロッティングの結果をみると、前述の３つのソバ蛋白のほかにも、いろんな大きさのソバ蛋白が存在していて、一部ペプシン抵抗性のソバ蛋白もある。これら全てのソバ蛋白がアレルギーに関係しているとは思えないが、人により、ソバ蛋白に対する IgE抗体の獲得に差が生じているとすれば、そばアレルギーの表現型に差が出てきても不思議ではない。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2657683463431170685-8001238595622138411?l=kimuranobuaki.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/feeds/8001238595622138411/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/08/blog-post_412.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/8001238595622138411'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/8001238595622138411'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/08/blog-post_412.html' title='「そば」とアレルギー'/><author><name>木村晋亮（Nobuaki Kimura）</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14545803047520422453</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2657683463431170685.post-1989801211576263770</id><published>2011-08-02T08:56:00.007+09:00</published><updated>2011-08-02T12:46:17.849+09:00</updated><title type='text'>道の駅「瀬女」に蕎麦処「山猫」を訪ねる</title><content type='html'>　表記標題の初出は「探蕎」会報第29号(平成17年4月17日発行)で、「山猫」を訪れたのは平成17年(2005)2月14日である。　　「晋亮の呟き」に転載する。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　旧紀元節の日、何となく見ていたテレビ朝日に、尾口（今の白山市）の瀬戸に昨年12月開店した「山猫」の取材が映し出されていた。「そうか、そう言えばそんな名を誰かから聞いたことが」。画面では、男性が15食限定の「石臼手挽きそば」を、女性が「付け鴨そば」を食し、当然のことながら、「うまい」「本当にうまい」「こんなに美味しいのは食べたことがない」の連発。そしてオーナー田口夫妻とのインタビュー。いつか「多門」が取材放映されて、あの山の中へそば愛好者？が殺到したことを思い出した。あの頑固親爺には迷惑じゃなかったのか。&lt;br /&gt;　翌日の土曜日の朝、余り天気が良くなかったのと、前日の酒宴で体調が本復しないこともあって、スキーを見送ったが、段々天気が良くなるのに気を悪くし、ままよそれなら「山猫」への遠征をと思い立った。昼を少しずらして午後1時半を目処に、道中はすいすい、「いくら放映されたと言っても、まさかはや殺到にはまだ早かろう」と思い込みながら、馴染みの「瀬女スキー場」へと車を走らせた。ところが着いてびっくり、何と、及びもつかない程の車の数、第１～第５駐車場は満タンなのか、溢れた車は第６と称する「道の駅」の一角にも、夥しい数が。そしてお目当ての「山猫」にも次々と客が。もう中を覗くまでもなく、超満員の有様に断念。１時間かけて来たのに、スキー場も満杯、そば屋も一杯、でもこんないいこことはないと祝福しつつ、その場を去った。３日前の９日には、平日だったこともあって、スキー場はガラガラ、お陰でユックリ、バッチリ滑られたのに。これじゃ今後どうなるのかと心配したが、土日がこうなら、まあ何とかなるだろう。&lt;br /&gt;　再度の挑戦は、日曜日を挟んだ指定休の月曜日、天気予報が外れて晴なのに狂喜し、勇躍瀬女高原スキー場へ。午前９時から午後３時まで、お陰さまでガラガラのゲレンデで１日スキー公望、そしてやおら３時半に「山猫」へ。外からは主人が蕎麦を手挽きしているのが見える。中へ入る。右に折れ、やや進んで左が店内、右にカウンター５席、左の上がり框に座テーブル３脚、奥から６人、５人、４人とみた。先客は１組の夫婦のみ。小生は右のカウンターへ。取り合えず蕎麦前は純米冷酒に供は鴨焼き、そばはやや間を置いて「白山しぼり」太打ちを所望。鴨は塩・胡椒のみでの焼きに生姜と白髪葱、鴨はいささか薄味で物足りない。次いで挽きぐるみの「白山しぼり」、辛味大根のしぼり汁と出汁と薬味、薬味には天然山葵と葱と味噌。そばは細長の手びねりの浅鉢に三つ盛りに、ホシも大きく粗挽きで、噛めば蕎麦の香りが口中に広がり上等、程よい硬さ加減、先ずまずの出来だ。先客は加賀市からとか、「こんなに美味しいそばが、こんな田舎に」とか言い残して帰って行った。&lt;br /&gt;　終わって暫らく、私はまだお若い夫婦と会話を交わしたが、素朴で朴訥で真面目、慢心しなければきっと素晴らしいそば屋になること請け合いだ。そばはすべて生粉打ち、手挽きは15食のみ、ほかは電動石臼、いずれも粗挽き、印象からふと縁続きの「敬蔵」を想った。帳場に「山英」「宮川」「敬蔵」の名刺が置いてあった。山英の親爺のことを聞いたら、今は営業しているとか。先ずは安心。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;［資料］①蕎麦前：冷酒(福正宗純米) 600円、熱燗(銘なし) 400円、鴨ぬき 300円、鴨焼き 500円、鰊 500円、そば豆腐 300円。　②飲み物：ビール、ノンアルコール、ウーロン茶、ジュース。　③冷：山猫の石臼手挽きそば 1,000円、蕎香もりそば 800円、白山しぼり 900円、付け鴨 1,300円。　④温：かけ 800円、きのこ 1,200円、鴨南 1,300円、卵とじ 1,100円、にしん 1,300円。　⑤他：そばがき 700円、そばがきぜんざい(抹茶付き) 700円、山菜ごはん 300円、おろしそば 800円。　⑥玄蕎麦：手挽き(丸岡在来種)、細打ち(福島会津在来種と岩手在来種)、太打ち(北海道沼田オトネップ)。　⑦大根：白山しぼり(下伊那辛丸大根)、蕎香(自家産雪美人と野々市福田産ねずみ大根)。　⑧葱：自家産葱と千住葱。　⑨鴨：仏バルバリー種マグレ・カナール。　⑩出汁：枯本節、枯宗田、枯鯖、うるめ鰯、利尻昆布。　⑪器：増井洋子(金沢の陶芸家)、米田万太郎(美濃焼)　作陶。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2657683463431170685-1989801211576263770?l=kimuranobuaki.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/feeds/1989801211576263770/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/08/blog-post_02.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/1989801211576263770'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/1989801211576263770'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/08/blog-post_02.html' title='道の駅「瀬女」に蕎麦処「山猫」を訪ねる'/><author><name>木村晋亮（Nobuaki Kimura）</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14545803047520422453</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2657683463431170685.post-3114909203714286305</id><published>2011-08-01T14:15:00.007+09:00</published><updated>2011-08-01T17:15:36.612+09:00</updated><title type='text'>山形探蕎行つれづれ・ささの巻</title><content type='html'>　表記標題の初出は「探蕎」会報第27号（平成16年10月6日発行）で、行事があったのは平成16年(2004)9月18~20日である。　　「晋亮の呟き」に転載する。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　山形への探蕎行の朝、会長御下賜のささ、預かり受けし事務局の長より披露あり、ささは若狭の産の大吟醸酒、名は「長瀬浦」、聞くは初めてなれど、会長先生の頂きものとあれば、さぞや美味ならん。昨夏の山形探蕎行の会長差し入れのささの純米大吟醸酒「梵」を想う。想うに、昨夏の山形行きの乗合い車の中にて、「毒味を」との御下言に甘え、試飲せしが、余りもの美味に、この世にかくなるささがあるものかと驚嘆せしことを。この日、ほかに差し入れのささは、松任坊丸の「天狗舞」山廃吟醸のみ。いとさびし。&lt;br /&gt;　車そぞろ進みて、越中に入る頃、まだ冷え足りぬとは想うものの、喉の渇きを抑うることあたわず、まず一本を所望。昨年に懲りて、会長御下賜のささは、ご参加の皆々様と共に頂くこととし、今一本のささを開く。はたと困りしこと有り。喇叭飲みも憚られ困りしところ、同行の茶匠の友なるご夫妻、数個の丸き紙製容器を持参されしとのこと、お借りすることとする。何と用意周到な、感謝々々。所望されし面々に、嵩の多寡あれどお注ぎ申す。味は先ずまずか、別段苦情なし。残りのささは、その後、車後部座席に陣取りし約三、四名の呑み助の胃の腑に納まりし由。いとうまし。&lt;br /&gt;　車は、館長の名運転にて越後中条に至り、高速道路を下路する。よく走りし車にも油を補給、また事務局の長の計らいにて、同乗の人様にも給油をと、とある銘酒販店に立ち寄りて、ささを求む。何と心温まる所作ならん。ささの名は「〆張鶴」吟醸酒、名に聞こえし越後村上の銘酒。これもまた美味。いとうれし。&lt;br /&gt;　初日に目指す蕎麦店は、白鷹の「千利庵」、蕎麦前は天童の「出羽桜」吟醸酒。くせなく、美味しいお水というところか。いとすがすがし。&lt;br /&gt;　この日は、蕎麦の後、鮎の簗場へ向かう予定なりしが、天候下り坂の由、一気に蔵王刈田岳に向かい、蔵王のお釜を拝む。昨年秋はここより強風濃霧の中、熊野岳に至り、蔵王温泉に下りしことを想う。車に戻りし頃、雲霧去来し、視界閉ざされ、運良きを喜ぶ。いとつきよし。&lt;br /&gt;　今宵の蔵王温泉の宿は、深山荘高見屋。淡い乳白色の湯に浸りし後、夕食の宴。飲み物は麦酒とささ。ささには地酒五品を所望、それぞれ二合を飲み比ぶ。ところで面々の評価は極めて不評、わずかに「出羽桜」一品のみまずまずとの評価。いとまずし。&lt;br /&gt;　後で会長御下賜のささに大いなる期待を託し、早々に席を立ち、部屋へ。いよよ御期待の御開封、固唾を呑む。冷酒を硝子容器に少々入れ、試飲。前回御下賜の「梵」は、飲み後に、心地よい吟醸香と、えもいわれぬ旨さを感じたが、冷えが過ぎたせいもあるのか、含み香も少なく、旨さでないクセが口中に残る。諸侯も早々にもう結構と宣う。このささは玄人好みか。少なくとも凡人向きに非ず。半升よりは減らず。誰言うともなく、これからの御下賜は「梵」に限ると。会長へはどう御伝言すべきか。いとつらし。&lt;br /&gt;　翌朝は、有志にて残る御下賜のささを頂く。昨日より冷えが緩く、味はやや円やか。それでもまだ残りあり。未だ三合を残す。朝食時の飲み物は麦酒のみ。今日の探蕎は原点の蕎麦店「あらき」の予定。途次の車中、ご婦人方に御下賜のささを賞味頂く。中にお一方が美味と仰る。この一言は会長にぜひ御報告せねばなるまい。佳き知らせ。肩の荷が下りる感じ。「あらき」には一刻に滑り込み。正に満員の盛況。ささなしで、次の鮎の簗場に期待。利き酒は男より女の方が適任とも。いとすごし。&lt;br /&gt;　白鷹の簗場は鮎祭りの中日とて凄い人出、焼き鮎を食うにも長蛇の列、諦める。尺弱の大きさ、梁には落ち鮎の姿はなく、果たして天然かと。早々に立ち去る。いとがやがやし。&lt;br /&gt;　この日の宿は、昨夏もお世話になった、白布温泉の中屋別館不動閣。今宵のささには、地元東根限定販売の新聞包み一升瓶「六歌仙」を壽屋で求める。夕の宴は孔雀の間、麦酒とささ、ささは地元米沢の地酒「富久鶴」、料理の多いこともあって一人一合が二合に、程よく可もなく不可もなき本醸造の燗酒。部屋へ戻り、「六歌仙」を飲む。飲むほどに、昨夏にこの部屋で談論風発した「ソクシンブツ」の話が、今回は止めとする協定せしが、再燃する。本来は「即身(成)佛」なるが、小生「即神仏(位)」として話を進める。昨夏は初代から三代、今回は酒席討論に参加の御仁から、相応しい四代と五代を名誉ある即神仏に推挙することに。また蒙古行きも、駒ヶ根行きも、大いに談ずる。いとたのし。&lt;br /&gt;　三日目の朝、御下賜の三合のほかは全て胃の腑へ収め、清々しく宿を発つ。昨夏は雨で断念した白布大滝も滝下迄至る。小径に近く、金漆(コシアブラ)の喬木多し。因みに、笹野一刀彫の鷹ポッポはこの木の由、材は白く柔らかい。今年も帰りに不動閣限定の、昨夏も頂いた「富久鶴」の一合瓶を頂く。商標紙に、米沢の方言の「おしょうしな」はともかく、仏語、英語、独語で、「メルシ」「サンキュー」「ダンケシェーン」と、横文字と片仮名で。発案は酒蔵と中屋の社長の合作とか。いとおもしろし。&lt;br /&gt;　笹野観音、上杉家御廟所を経て、米沢の蕎麦処「蕎酔庵」に至る。十一、十割、共に逸品、山形探蕎行の〆に相応しい。付録は名店「吉亭」での葡萄酒付き牛肉焼き。かくして探蕎酒行は終幕を迎える。今回は師匠の参加なかりし。いとさびし。&lt;br /&gt;　閑話休題&lt;br /&gt;　帰宅して、会長に、御下賜の「長瀬浦」の復命をする。女性一名からのお褒めと小生は玄人受けするお酒と評した。会長曰く、このお酒は漁師の間で愛飲される酒だと。道理でクセについて行けなかったのだと納得した。そこで、肝入りの鮟鱇鍋で「長瀬浦」を飲み直した。あのクセが正に鮟鱇にしっくりと合い、至福の時を過ごせたのは、望外だった。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2657683463431170685-3114909203714286305?l=kimuranobuaki.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/feeds/3114909203714286305/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/08/blog-post_883.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/3114909203714286305'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/3114909203714286305'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/08/blog-post_883.html' title='山形探蕎行つれづれ・ささの巻'/><author><name>木村晋亮（Nobuaki Kimura）</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14545803047520422453</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2657683463431170685.post-7474425038805682297</id><published>2011-08-01T10:15:00.005+09:00</published><updated>2011-08-01T13:28:02.351+09:00</updated><title type='text'>西東京ひばりが丘に「たなか」を訪ねる</title><content type='html'>　表記標題の初出は「探蕎」会報第25号(平成16年4月18日発行)で、「たなか」へ出かけたのは平成15年(2003)11月23日である。　　「晋亮の呟き」に転載する。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　昭和40年頃、私が探蕎会会長の波田野先生に師事した前後、石川県衛生研究所に在籍していた縁で、国立公衆衛生院、国立予防衛生研究所、東京大学医科学研究所へ、延べ１年間ばかり研修に出された。その頃は足も健脚で、この間、休日には東京というか関東一円の山々へよく出かけた。と同時に、東京のそば屋を、山本嘉次郎の「東京食べある記」を手に、よく探訪した。「藪」「更科」「砂場」の系統のほかに、この系統によらない店もあって、その中に「田中屋」もあった。在所は練馬、今でこそ街中だが、東京でも未だ田舎の風情が残っていた。&lt;br /&gt;　昨年の暮れに、柴田書店から、新訂「名店案内・そば店１００」が出され、見ると、以前の「田中屋」は主が代わって、「名月庵ねりま田中屋本店」となり、銀座と赤坂にも支店を出す大店となっている。読むと、創業は昭和31年。しかし、創始者の田中さんは、奥様の療養のため、店を平成８年に現オーナーの野口さんに譲り、廃業したと。でも何と言ったって、田中さんが偉かったのは、当時ほとんど機械打ちだったのに、手打ちを始めたことだろう。都心からも、客は来たようだ。ただ、当時私が寄ったのは、何も手打ちに惚れた訳でなくて、単にそば屋食べ歩きの一端で寄ったに過ぎない。&lt;br /&gt;　さて、本を捲ると、東京23区外に「たなか」西東京市というのが目に止まった。読むと、かの田中さんの店であるらしい。西部池袋線ひばりが丘駅南口から徒歩５分とある。この駅は、保谷市にある叔父の家を訪ねる時に下車する駅だ。&lt;br /&gt;　11月末のとある日の昼下がり、ひばりが丘駅に降り立った。連れは家内。「たなか」の地番は駅近くの１丁目15番９号、電柱の表示を見ながら歩く。途中に枝道はない。しかし、歩くにしたがって、14番に、そして13番に。狐につままれた感じ。ギブアップ。自転車の小父さんを止めてかくいう店はと聞くと、慣れた口調で、「先の十字路を左へ曲がって暫らく行くと、左に『この先行き止まり』という看板が出ているから、そこを左に、すると奥の突き当たり左にあります」と。やっと電柱に「たなか」という看板が。もう間違える心配はない。ほっとする。「来たぞ」という感じ。&lt;br /&gt;　樹々が多い住宅地、見れば、新そば色の洋館、外に燻し板の看板がなければ、全くもってそば屋とは判じ難い。玄関へ入ると、もう20足位、「どうぞ」の声で中に入る。足元はグレイの絨毯、二人掛けの机に案内される。もう満席に近い。お品書が出る。そばは、粗挽きそばの「せいろ」と「かけ」が共に500円、「そばがき」(手廻石臼挽）1,000円、そして無漂白の地粉使用の手打ちの釜揚げうどんが600円。そして野菜と生車海老の天ぷらが各600円、自家製玉子焼き(地卵使用)が600円、ほかに「そばぜんざい」600円、大納言のブランデー漬け400円、自家製シャーベット400円。それで、「せいろ」２枚、「そばがき」、野菜天と海老天を所望する。安いので、量が少ないのではと心配になり、お姐さんに「せいろ２枚では少ないですかね」と聞くと、「天麩羅がありますから、大丈夫ですよ」との返事。安心した。&lt;br /&gt;　程なく、長方形の赤い塗りのせいろに、薄緑色の中細のそば、普通のもりの量、蕎麦は茨城産の新蕎麦、丸抜きの石臼自家製粉で、打ちは外一とか。薬味は、刻み葱と辛味大根下ろし。つゆはもり用は濃く辛く、野菜天用は淡く甘い。海老は塩で召し上がって下さいと。&lt;br /&gt;　そばは、色といい、香りといい、粗挽きの感触といい、そして喉越しといい、申し分がない。さすがの家内も返す言葉がない様子。天ぷらがこれまた美味い。特に生け車海老の歯触り、拘りを感ずる。油は太白か。美味い。そして、そばがき。外が黒塗り、内が赤塗りの椀に、巾着に絞った大振りの蕎麦掻きが。薬味は、下ろし山葵。程よい大きさに取り分けて、つゆを浸けて食する。蕎麦の香りと味が口中に広がる。訪ねて良かった。周りはと見ると、皆さん玉子焼きをご注文、どうも目玉のようだ。ぜひにとは思ったが、外には沢山の方々が。また、次の機会にしよう。酒や茶やジュースを置かない理由が分かる。&lt;br /&gt;　外へ出る。天気は上々、汗ばむ陽気。待つ人も心得た様子。通りの袋小路には、次から次と、丁度昼時、席数は24と聞いたが。凄い人気だ。駅までに２組から「たなか」は何処ですかと尋ねられた。例の返事をしたのは、言うまでもない。&lt;br /&gt;　陽は高い。家内に「この近くに「ほしの」という生粉打ちの店が」と私、「そばばかりでお腹がふくれたら、今晩の横浜はどうなるの？」。ここは家内に従わねば。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　営業時間：午前11時～午後４時。定休：月曜と第３月曜。駐車：１台のみ(要予約）&lt;br /&gt;　店内禁煙。生麺クール宅急便発送可能。電話：0424－24－1882 。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2657683463431170685-7474425038805682297?l=kimuranobuaki.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/feeds/7474425038805682297/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/08/blog-post_01.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/7474425038805682297'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/7474425038805682297'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/08/blog-post_01.html' title='西東京ひばりが丘に「たなか」を訪ねる'/><author><name>木村晋亮（Nobuaki Kimura）</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14545803047520422453</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2657683463431170685.post-4825720195763291536</id><published>2011-08-01T08:29:00.004+09:00</published><updated>2011-08-01T13:35:19.615+09:00</updated><title type='text'>「敬蔵」で福井丸岡産新そば試食の記</title><content type='html'>　表記標題の初出は「探蕎」会報第24号(平成15年11月29日発行)で、「敬蔵」へ出かけたのは平成15年(2003)11月12日で、この日は開店して６ヵ月と２１日目にあたる。　　「晋亮の呟き」に転載する。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　「敬蔵」が休業日の11月12日の水曜日に、通常の営業日の営業時間帯である「午前11時半～午後2時半と午後5時半～午後8時のお好きな時間に、新そばを差し上げますので御来店下さい」との案内状を頂いた。案内状一葉でお二人様までとあって、家内や２,３の人に声をかけたが、小生の空いている昼時は都合が悪いとかで、結果として独りで出かけることになった。&lt;br /&gt;　当日の献立は、「新そばの相盛り」と「旬の盛合わせ」、お目当ての越前丸岡産のそばの方は、細打ちは、抜き実の30メッシュ篩いの粉、太打ちは、玄蕎麦を同様に挽いて篩った粉による、いずれも生粉打ち、新そばは打ちやすいとかで、細打ちは極細とまではいかないが、いつもよりかなり細めの仕上がりであった。選択は「相盛り」と「大盛り」のみ、私は「相盛り」を選んだ。&lt;br /&gt;　信楽焼きの大皿に、仄かに淡い緑色をした細打ちの堆い盛りと田舎そばの盛りとの相盛り。そして、同じ焼きの角皿に、和紙に載せた可愛い新そばの蕎麦掻きの天麩羅２個と一摘まみの天塩添え、笹の葉を敷いた蕎麦豆腐のみそ漬け３切れの蕎麦芽添え、銀杏のそばつゆ炊き２粒２連、それに地物秋摘みの春菊の胡麻和えの４品盛り合わせ。&lt;br /&gt;　そばつゆの薬味は、辛味大根の下ろし、葱の小口薄切りと下ろし生山葵。丸岡産の在来種の玄蕎麦は小粒であり、その磨かれたものを仕入れたとか。また抜き実の方は、甘皮の淡緑色が眩しい位、若干早めに収穫したものだろう。新そばの細打ちは、味・香りとも申し分がない。また細めとあって喉越しも良い。つゆはなくてもよいくらいだ。太打ちの方は、しっかりと噛んで味わえ、これが田舎そばだという感じだ。私はこの田舎そばの太打ちだと、いつも「おろしそば」として食するが、それは正解のようだ。蕎麦猪口に浸して食べるより、冷えた片口に入った冷たいつゆに、辛味大根の下ろしと葱の薄切りを薬味に加えて、三具足の鉢に入った太打ちの田舎そばにぶっかけて食べるのが似つかわしい。&lt;br /&gt;　終りに蕎麦湯が出たが、敬蔵の蕎麦湯は蕎麦粉を溶いたもので、かなり濃いものだ。これは人により好き好きだが、私はそばの茹で湯の方が好きだ。もっともこれにもそれなりの良さはあるのだが。&lt;br /&gt;　呆気なく、相盛りは私の胃の腑に納まってしまった。客が次々と訪れる。主人との会話の中で、今度の日曜日、丸岡の蕎麦生産者の処へ行くと話した。それにしても今回の細打ちは、これまでで最も良かったように思う。「ご馳走さま」と礼を言って外へ出る。帰り際に「祝儀はどうしましょう」と言ったら、笑っていた。玄関に入る時はなかったようだったが、入口には「今日はお休みです、案内状お持ちの方のみお入り下さい」との張り紙がしてあった。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2657683463431170685-4825720195763291536?l=kimuranobuaki.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/feeds/4825720195763291536/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/08/blog-post.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/4825720195763291536'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2657683463431170685/posts/default/4825720195763291536'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://kimuranobuaki.blogspot.com/2011/08/blog-post.html' title='「敬蔵」で福井丸岡産新そば試食の記'/><author><name>木村晋亮（Nobuaki Kimura）</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14545803047520422453</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2657683463431170685.post-6035164676994801600</id><published>2011-07-28T15:47:00.023+09:00</published><updated>2011-07-29T12:36:00.373+09:00</updated><title type='text'>出雲探蕎行第三日（出石の巻）</title><content type='html'>　標題の初出は「探蕎」会報第24号(平成15年11月29日発行)で、行事があったのは平成15年(2003)10月17～19日で、標題はその３日目(10月19日)の印象記である。　　「晋亮の呟き」に転載する。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　出雲探蕎行の２日目の宿は、湯村温泉の「さんきん」、誰だってあそこのお湯だけは貶せまい。単純泉のようだというが、湯上りの後の身体の火照りは何故か、微量成分のせいなのだろうか。不参の永坂先生なら解けたろうが。その先生差し入れの「吉田蔵」、昨晩のダイエー＝阪神戦をネタに傾けたものの、未だ半分は残っている。それが気になって３時半に起きた訳ではないが、闇に乗じて内湯に出向き、ゆっくり浸かる。独占。ただ掛け湯が何時までも水なのには参った。湯上りに「吉田蔵」、窓の外の屋根に置いておいた酒は、程よく冷えていて、美味い。&lt;br /&gt;　皆さんお目覚めの後は、昨晩の申し合せで、春来川の川辺にある足湯へ出向く。三々五々、「さんきん」と焼印の入った下駄でカランコロンと。着いた温泉橋の袂の「荒湯」は何と98℃とか、濛々たる湯煙、続く同じフロアに「中の湯」「上の湯」、そして一段下がった川段に「下の湯」、とても人間様が浸かれる湯温ではない。因みに、卵は順に、20分、15分、30分で茹だるとある。昨晩の小塩・砂川御両人お土産の温泉卵は「上」で完熟、恐らく察するに、「中」も完熟だろう。半熟希望なら、時間を半分に。ところで、本来の温泉卵生産用湯は「下」らしい。卵ケースが何十も入った箱を浸けるのを目撃しているからだ。察するに、この湯の温度は、黄身は固まるが、白身は固まらないように調整されているらしい。ところで、川には所々お湯が湧出しているようで、キケンと書いてある。しかし何と、丸々と太った錦鯉が悠然と泳いでいるし、目を凝らせば、ウグイも黒々と群れている。&lt;br /&gt;　川沿いの散歩道の土手には、有名人の手形のリリーフがかなりの数見受けられる。何方の趣向なのか。でもあまり繁々と見ている人はいない。小生もそれに倣う。ふと、対岸を見上げると、手招きする会長と局長が目に入る。『君、此処へ来たら、あれを見なきゃ』の御託宣、流れ上手の森下橋を渡ると、そこは猫の額ながら「夢千代公園」とあり、夢千代像がお立ち、そして何と、ピカピカの吉永小百合さんの手形、川辺の手形が錆で皆黒ずんでいたのとは全く対照的である。小生も倣って触る。冷たいが、彼女の手と思うと、奇妙な感慨が湧く。ホンマモノなら、こうはゆくまいに。これだとチュッも可能である。会長の御託宣に忠実に従っただけのことはあった。&lt;br /&gt;　清正公園の展望台へと気が動いたが、誰もそんな素振りはなく、やむなく諦めて帰宿。そして朝食、ここで「吉田蔵」が空いた。因みに最後の「止め」は会長様、目出度し。空の吉田蔵は、美形の女将が「お預かりします」とのことで託することになった。昨晩はついぞそのお姿を見かけなかったのに。&lt;br /&gt;朝の出発は９時、目指すは出石、そば屋は２軒程度、と、久保ナビ社長からのお達し。何をせずとも事が順調に運ぶのは、この人に負うこと極めて大、感謝々々。支度をして玄関へと下りたが、面々の顔はなく、どうも小生が殿になったらしい。通りへ出ると、彼方に手招きする女性が見える。急ぐ。そこには件のマイクロバスがいて、皆さんは既に御着席、女性に礼を述べて、感謝の握手をした。他意はなかったのに、誰とはなしに、役得との声が。後で聞いたのでは、宿のお嬢さんだとか。そうか、「さんきん」は女将とお嬢で守っているようなものだと納得した。それにしてもこの宿で、木村伊兵衛ばりの写真を撮り逃がしたが、それは後の祭り。&lt;br /&gt;　定刻少し前に温泉町を離れ、Ｒ９を経て、出石町へ向かう。途中、村岡町の道の駅では、特産の大粒の黒豆を求める人もいた。２時間弱で着いた。バスが停められる西の丸駐車場に入る。いよいよ出石皿そばの探訪である。駐車場には町の図とそば屋の在り処を印した大看板がある。数えて53、これまでツアーで２回、探蕎会で１回、都合３回の印象は、皿そばというスタイルが珍しいのみで、そばが美味かったという印象は全く無い。こう書くと、御当地御家老末裔の岩先生からは、お小言
